愛弟子は憎んでいたはずの魔族だった

Wacco

第1章 出会い

第1話 邂逅(前編)

 それは、月明りのないむしむしとした夜だった。


 少女は一心不乱に森の中を駆けていた。血と汗と泥にまみれた衣は肌にへばりつき、森の草木や蔦は体に絡みついて行く手を遮る。どこまでも続く暗闇は、少女の心を不安と孤独に苛んでいく。

 それでもただただ闇を目指して走り続けた。


 後ろを振り返ると遠くに見えるほの暗い明りが先ほどよりも少し大きくなっている。先ほどまでセミの鳴き声と自分の衣擦れの音しかしていなかった森の中には、いつの間にか地を揺るがすような蹄の音が響くようになっていた。


 ――速く、、


 速く逃げなければ



 しかし無情にも手足は鉛のように重くなり、体は徐々に動かなくなっていく。


 動きは次第に緩慢になり――



 いつしか少女は立ち止まっていた。



 気が付けば先ほどのむしむしとした暑さも不快な血と汗の感触もなく、森の中ですらない。冷たい石壁に囲まれた何もない寂しい部屋。傷だらけだった皮膚には傷一つなく、血と泥にまみれた衣は真っ白なワンピースになっていた。


(逃げきれたのかな―)


 そう思いながらぼーっとたたずんでいると、突然後ろから声がした。


「アイシャ」


 それは明るく涼やかで、それでもどこか人の情を感じさせない響きを伴って、アイシャの耳を打つ。その嫌というほどに聞き覚えのある男の声にアイシャは血の気が引いた。


 先ほどよりも強く逃げなければと思うのに、鉛でも詰め込まれたかのように体はびくりとも動かない。


 叫ぶことも逃げることもできぬまま固まっていると、ジャラリという音とともに、両の足首が勢いよく後ろに引っ張られた。


 抵抗することもできぬままアイシャは床に倒れこむ。


 何が起きたのか理解できず慌てて両足を確認すると、いつのまにかそこには黒光りする二つの枷がはめられていた。気がつけば手にも首にも枷がはめられ、そこから後ろへ伸びる鎖で繋がれている。


(いつのまに――)


 アイシャの顔は驚愕に染まる。


 もう逃れるすべもない。隠れる場所もない。



 そうして絶望するように、繋がれた鎖をたどってゆっくりと後ろを振り返ると、男が愉快そうに口角を上げて笑うのが見えた。



「お帰り、僕のかわいい―――」



「イヤァァァァァァッ」


 突然ほとばしり出た自分の悲鳴にアイシャは飛び起きた。


 心臓がドクドクと音を立てて鳴っている。寝巻は汗でぐっしょりとぬれ、呼吸は荒い。

 帯の締め付けが苦しく感じてかなぐり捨てると、ふとそこが、先ほどの石部屋ではないことに気がついた。

 月明りの差し込むその部屋は目につくものすべて木でできている。狭い部屋には簡素なベッドと机が備え付けられ、床には大小さまざまな衣服が脱ぎ散らかされていた。

 少し空いた窓からは秋を感じさせる乾いた風が吹いている。


 呼吸が落ち着くまでなんとなしに部屋を眺めていると、ふと隣から声がした。


「アイシャ、悪い夢を見ただけだ。ここは大丈夫だから。早く寝な。」


そう聞こえたかと思うと、後ろから髪をくしゃりと撫でられる。

 声の主は隣に寝ていた青年だった。淡い金色の髪に群青色の瞳を持つ青年は、片膝を立て、頬杖を突きながらだるげにしている。ぼさぼさの髪とすっと細められた目は彼の眠さを主張しており、声音からは隠しきれない疲れがにじみ出ていた。


 寝起きは少しぶっきらぼうな物言いになるが、いつもはおひさまのように暖かいのを知っている。心配になって声をかけてくれたのかとアイシャはうれしくなった。


「師匠〜」


そう言ってアイシャはがばりと彼に飛びつく。

 普段は暑苦しいからと許してくれないが、悪夢を見た時だけは添い寝することを許してくれる。

 今も文句を言いつつも頭をゆっくりとなでて抱きしめてくれており、師匠は不機嫌でもあったかいなぁと思う。


そうしてそのぬくもりに安心して、アイシャは再び眠りについた。




     ***




「はぁ、寝たか」


腕の中で少女が安らかな寝息を立てているのを確認して、青年は安堵のため息をついた。

 今は幸せそうに眠っているが、幼い少女の寝顔には涙の跡がくっきりと残っていて痛々しい。

 今でこそこうして添い寝してやれば眠れるようになったが、最初はそれはひどいものだった。




 青年が愛紗アイシャと初めて出会ったのは半年ほど前の蒸し暑い夜のことだった。


 青年が野宿をしていると、ふと草を踏み分ける音に気が付いた。この時間帯であれば普段はセミの鳴き声しか聞こえない。この森には夜行性の獣はあまり生息しておらず、ほとんどの動物は寝静まっているはずである。聞こえたとしてもせいぜいがフクロウや蝙蝠の羽音ぐらいのものだ。しかしこの音はどう考えてもある程度大型の生物の移動している音で、遭難者か野盗かもしれないと思い確認するためにゆっくりと近づいた。

 幸いなことに青年は剣の腕には覚えがあった。

 少数の野盗ぐらいであれば何度も捉えたことがある。大人数であれば問題だが、遭難者の可能性が捨てきれない以上見て見ぬふりをすることはできなかった。



 ここは魔族の住む魔国マラバと人族の住む聖王国リーキンダムのほぼ国境に位置する森だ。

 魔国と聖王国はおよそ100年ほど前から抗争を続けている。聖王国は魔国に比べれば規模は非常に大きいが、魔族は一人で人族数十人分の強さを誇ると言われるほど戦闘能力が高く、未だに戦争終結の目処はついていない。そのため魔族と遭遇する可能性の高い国境には聖王国民はほとんど近づくことがない。会敵すればまず間違いなく人族側が全滅するからだ。

 また、魔族もほとんど国境に近づくことはない。これは魔族が聖王国民を嫌悪しているからだそうだ。

 それに加えこの森は曲がりなりにも聖王国に属しているため魔族がいる可能性は低い。


 つまりいるとすれば聖王国民の遭難者か野盗などの隠れ住まなければならない者たちの可能性が高いのだ。

 そこまで考えたところで風に乗って青年の下にふわりと鼻を刺すような異臭と血の匂いが漂ってきた。

 途端に鼓動が早鐘を打ち出す。


(これは野盗かもしれない。)


青年は思った。


(人数が多ければ最悪死ぬが、しかし遭難者がけがをしているという可能性も捨てきれない。)


悩んだ挙句、やはり遭難者であれば見殺しにはできないという結論に至った。


 しかし緊張は先ほどの比ではない。

 剣の柄を握る手にはじっとりと嫌な汗がにじみ、ドクドクと血の巡る音が聞こえてくる。近づくにつれて強烈になってくる匂いも青年の不安をさらに掻き立てた。

 しかしここで引き返すわけにもいかず、息を殺しながら慎重に移動する。



 しばらくすると、獣道に佇む黒い影が見えた。

 即座に青年は木陰に身を隠し、ゆっくりと木陰から伺い見る。



 そこにいたのは鮮血のような2つの目を持つ真っ黒いだった。


 見たことのない生物だった。


 頭から生えた真っ黒でごわごわした長い毛は体の上部すべてを覆い、ミイラのような2本の脚でのそりのそりと歩いている。高さは目算で青年の胸ぐらいまであり、横に大きいわけではなく少し当たっただけでもボキリと折れてしまいそうなほどにひょろ長い。しかしその貧弱そうな体つきとは裏腹に、手には長く鋭い凶悪そうな爪が生え、黒い毛の隙間からは血走った2つの真っ赤な目が覗いていた。


 青年がその異様な形相に唖然としていると、突然その生物がぎょろりとこちらを向いた。


 視線がかち合う。


 ゾワリと全身が総毛立ち、頭で警鐘が鳴り響く。今まで感じたこともないような、名状しがたい恐怖と不安がこみ上げてくる。


 しかし青年は視線を逸らすことができなかった。


 なぜかはわからない。


 恐れで身がすくんでいるのか。あるいは獣のようだと思っていたその目に思わぬ知性を感じたからか。

 しかし視線を逸らしてはならないという不思議な直感もあった。


 そうして互いに見つめあってから、どれくらいの時間がたっただろうか。


 不意にそれが、こちらへ向かってゆっくりと歩きだした。

 一歩、二歩、三歩。興味深そうにじっと凝視しながら近づいてくる。

 青年が動けず彫像のように固まっていると、青年に触れるようにそっと手を上げた。



 そして突然バタリと倒れた。咄嗟に青年が受け止めると、やはりというべきかその体は異常なほどに軽かった。

 そして実際に間近で見ると、それは幼い少女であった。

 髪はぼさぼさで爪は長く衣服はボロボロ、体はどこもかしこも泥にまみれ人とは思えぬほどやせ細っている。しかし紛れもなく人の子だった。

 自分は何をそれほどおそれていたのかと不思議に思う。そして同時に恥ずかしくもあった。これほどか弱い少女に気圧されるとは――


 しかし自省していたのも束の間、すぐさま思考を切り替えた。


(早く休ませてやらなければならない。これほど爪が伸びているということはおそらく1日や2日どころじゃない。数週間か数か月か、あるいは数年彷徨っていたはずだ。ならば今はゆっくりと休ませ、栄養のあるものを食べさせなければ)


そう思った青年は来た道を大慌てで引き返していった。

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