第一章 日常
それぞれの朝
大欠伸をしながら、鏡を覗いた。
朝日に眩しいそこには、今洗ったばかりの濡れた顔がある。
顔立ちにはあまり変化はないが、全体的に色素が薄くなってきている気がする。
明路は、己れの顔を眺めながら、そっと冷たい鏡面に手をやった。
「明路ーっ。
なにやってんのよ、あんた。
たまには早く行きなさいよっ」
はいはいはいはい、と学生時代から変わらぬ叱責を受けながら、タオルで顔を拭く。
もう一度、自分の顔を見た。
『彼』が消え、なんだか過去の自分の顔に近づいてきた気がする。
それはイニシエの記憶が戻ったからなのか。
それとも、あの姿こそが、服部由佳のかけた呪いだったのか。
コーンスープのようないい匂いがしてきた。
「おかーさん、今日こそ、お味噌汁にするって言ってなかった!?」
明路は振り返り叫ぶ。
大豆のイソフラボンで肌が奇麗になるとテレビで言っていたのだ。
「はいはい。
あんたももう歳だもんね~」
と返されて、ぐさっと来た。
自分で振った話題なのに。
「帰り、劉生さんち寄って、この間お借りしたお花の本、返してきてよ」
「……お母さん、まだこの間の事件、解決してないんだけど」
「どうせまた、迷宮入りでしょ。
ほんと、この辺りの警察、間抜けよね~」
身内が犯人なんじゃないの、とロクでもないことを言い出す。
「ドラマの見過ぎ」
「いいから早く食べちゃって」
はいはい、と返事しながら、鏡をもう一度、振り返る。
そこには『今』の自分の顔が映っていた。
その階段に立つと、霊が見えるという噂がある。
確かに見える。
いつもそれはやってくる。
階段をゆっくり這い上がってくる、影のようなもの――。
あーあ。
まだ治まらない欠伸をして、明路は階段に腰を下ろした。
ひんやりした風に揺れた髪が頬をくすぐる。
それを手で押さえたとき、背後でふわりと気配が動いた。
横に誰かが座る。
「つまらん奴だな」
と言われた。
開口一番それか、と思いながら、明路は、そのまま風に吹かれていた。
「いつまで、こんな場所に執着してる気だ?」
ぱたり、と相手の揺らしたシッポが、腰をくすぐる。
なんというか、平和だ。
平和も平穏も落ち着かない。
こんなことでいいのだろうかと焦る気持ちが湧いてくるからだ。
町は全然変わっていないように見える。
店が潰れたり、出来たりはしているが、全体として、そう大きな変化はない。
変化があったのは、この幽霊階段だけだ、と明路は階段下を見る。
欠伸をした。
自分ではない。
横に居る猫又だ。
あの頃にも、今にも死にそうなことを言っていたが、未だに生きている。
「仕事に行け」
膝に右頬を乗せて、くつろいでいると、猫にそんなことを言われた。
じゃ、寝るのが仕事な貴方は、今から寝るんですかね、と思いながら、明路は振り向く。
猫を見た条件反射として、その頭を撫でてしまい、払われた。
小さな頭蓋骨だなあ、と思う。
猫にこんなこと言うのもなんだが、鳥みたいな小さな骨だ。
「焼き鳥が食べたい」
で、酒だな。
「……何故、私を見ながら言う」
「名前つけてあげようか」
「なんだ、急に」
「シロとかポチとかミケとか」
猫又が溜息をつきながら、尻尾を揺らし、
「シロ以外、却下だろう」
と言うので、口を開きかけたら、
「呼べという意味ではない!」
と怒鳴られる。
気の短い野良猫だ。
「うちに来なよ」
白い猫は答えない。
「いいじゃない。
『シロ』になって、暮らそうよ」
彼は一人、あの屋敷に住んでいる。
今はもう住むものも居ない。
ピアノと一体の女の霊だけが居るあの場所に。
「成仏すればいいのに」
「私のことか?」
「貴方は生きてるじゃない。
偽マリアのことよ」
あの人は、またも息子を守れなかった。
もう全て忘れて別人になればいいのに。
そう思いはするが、強烈過ぎる前世というのは厄介だ。
自分たちにしてみたところで、生まれ変わっても、誰も忘れてはいない。
ゴロリと横になり、階段に頭をぶつける。
「忘れちゃいなよ、もう~。
シロになって」
風に乗って、猫又の声が聞こえてきた。
「忘れていないのはお前だ。
こだわっているのもお前だ。
お前がこだわることを止めたら、行ってやってもいい」
「それ、永遠に来ないってことね」
だって、例え、もう一度生まれ変わっても、私は絶対に忘れない。
白っぽい晴れた空と、雨のしずくのない階段脇の木が見えた。
人間には長すぎるくらい長い年月が、この木や階段には、あまり意味がないようで、こうしていると、あの頃から時が進んでないように思える。
町の景色と同じだ。
店舗が増え、近くの学校の校舎がなくなり、グラウンドになっても、そんなことは些細なことだとでもいうように、相変わらずな景色に中に飲み込まれている。
「……和彦は、まだ、相変わらずなのか?」
「そうね」
「なにやってんですか」
会話を中断させるように、呆れた声が頭の上でする。
僧衣姿の劉生が立っていた。
「遅刻しますよ」
子供にとっての十六年は長いが、大人にとってのそれはあまり意味がないのか。
劉生はあの頃とそう変わってはいない。
はいはい、と言いながら、明路は起き上がる。
どんな時代でもあまり変化のないこの人のことで、唯一、困っていることがあるとすれば、母親が、いつ劉生と結婚するのかと、せっついて来ることだ。
本人たちの間では、全くそんな話にはなっていないのだが――。
立ち上がるとき、なんとなく手を出すと、劉生は少し戸惑いながらも引っ張ってくれた。
「いやあ、此処人が来ないから、つい、くつろいじゃって」
「人、来ないですか?」
来ていようが、いまいが、マイペースに、ただ自分の思う道を歩くだけの劉生がそう訊いてくる。
「だって、今も噂になってるからよ。
此処は『幽霊階段』だって」
とその手を掴んだまま、明路は笑ってみせた。
劉生は顔を赤らめ、手を外そうとする。
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