諍い
さて、一応、顔は出したし、帰ろうかな。
既に法事なんだか宴会なんだかわからない状態になった場所を抜け出し、明路はエプロンを畳んだ。
お母さんに挨拶して帰ろう、と思ったのだが、その姿がない。
広い家の中を捜していると、和室から口論する声が聞こえてきた。
「わかってないのは、あんたの方よっ」
……やばい。
和彦の母の声だった。
触らぬ神になんとやら。
和彦に帰ると言って、此処は何も言わずに去ろう、と思ったとき、障子が開いた。
げ。
中腰のままフリーズした明路を見下ろし、和彦の母は言う。
「明路さん、お疲れさま。
仕事なのに、抜け出してきてもらって悪かったわね」
は、はい……。
お先に失礼します、すみません、
と、思ったのだが、声に出たのかどうかは定かではない。
見下ろす目線に、強面の犯人より怖い、と思っていたからだ。
そのまま彼女は行ってしまい、自分も去ろうとしたが、中から呼び止められた。
「明路さん」
はいいいいっ! と部屋側に向けていた背筋が伸びる。
仕方なく振り返り、中を覗いた。
予想はしていたが、そこには喜佐子が座っていた。
「ごめんなさいね、騒がしくて。
あまりにも姉さんに腹が立ったものだから」
いや、まあ、いつものことですから、と思い、愛想笑いしていると、喜佐子は眉間を指で押さえながら言う。
「どうしてあの人は、人の気持ちのわからない……。
貴女を此処に呼んだら、口うるさい親戚連中の前で、貴女が厭な想いをするとか一切考えないのよ、あの人は。
私がちょうど帰国してきている息子夫婦を連れていくと言ったものだから、それに張り合うことしか考えてないの」
いや、まあ。
ご親戚の方に何か言われても、私、聞いてませんし。
どうせ、私には関係ないことだと思ってるから、気にしてませんが、
と思ったのだが、やはりこれも声に出たかどうか自信がない。
女同士の
「昌生さんに対しても、貴女に対しても、失礼でしょうに。
昌生さんは、この先も意識は戻らないとは言われたけれど、それでも、あの人、生きているのよ」
口調は、今、喧嘩した勢いのまま厳しかったが、充分、喜佐子の優しさが感じられた。
「確かに、和彦が今のままでは可哀想とも思うけど。
それにしても、姉さんは、貴女に甘え過ぎよ。
和彦の子を身籠った貴女をあんなに罵倒しておいて。
あまつさえ、貴女を犯人呼ばわりしたくせに」
いや、それは彼女からしたら、当然のことだったのだろう。
彼女の頭の中では、私が和彦さんを好きだということになっていたし。
だったら、その妻を狙い、植物状態にしたのは、私かもしれないということになる。
それに――。
「私です」
え、と喜佐子が顔を上げた。
「私が犯人なんです」
そう静かに彼女に告げる。
「私には、わかっていたんです。
あの日、あの事件が起きることを。
わかっていたのに、私は昌生さんを助けられませんでした」
「まさか、それで和彦と居るの?」
そう。
彼が自分を罵倒したからだけではない。
自分が罵倒されるべき立場にあると理解したからこそ、彼の恨みと呪いを素直に受けたのだ。
「ありがとうございます」
と明路はその場に手をついた。
「お気遣いありがとうございます。
でも、お母さんを責めないであげてください。
あの人は、何も考えてらっしゃらないだけです、和彦さんのこと以外。
それだけなんです」
昌生さんのことも、私のことも、葵のことも考えてはいない。
いや、恐らく自分のことさえも。
「私にも少し、わかります。
私も親ですから」
少しの間のあと、喜佐子は、
「……あの子は元気?」
と訊いてきた。
「はい。
和彦さんそっくりです。
顔も性格も」
と苦笑する。
喜佐子は少し、会いたそうな顔をしていた。
可愛い甥の、その娘に。
「そう。
じゃあ、相当面倒な性格ね」
そう喜佐子は笑ってみせる。
明路が喜佐子と笑って話し出すのを聞いて、和彦はそっとその場を後にした。
明路が彼女に向かい、自分の母のために、頭を下げるのを見ていた。
……そのあとの言葉が余計だが。
明路が悪くないことは、もう今の自分にはわかっている。
だけど、許せない。
昌生が自分の前から居なくなったというその事実が。
身体はあそこにあるが、二度と目覚めることはなく。
自分を罵倒しながら、皮肉に嗤うこともない。
なんのために産まれてきたのかさえ、わからなくなりそうだった。
なんのために、か。
そんな台詞を口走りたいのは、自分より葵だろうが、と思う。
あんな状況下で出来た娘でも、その親が明路でも。
やはり子どもは可愛い。
親だと名乗れず、共に暮らすことも出来なかったのは、やはり、自分に与えられた罰なのだろう。
明路に対して、理不尽な行いをした。
その罰だ。
それにしても、あれだけ愛した昌生には子どもが出来なかったのに、何故、明路にだけ。
縁とか、相性とか。
そんなものでは計り知れないものが、この世にはある気がする。
それは明路でも同じことだろう。
何故、服部由佳の子どもではないのかと彼女もまた思ったはずだ。
途中で足を止めていたせいで、部屋から出てきた明路に追いつかれた。
彼女はこちらを見、
「じゃ、部長。
私、お先に戻りますから」
と軽い調子で言ってみせた。
部長、か。
此処では仕方なく和彦さんと呼んでいるが、もうそういう時間は終わったということなのだろう。
その方がいい。
情を移したくもないし、移られても困る。
部下として可愛くないわけではないが、女としては、また別だと思っている。
「俺もすぐ戻るから」
と言って、
「捜査の方はいいですから。
本業の方、頑張ってください」
と笑われた。
玄関先に脱がれた大量の黒い靴を避けながら、遠くにポイ、と己れの靴を放る。
明路は少し無理をして、その靴に向かい、飛んだ。
遠すぎたようだ。
よろけて、開いたままの扉を掴んだとき、門の向こうに、屋敷の姿が見えた。
なんだろう、と思ったとき、背後から声がした。
「明路さん」
はいっ、と畏まる。
「気をつけて帰ってね」
和彦の母だった。
たまたま通りかかったのか、見張っていたのか。
「はいっ。
ありがとうございますっ」
と叫ぶように言い置き、明路は笑顔で何度か頭を下げて出て行った。
それを見ていたのか、外に居た屋敷が言う。
「明路さんでも、苦手な人、居たんですね」
「でもって、なに?」
と言うと、
「いえ。
誰にでも偉そうなので」
と特に責める風でもなく言った。
「ところで、なにしに来たの」
「此処だと思ったんですよね。
それで、お話があったので」
という屋敷と並んで歩き出す。
彼はそこで黙った。
大層重要な話なのかと、その顔を見ると、
「……明路さん」
と自分を見つめ、呼びかけてくる。
「なに?」
「素敵ですね、喪服も。
なんだか艶っぽくて」
藤森が居たら、この暇な、ど阿呆を逮捕しろと叫び出すところだろう。
湊なら、黙って、溜息をつくだけだろうが。
まさか、本当にそんな用件で来たんじゃないだろうな、とちょっと疑う――。
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