第2話 邂逅(後編)
アイシャはなんだかふわふわしていた。
長い旅路による疲労に加え,最近ではほとんど食事も休息も取れていなかったからかもしれない。
もうかれこれ半年ほど食事も睡眠もほとんどとらずにひたすら走り続けていた。しかしアイシャは不思議と空腹も疲労も感じていなかった。むしろ暖かな海に浸っているような,不思議な心地よささえあった。
このまま沈んでいけたら――
そう願わずにはいられなかった。
ぱちぱちと火のはぜる音がする。ゆっくりと目を開くと,あたりはまだ闇の中だった。明かりといえば少し遠くの焚き火の光と足元にあるランプが一つ。ランプのそばには難しそうな分厚い本が置いてあった。
(父さんがまた暗闇の中で本でも読んでたのかもしれない。)
暗いところで本を読むと目が悪くなるよって母さんにいつも叱られてるのに,懲りずにいつも本を読む。調査のときぐらい置いてくればいいのに,邪魔になるからって兄さんが言えば,いつでもどこでも学ぶことを忘れない,それがプロさ!なんて屁理屈こねて。
あたりから漂ういいい匂いに,思わずお腹がキューッとなった。もうみんなご飯を食べ終わった後だろうか。この匂いは兄さんの大好きなシチューかな。でもいつもより香辛料の匂いがきつい気がする,味付けでも変えたんだろうか。ああ久しぶりによく寝たなぁ。なんて思っていると,急激に意識が浮上した。
(知らない男の気配がする。)
気がつけば見知らぬ男がすぐそばに立っていた。
青空のような透き通った群青色の眼には小麦のような黄金色の髪にがさらりとかかっている。少し幼さの残るあどけない顔は成人前ぐらいの年齢に見える。しかしその印象に反して,出で立ちはいかにも名の知れた冒険者の様だった。しっかりとした綿の服に真っ黒なローブ,装飾の少ない無骨な剣。角も尻尾も見当たらないということはまず間違いなく人族だが,問題はこの男が何者かである。
アイシャは自分の不注意を呪いながら,がばりと身を起こしすぐさま臨戦態勢に入った。
男のただならぬ気配にひやりと嫌な汗が背中を伝う。
なぜ家族との調査中だなんて思ったのか,なぜこんなにも油断して寝てしまったのか。
こんな山奥にいるのであれば,冒険者に見せかけた奴隷商人や野党の可能性もある。
そこまで考えて,アイシャはふと疑問に思った。
男は
なんともちぐはぐさが拭い切れなかった。
逃げようかとも思ったが,今の自分が果たして逃げ切ることができるだろうか。足は体を支えるだけでやっとのようで,ガクガクと震えている。手にも力がほとんど入らない。
できる事といえば相手をにらみつけることぐらいである。
そうして数分か数十分かにらみ合いが続いたあと,
「繝シハ冒険者縺ッ繝シ縺ョイル縺ョ繝。繝・だ。」
男が何かをしゃべり始めた。
***
青年は途方にくれていた。
少女が目覚めたまでは良かった。明らかな栄養失調とはいえ,骨折や出血などの大きな怪我も見当たらず,起きてすぐ動けるぐらいの元気もある。
しかし,なぜこんな摩訶不思議なことになってしまったのか。
時は数刻前まで遡る。
少女を抱いて自分の野営地まで戻ってきた青年は,少女の泥を軽く拭ってやるとまずはゆっくり寝かせてやることにした。幸いなことに大きな傷は見当たらない。体にこびりついている泥は街まで戻れば湯で洗ってやることもできるが,森の中に都合よく温泉などがあるわけもなく,夏とはいえ川で洗い流すのは流石に寒い。濡らした布で拭う程度ではとり切ることはできないが,少し体力が戻ってから少しずつきれいにすればいいだろう。そう判断して寝かせてやると,その後少女はこんこんと死んだように眠り続けた。生きているか心配になって何度も確認し,看病していると,丸一日ほどたった真夜中になってようやく目を覚ました。
そして現在――
少女は拾われた獣のように警戒していた。
そう,言葉の通りまさしく,獣のように。
四足歩行の少女に唸られるという奇妙な状況が出来上がったのである。
(どうしたらいいんだ・・・)
もちろん青年は獣のような少女と接した経験はない。それどころか幼い少女と接したことすら今までほとんどないのである。冒険者という職業柄,年上と接する機会は多くとも年下と接することはあまりない。少年でなく少女となれば尚更である。
数分か数十分か,永遠にも感じる長く気まずい時間が過ぎた後,青年はこの状況を打開すべく行動に出た。
「俺は冒険者をしている
少女はびくりと肩を震わせたかと思うと,目を真ん丸に見開き,顔全体で驚愕の2文字を表現していた。
あんなに目を見開いて目が痛くないのだろうかなんてどうでもいいことを思う。安心させようとにへらっと微笑むと,少女はゆっくりと口を開いた。
「あなたハ,」
しわがれたガラガラの声だった。少女は久しぶりに喋ったとでもいうように,喉元に手を当てて声の調子を確かめながらゆっくりと続ける。
「見えナイ,冒険者。ナイ,剣が,――」
そこまで言うと,ゴホゴホと苦しそうにせき込みだし,顔が真っ青になった。あまり水分をとれていなかったのかもしれない。見つけた時から明らかに栄養失調だろうとは思っていたが,予想の上を行くひどさだった。緋倭斗は慌てて水を探す。
(とにかく水を。どこにおいてたっけ。)
幸いすぐに焚火のそばに置いていたのを思い出し,取りに動こうとすると,鋭い怒声が飛んできた。
「ウゴクナ!!」
見ると,毛を逆立てた子猫のように,四足歩行のまま背中を丸めて警戒されていた。水を取りに行こうとしただけだと,安心させようとゆっくり話す。
「水を取りに行こうとしただけなんだ。君,その様子じゃ最近まともに水を飲んでいないだろう。水を飲んで少し落ち着いてから話をしよう。」
そう言って,敵意がないことを示すように両手をひらりと上にあげ,焚火のそばを指さした。
「あそこの焚火のそばに水が入った魔法瓶が置いてあるんだ。取りに行ってもいいだろうか?見た通り武器なんて置いてないよ。」
少女はじっとこちらを凝視したまま眉間にしわを寄せ考え込んでいるようだった。見つめあったまましばらく待つ。
あまりの長さにまずいことでも言っただろうかと少し不安になってきたころ,少女がコクリとうなずいた。
ほっと胸をなでおろしてじりじりと後じさりながら焚火に近づくと,少女も一歩,また一歩と近づいてきた。いつでも飛び掛かれるように距離を保っているのかもしれなかった。
何とか魔法瓶のもとまでたどり着くと,怖がらせないようにゆっくりとしゃがんで魔法瓶をそっと掴み,少女のもとまで転がした。少女はやはりこちらから目をそらさぬままそっと魔法瓶を掴むと,おもむろに立ち上がりキュポンッと蓋を開けた。
緋倭斗はドッと疲れが押し寄せるのを感じた。思わずその場にドカリとしゃがみこむ。魔法瓶を渡しただけなのに謎の達成感があった。しばしやり切った余韻に浸っていると,少女が突然思わぬ行動に出た。
魔法瓶の中身を近くの草にかけ始めたのである。
驚いた顔で見ていると,少女はさっと横目で水をかけた草の様子を確認し,続いてすっと舌を出した。魔法瓶の水を少量舐めとり,口に含んで舌の上で転がすように吟味する。しばらくそうしていると,ようやく納得したのか,ごくりごくりと魔法瓶の水を飲みだした。
ぞわりと全身が粟立った。明らかに異常な行動だった。毒が混入されているかもと疑うのはいい。草にかけてみるのも,ほんの少しだけ試しになめてみるのも百歩譲って分かる。
しかし,少女はその味をじっくりと確認したのだ。
そう,まるで毒の味がわかるとでも言うかのように。
たまたまかもしれない。誰かがやっていたのを真似してみただけかもしれない。だが,これまですべてが異常だらけだったこの少女において,異常でないことの方が異常に感じた。
緋倭斗は思わずヒュッと息を吸い込んだ。
(厄介な拾い物をしてしまったかもしれない)
しかし,今更見捨てるという選択も出来そうになかった。今度は深く息を吐いて少女を見遣る。
パチリと目が合った。
水を飲むのに満足したのか,ちょうど魔法瓶の蓋を閉めているところだった。
水の一件だけでは警戒心はあまり薄れていないのか,少女はこちらの一挙手一投足を注視したまま魔法瓶を転がし返してきた。
そして,緋倭斗が拾うのを待たずして話し出した。
「あなたハ,イった,冒険者。へソ。おかしい,思う。ナゼ,抱エてナイ,ぶき」
そう言うと,緋倭斗の眼をじっと見つめた。少しの嘘も動揺も見逃すまいとするかのような眼だった。
その様子に緋倭斗はごくりと唾を飲み込んだ。ここが正念場だと思った。下手なことを言えば飛びかかると言わんばかりに警戒されている。
緋倭斗はふぅっと軽く息を吐いて覚悟を決めると,ゆっくりと語りかけるようにしゃべった。
「ここは防御結界の中なんだ」
言いながらスッと上を指さし,夜空を見上げた。
防御結界は不可視の魔法である。直接見ることはできないが,遥か上空に浮かぶ小さな魔法陣だけは,月光に照らされて煌々と輝いていた。
少女も空を見上げた気配がした。
「残念ながら結界は肉眼では見えないけどね。魔法陣だけはかすかに見えるだろう。人や動物は内部からは出られるけど外部からは侵入できないような結界だ。だから,この結界の中なら魔獣や夜盗に怯えて帯剣する必要はないよ。」
そう言って視線を前に戻すと,少女はまだ空を見上げたまま,何をするでもなく突っ立っていた。先程までの警戒心が嘘のようだった。両手はだらりと横に垂らし,緊張にこわばっていた体は弛緩している。急にどうしたのかと心配になるような変わりようだった。
思わず少女の顔を見ると,緋倭斗は金縛りにあったように動けなくなった。肺が締め付けられたように苦しくなる。その瞳から視線が逸らせなかった。
少女は,すべてを見透かすかのような顔で空を見上げていた。表情には何の感情も映していない。月光に照らされた真紅の瞳には,ひっそりと咲く一輪の彼岸花のような危うさと儚さがあった。
幼い少女がしてよい表情とは思えなかった。
そうして静寂の中,何もできず
少女は何をかぼそりとつぶやき,その表情がフッと和らいだ。
そして――
また突然バタリと倒れた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます