ホームレス妖怪豆生田シシの家出

私情小径

ホームレス妖怪豆生田シシの家出

 豆生田まみゅうだシシは小豆洗いであった。彼は妖怪としてのその半生を険しい山中にある谷川にて過ごし、ひたすらに小豆を洗うことで費やした。

 豆生田シシは小豆洗いではない。そう名乗っていたのは、彼の運命の転換点であるその日までのこと。今の彼はもう、小豆洗いではない。

 豆生田シシには兄がいた。豆生田ヒヒという名の彼の兄は、一族の中では極めて先進的な考えを持っていた。彼らの住まう山奥から、一族で初めて大学に進学したのは彼だった。

 シシはヒヒのことを誇りに思っていた。博識で世界への感度が高いヒヒは、衰退するばかりの一族を憂い、鬱屈した現状を打破するために手を尽くそうとしていた。

『儂は儂の我を通す。だからシシ、お前はお前の我を通せ。思う念力岩をも通す、だ』

 それはヒヒの口癖であった。もっとも、果たして当のヒヒのやりたいことが本当に一族の復興であったのか、シシは終ぞ知ることはなかったが。

 シシは幸せであった。月に一度の兄からの報せを楽しみにしながら、一族の村で何不自由なく暮らしていた。

 ──ヒヒの死を知るまでは。


 妖怪狩り、と呼ばれるものがある。殆どは裏社会の人間によって行われるものであり、世間一般には秘匿されている妖怪存在を対象とした殺戮行為である。元来は妖怪退治という名目で時の権力者により大々的に行われていた行為で、まだ数多の強力な妖怪が存命だった時代には人妖問わず多くの犠牲者が出た一種の戦争であった。しかし科学の発達によって銃などの近代兵器に力の均衡を崩されるようになったこと、また妖怪の存在自体が非科学的と見なされて信じられなくなったことで、次第にその在り方は変わった。卑劣さを増した一方的な妖怪退治に妖怪たちは為す術もなく、特に力ある妖怪は他を守るために犠牲となった。世間一般に妖怪存在が認知されなくなったことで、彼らを守ろうとする数少ない人間も今ではいなくなってしまった。そのため豆生田のように現代に残った妖怪種族は人目を避けて隠れ住むか、あるいは人間のふりをして身を潜めることで暮らしている者も多い。

そんな彼らをさらに追い詰めたのが件の妖怪狩りである。明治二年に勃発した最後の妖怪退治、俗に文明開化と暗喩される明治人妖決戦での妖怪軍の敗走以降、翌年に政府によって陰陽寮が解体されたことも相まって政治的な混乱により長らく行われていなかった妖怪勢力の追討が、昭和初期から裏社会の人間により行われるようになったのである。

 その理由は唯一つ。金である。妖怪存在の中には人間とは違う身体のつくり、あるいは器官を持つものがいる。そういった妖怪の死体や部位は裏社会にて高値で取引されることがあり、それに目を付けた一部の人間が儲けを求めてビジネスを始めたのだ。

 そのため先の大戦以後の人口減衰や出生率の大幅な低下に悩まされていた妖怪存在はいっそうの苦境に立たされることとなり、一部には絶滅してしまう種族もあるほどだった。

 つまるところ、豆生田ヒヒもまたその犠牲となったのである。

 鳩妖怪を介した文でヒヒが妖怪狩りの犠牲になったという訃報を受けたシシの行動は早かった。彼はその日の晩には荷物を纏め、夜明けと共に一族の住まう山奥を飛び出した。

 向かったのはもちろん、ヒヒの暮らしていた首都東京。シシはヒヒを殺した犯人への復讐を誓い、街に潜伏するために小豆洗いとしての自分を捨てたのである。

 そう、今の豆生田シシはホームレス妖怪である。


「はい、豆中くんコレ今日の給料ね。いやあ、豆中くんが居てくれると助かるよ。もうウチで正社員にならない? 歓迎するよ」

「有難いお誘いですが、遠慮しておきます。今の生活の方が何かと都合がいいので」

「そう? 気が変わったらいつでも言ってね」

「ありがとうございます」

 シシは愛想よく給料を受け取って部屋を後にする。雀の涙ほどにしかならないが、妖怪であるシシにとってはそれほど問題にはならない。基本的に常人の数倍から数十倍の力を持つ妖怪存在の中でも、シシの一族は比較的恵まれた能力を得ているからだ。老化は遅く、あの日から十四年が経過した現在でもその肉体は若々しい。傍から見れば二十二、三程度に映るだろうか。栄養補給についても最低限の水さえ摂取していればまず死ぬことはない。そしてシシは、そのような状態であっても鉄骨までなら持ち上げることが可能なのであった。

「次のバイトまでは後二時間か。身体の汚れでも落としに行こうか」

 シシは公園の時計を確認して独り言つ。夜間工事のバイトを終えたばかりのシシの次の予定は地元の商店のヘルプであった。物覚えの良いシシはこちらでも何かと重宝されており、店長とは短い付き合いであるものの強い信頼で結ばれている。夢を追いかけて着の身着のまま上京してきた若者という身分を詐称するシシを店長は何かと気にかけてくれており、シシは幾度となくご飯を奢ってもらっている。

 そのように恩義深い人間のいるところに土埃で汚れた身体で出勤するわけにもいくまいと、シシはひとり頷いた。

 さて、そういうわけでシシは、まず現在の根城となっているネットカフェに着替えを取りに行くことにした。 ネットカフェにはシャワー室が付属しているが、シシがそちらへ向かうことはない。手早く着替えを用意したシシが向かったのは、徒歩十分の銭湯である。これはシシが十四年の戦いの内に見出した趣味だ。

 シシは何も十四年間ずっとバイトに明け暮れていたわけではない。シシは今に至るまでに幾つもの妖怪狩り団体を壊滅させており、そのような大仕事の後には決まって銭湯で汗を流すのが常であった。故に、妖怪狩り団体の魔の手を逃れるために住まいを転々とする必要のあるシシが銭湯巡りと湯上り直後のコーヒー牛乳に目覚めるのは当然の理であり、裏社会では得体の知れない狩人狩り、通称虎狩りとして恐れられるシシも、この瞬間だけは一介の銭湯マニア妖怪でしかないのであった。

「ああ、良い」

 肩までしっかりと湯に浸ったシシは、思わず恍惚とした声を漏らす。

 重炭酸ソーダやメタ珪酸、フミン酸がたっぷりと溶けたヌメリ気のある黒湯がシシの鍛え上げられた身体に絡みつく。疲れ知らずの肉体に筋肉痛や関節痛は殆ど無縁だが、自身の肌が美肌と呼んで差し支えないほどのコンディションを常に維持できているのは間違いなくこの泉質のお陰だと言っても過言ではないと、シシは緩んだ心で感じる。シシは数ある泉質の中でも、都内に多く点在するこの黒湯が大の好みであった。

 シシは自身の右手で左肩から肘先までをゆったりと撫で付け、再び艶やかな声を上げる。そこに刻まれた大きな古傷は総ての始まりであり、また一つの終わりの証でもあった。

 それは、ヒヒを殺した妖怪狩り団体を壊滅させた時に付けられた傷だ。もう十三年も前のことになる。

 シシは己を回顧する。一年の潜伏と死に物狂いの探偵の果てに件の妖怪狩り団体を滅ぼした時、彼の身の内は心からの充足に満ち溢れ、そしてようやく、永久に埋まらない穴が自覚された。それは決して復讐の虚しさなどではなく、ただ最愛のヒトが隣に居ないことの、ただその時間の果てしなさに気付いただけのことである。

 だからシシが未だに故郷に帰ることなくこうして数多くの虎狩りを成しているのは、いわば惰性とも取れる現実逃避のためであり、間違っても妖怪存在としての義憤や正義感などではないのであった。

 救った妖怪の数は両の指をとうに超えた。中には馴染みの妖怪も居る。好意を寄せられたこともあった。人間の友人だってできた。住まう場所を打診してくれた者だって。

 それでもなおシシがホームレス妖怪を謳ってひとり意地を張り続けているのは、それは逃避以外の何があるだろうか。シシは誰かと懇意になることで心の穴をいっそうに自覚してしまうのが、いや それよりも、その穴が埋まってしまうのが怖いのだ。いつの間にかヒヒの死を受け入れてしまいそうな自分が、堪らなく恐ろしいのだ。

 そんなこと、シシはとっくに自覚している。

 自身が未だにヒヒの死に向き合えていないことくらい、シシはとっくに分かっている。

 答えなんて分からないことくらい、自分が臆病なことくらい、ちゃんと分かっている。

 十四年。

 確かにシシのような妖怪にとっては瞬く間の出来事であるが、さりとて顧みる程度には価値があって、やはり誰かの死を認めるには短すぎ、それでもなおそれらをひっくるめて客観視できるようになるくらいには長い時間。実に中途半端な時間。それがシシにとっての十四年というものであり、またシシの心そのものなのである。

「はあ」

 吐息は、いつの間にか暗いものへと変わっていた。

 シシは古傷を名残惜しく撫でた後、次いで自身の心臓に掌を当てる。

 ああ、しかし、それでも、もしかしたらと。

 もし、自身の心の臓の奥深くにあるこの小豆が、コレと同じものが、ヒヒのものだったソレが今でも何処かに遺っているとして、もし、それを見つけることができたとしたなら、自身もついに前へ進めるのではないかと、シシはそう感傷的に考えて、すぐさま否やと首を振る。論外のことだ。当時あれだけ探しても見つからなかったものが、今さら出てくるはずもない。きっとヒヒが死んだ時に一緒に壊れてしまったのだ。この小豆はそういうものだ。

 シシが意識するのは小豆洗いの総て力の源であり、また同時に弱点でもある心臓の小豆である。小豆洗いはコレが壊されるか取り除かれるかすれば死んでしまい、またそれ以外の要因で保有者の小豆洗いが死んでしまった際にも呼応するように砕けてしまうのだと、シシは一族から聞いていた。しかし同時にこの小豆には万病を癒す力があり、上手く移植すれば、たとえ死に瀕した者でもたちまち元気になるのだという。そしてそのせいで、小豆洗いは長い間妖怪狩りの対象になってきたのだとも。

 いずれにせよ、考えても栓なきことだ。

「いけない。少し、のぼせたか」

 体感で一時間は入浴していただろうか。汚れを落とすという範疇を超えている。シシはバイトの時間がいつの間にか近づいていたことに気付いて、少しばかりドキリとする。シシがここに来たのはあくまで一時の休息であり、すっきりとした身体で労働に臨むためだ。これでバイトに遅れてしまっては本末転倒である。

 シシは周りの御老人方に配慮しつつも急いで湯を上がり、身体をしっかりと拭いてから脱衣所に足を踏み入れた。

 シシは脱衣かごの前で改めて身体の水気を取り、ドライヤーで髪を乾かす。先ほど新しくネットカフェから持ってきた服を着て、今まで着衣していたものはビニール袋に押し込んで、最後にコーヒー牛乳で一服できる程度の時間が残されていることを、脱衣所に備え付けられた掛け時計で確認する。

 そうして、シシが自動販売機の前に立った時。頬を穏やかに緩めたシシがビニールの奥底にあるはずの財布を手に取ろうとした時。ビニールを漁って財布を探した時。

シシは、ようやくその深刻な事態を把握した。

「……ない。盗まれた」

 よく晴れた夏の暑い日、小豆を洗うには絶好の水曜日のことである。

 豆生田シシ改め豆中シシは、無一文となった。


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 シシにとって幸いだったのは、既にまとまったお金を送金し終わっていたことである。シシは月末になると、その月の稼ぎから自身で用いる必要最低限の諸費を除いた額を一族の元へ仕送りしているのだ。つい先日も、ヒヒと手紙をやり取りしていた頃からの付き合いである例の鳩妖怪に頼んで、手紙と共にお金を送ってもらっていたところであった。

 無論、一族もシシの例に漏れず強靭な身体のつくりをしている者が多いため、積極的に仕送りをする必要もあまりないのだが、そこはシシの礼儀であった。一言の別れの言葉もなく田舎を飛び出してきた身の上としては多少の気まずさがないわけではないし、狩人狩りなんかを続けていてはいつ死ぬかも分からない。強靭な肉体も発展した近代兵器の前には太刀打ちできないことは歴史が証明しているし、直近ではまさに兄であるヒヒがその毒牙に掛かっているのだ。たとえシシに死の覚悟があったとしても、それはシシの身勝手に過ぎない。一族からすれば大事な若者を二人も失ってしまうことになるのだ。故にシシは自身の無事を絶えず報せることは絶対の義務だと考えていたし、また何度も手紙のやり取りを重ねる内に、自身が好き勝手することで一族の皆に不安を与えていることへの罪悪感も募ってきたために、いつからかまとまった額を仕送りするようになっていたのである。

「なるほど、盗まれちゃったのか。酷いことをする人も居るもんだ。道理で沈んだ顔をしているわけだよ。シシくん、今日のバイトが終わったらしばらく分のお給料を前払いしてあげるからね。あとご飯も食べていきなさい。育ち盛りなんだから、お腹空いてるでしょう」

「いや、そんな、お気になさらず。盗まれたことがショックなだけであって、金銭的には何も問題は」

「いやいや。今無一文って自白したところでしょうに」

「それはそうなのですけれど……」

 何度も言うようにシシにとって金銭面は問題ではない。飲まず食わずでもしばらく生きていけるし、なんならここでのバイトが終わった後にまた例の工事現場に行こうとでも考えていた。それよりもシシがショックだったのは、盗まれたということそれ自体である。こうして人間社会に紛れ込んでいても違和感を持たれないほどに人間とほぼ同一のつくりをしている小豆洗いの一族は、精神構造もまた人間とよく似通っている。故に親しい者が死ねば悲しいし、安らぎを感じれば頬が緩むし、恋や愛を知っているし、大切な者が傷つけられれば怒るし、財布を盗まれたらショックだ。それはもう、普段弱音を全く吐かないシシが思わず吐露してしまうくらいにはショックだったのである。

「それにねえシシくん。今貴方はもう一つ聞き捨てならないこと言ったんだよ」

「えーっと」

「シシくん、今ネットカフェ暮らしって言ったじゃない! いつの間に下宿先追い出されちゃったの!」

「いやあ、その」

 そういえばそういう設定にしていたなあと、シシは今になって思い出した。

 何かとシシの面倒を見てくれる世話焼きの店長こと俱利伽羅峠美月は、両の手を腰に当ててシシをじっと睨む。美月は昨年の四月にこの商店を継いだばかりの、看板娘兼新店長である。シシは彼女の年齢を聞いたことはなかったが見た目からして二十三、四といったところだろうか。人間社会において女性に年齢を尋ねることはマナー違反であると学んでいたシシは、あえて美月に問いかけるような愚行は犯していなかった。それでも、自身の年齢を二十二歳と申告しているシシを年下扱いしてくること、もう看板娘と呼ばれるような年齢ではないといつかの美月が呟いていたことを踏まえると、あるいはもう少し年上なのかもしれないが、それでもアラサーに達しているかどうかの程度だろうとシシは判断していた。

 いずれにせよ、シシにとって年齢など些細な問題だ。そもそも妖怪としてはまだまだ若輩である今のシシでさえ美月よりは年を取っていることは明らかであるし、それに、そのようなことなども関係なく、青いエプロンがトレードマークの美月がシュシュで纏めたポニーテールをなびかせながら接客をしている姿が商店街の活気の起点であることには変わりないのだ。シシはこの俱利伽羅峠美月という力溢れる陽気な女性を、恋愛の観点ではなく、友愛と親愛、そして純粋な尊敬の点から非常に好ましく思っていた。

 シシは自身を睨む美月のことを気にしないように努めたが、すぐに根負けした。シシは美月には強く出られないのであった。

「それでは、お世話になります」

「よろしい。腕によりをかけて作ってあげるからね」

 下手に抵抗してもボロが出るだけだと悟ったシシは美月の申し出を素直に受けることにした。それにシシは美月の作る料理が好きだ。栄養補給のためだけではない温かみのある食事は、それらを必要としないシシの心を確かに癒している。

 シシはいつか美月が作ったオムライスを思い出して、喉をゴクリと鳴らす。そして美月はそんなシシを見て可笑しそうに笑う。彼らにはよくある日常の一幕であった。

シシは美月とのこの関係性が心地よかった。踏み込み過ぎであるとは分かっていても、抗えない心地よさがあった。

「ふふ。でもよかったよ、ようやく明るい顔になってくれて。シシくんは出会った頃からどうも何かを悩んでいるみたいで、それが最近になってまた一段と暗くなっちゃったもんんだから、私ずっと気にしてたんだよ」

「そんなふうに、見えていましたか」

「うん。悩んでいるというか、鬱っぽいというか。ともかく暗かったよね。上手く隠してるみたいだったけどバレバレだったよ?」

「──敵わないですね、美月さんには」

「ふふ。まあね。年季の差ってヤツかな」

 美月のその言葉に、シシは小さく笑いながら目を伏せる。

 シシは思う。もう総てを認めて、受け入れるべきなのではないかと。そんな焦りにも似た衝動が、シシの心を強く叩きつけている。それはシシが美月と話す度に湧き上がる思いだ。

 常に前を向いていて、また強く生きることのできる美月に、シシは様々な影響を受けている。それはシシの過ごしたこの十四年の中でも秀でて顕著なものなのであった。

「ありがとうございます、色々と」

「べつにい。気にしなくていいよ。私もシシくんにはお世話になってるしね」

 美月は笑う。彼女が言うのはシシの働きぶりについてだ。シシがこの商店でアルバイトを始めてから一年半、彼がどれだけ真摯に働いているかは商店街の皆が知るところだ。

「いいや、美月さんに比べたら全然だと思いますけれどね」

 美月がシシの働きぶりを褒めそやすように、シシもまた美月の努力に敬意を抱いている。若い身空で商店を引き継いで、いっそのこと店を畳む選択肢もあっただろうに、美月は弛まぬ努力の積み重ねで以て見事に店を切り盛りしている。きっと自身が美月の立場でも同じようにはいかないだろうとシシは思う。

 シシは美月の、ひいては人間のこういうところが好きだ。

「もう、私のことはいいんだよ。ああそれに、まだ私の弟とは会ったことないよね?」

「そういえばそうですね。お話に聞く程度のことでしか」

 美月の言う通り、彼女には弟がいる。シシが話に聞く限りでは学業優秀で運動神経抜群の好男子とのことだ。今は高校二年生で反抗期も抜けてきた頃らしく、一周まわって素直になったのがまた可愛らしいというのが美月の談だった。

 シシがそのことを伝える。すると美月は、よく覚えているねと、嬉しそうに胸を張った。

「そうそう、本当に可愛い子なんだよ。小さい頃は病気がちで身体が弱かったんだけど、今じゃすっかりその気もなくなってね。大学も行ってほしいから私も頑張らないとな」

 そんな雑談をしながらもお客を捌いているうちに、シシのシフトは終わりを告げた。

「シシくんお疲れ様。閉店時間になったら戻っておいで」

「どうせなら僕もそれまで働きますよ」

「うーん、元々無理言って入ってもらってたし、あとちょっとだから大丈夫。それよりも荷物纏めてきなよ。お金ないならネットカフェも追い出されちゃうでしょ」

「ああ、確かに。そっか、ああ……その通りですね」

 シシの頭からはすっかり抜け落ちていたが、言われてみればその通りであった。シシも得心して、そしてまたちょっとだけ落ち込んだ。シシが都会に出て銭湯の次に嵌ったのはゲーム実況と漫画だ。ネットカフェはシシにとっては天国のような環境であったというのに。今になって財布を盗んだ者への恨みが湧いてきたシシであった。

「すみません。それでは、ちょっと行ってきます」

「行ってらっしゃい。うちの弟もちょうど講習終わりだろうから、もしかしたらバッタリ会っちゃうかもね」

「いやいや、さすがに顔も知らないんですから。会っても気付かないですよ」

「どうかな。なんかうちの義人とシシくんって見た目も内面も似てる気がするから、シンパシーとかでお互い分かりあっちゃうかもよ?」

 美月が楽しそうに笑うので、シシも釣られて笑った。

「ああそれと、多分前にも言ってたかもだけど、明後日はお店休みだからシフトもないよ。まあ、もしシシくんがよければ色々手伝ってくれてもいいけどね」

「それは……お邪魔になりませんか?」

「そんなことないよ。お父さんもお母さんも会いたがってる。それに片付けたいものもあったから、捨てるついでにシシくんには好きなものを持っていってもらおうと思っててね。あと男手は幾つあってもいいし」

「あ、最後のが本音ですね」

 さてね、と美月はわざとらしくとぼける。実に可愛らしいと、シシは感じた。

 そういうわけで、シシの新しい予定が決まったのであった。いずれにせよ明後日ならばまだ美月宅にお世話になっているはずであるので、言われずともシシは手伝うつもりではあったのだが。それでも美月が敢えて明言したのは、シシの肩身が狭くならないようにとの彼女の配慮であろうとシシは考える。そういう細かな機微も美月の魅力であった。

 シシは改めて美月に一礼してから商店を出る。

 美月が店長を務める俱利商店があるのは商店街の端だ。一方でシシが根城としていたネットカフェはちょうど反対側の出口から数分歩いた場所にあるので、シシは通退勤時、必然的に商店街の全体を見ながら歩くことになる。俱利商店が所属する旭商店街は近所の大型スーパーにも負けずに盛業している全体的に活気ある商店街だが、その利用者は殆どが地元の住人だ。従ってこの地にやってきてからの一年半、ずっと商店街に通っているシシには、ここの住人の顔ぶれがある程度は分かるようになっていた。

 故にこそ、観光客とも思えないその男のことが、シシの目には酷く奇妙に映った。見た目は全くの軽装で、怪しい様子も仕草も、これといってない。が、シシの持つ人間離れした視力は、男がこちらの様子を伺っているらしいことをはっきりと捉えていた。

 その奇妙な男に、シシがこの十四年で培った妖怪としての──虎狩りとしての性が警鐘を鳴らす。シシが今まで相手にしてきた妖怪狩りたちも、あの男のように見てくれは普通の人間であった。獲物である妖怪に警戒されないような恰好で生活サイクルを探り、気付かれないように包囲網を形成する。直接対決を避け、搦め手で弱らせたところを一気に叩く。それがヤツらのやり方だ。警戒するに越したことはないと、シシは気を引き締めた。

 この地に来てから一年半。東京を中心に関東域を転々とするシシにとっては比較的長居した方である。尻尾を掴まれるようなボロは出していないはずだが、いかんせんシシとて異名を付けられる程度には裏社会に知れ渡った存在だ。思わぬところで情報を握られていてもおかしくはない。シシは何気ない風を装って男の方へと歩くも、三分の一も行かないところで男は去ってしまった。

 自身が狙われる分には問題ないが、万一にも美月やその弟の義人に魔の手が伸びたとあったら、シシは自分を許せないだろう。

 シシが十四年もの期間、プロの妖怪狩り団体相手にたった一人で先手を取り続けることができたのは、彼の持つ鋭敏な危機察知能力のお陰だ。

 シシは目を細める。

 シシは自身がこの地を離れることで美月らの危険が遠ざかるメリットと、反対に彼女たちから目を離してしまうことで起こり得るデメリットとを天秤にかけ──今回はその間を取ることに決めた。則ち荷物を纏めた後、俱利商店にはもう戻らない。しかし直ぐにこの地を去ることもせず、地下に潜る。姿を隠すことで、シシは逆にヤツらの尻尾を掴み、一網打尽にしてやろうと決めた。

 何度も繰り返すがシシは強力な妖怪だ。頭脳明晰で、肉体は鋼のように硬い。万全の状態であれば妖怪狩り団体になど遅れは取らない自負があるし、その上で自身の不利を想定して行動することができる。しかし同時に、人間はそのような妖怪を相手取って勝ち星を上げるほどの知恵を持つこともまた事実。故に、そこにシシの失策があったとするならば、それは間の選択肢を選ぶなどという悠長な、換言すれば迷いを持ってしまったことであり、元を辿れば必要以上に人間に肩入れしてしまった一年半前のシシ自身に遡るのだろう。


「退けカス! 死ね!」

「オニーサン! そいつ泥棒だ! 捕まえてくれ!」

 荷物を纏めたシシがネットカフェを出て一歩目、彼の耳に飛び込んできたのは治安の悪い叫びだった。

「あ、はい」

 驚きはあったが焦りはない。シシは目の前を走り去ろうとしている太った中年男に足を引っかけ、転倒させる。

「でかしたぜオニーサン」

 その言葉と共に、もう一人の男がシシの方へと走り寄ってきた。随分と若い。まだ少年らしさが残った顔立ちで、何よりも制服を着ている。どう見ても高校生だろう。

 それにしてもと、シシは驚いた。なにしろ件の高校生の走力が異常と言っていいほどに秀でていたからである。シシがネットカフェから出た際に見遣った高校生の位置から、目算で此処まで十メートル。高校生はその距離を瞬く間に走り抜けてみせた。恐らく一・二秒強。

 彼が妖怪でもない限り、ただの高校生に出せる速度ではない。

 というかそれだけ速いなら自分が手伝う必要もなかったのではないか、などと考えながらシシは事の成り行きを見守る。高校生は自身の着用していた制服からネクタイを解くと、あっという間に中年男を拘束してしまった。離せと喚く中年男を無視して、高校生は男からバッグを取り上げてひっくり返す。すると出てくるのは大量の財布。滝か雪崩かと言わんばかりのその量に圧倒されていたシシであったが、彼はふいにその大量の財布群から見知ったものを見つけて、つい驚きの声を上げた。

「僕の財布じゃねーかよ」

「あ、オニーサンも被害者だったのか」

「キミもかい?」

「俺はオバチャンの代わりに追っかけてただけ」

「そうか」

 言いつつ、シシは自分の財布を拾い上げる。身分証を偽造している都合上なるべく警察のお世話になりたくないシシは交番で被害届を出すわけにもいかなかったので、彼自身まさか自分の元に返ってくるなど考えてもいなかった。これについては疑いなく奇跡の再会だと言えるだろう。無論、美月には被害届を出したと偽った。心配させないためなので仕方がない。

「あ、警察だ」

 シシが感慨にふけっていると、高校生が声を上げる。彼が向く方をシシが確認すれば、なるほど確かに二人組の警官である。

「オニーサン、俺夕飯に遅れるから捕まりたくないんだよね。オニーサンの手柄ってことにしていいから、後頼んでもいい?」

「僕も警察はちょっと困るな。面倒くさい」

 二人の目が絡み合い、そしてどちからからともなくニヤリと笑った。

「逃げようか」

「逃げましょうか」

 同時に発された言葉で、二人は互いに親近感を抱く。そして最後に中年男が動かないことを確認して、彼らは走り出した。

 シシがそれなりのスピードで走っているにもかかわらず、高校生は悠々と付いてくる。そんな人間にしては不思議な高校生に、シシはいつの間にか親近感を覚えていた。なるほど美月が言っていたのはこういうことだったかと、シシは心中で頷く。

「キミ、義人くんだよね。俱利伽羅峠義人くん」

「そういうオニーサンはシシさんだよな。姉ちゃんからよく話聞くぜ。ところで俺たちどっかで会ったことあったか?」

「いや、ないよ。きっとね」


 警察が追ってきていないのを確認して、二人は通りすがった公園で腰を落ち着けることにした。先の騒動にて多数の人間や警察からも注目を浴びたことで一刻も早く身を潜めたかったシシではあったが、義人の熱視線に屈して親睦を深めることに決めたのだった。逃げてもよかったが、義人の走力があればいかにシシとてしばらくは食い下がられるだろう。体力お化けのシシとて不毛な追いかけ合いは御免である。普段の言動からは想像もつかないが、シシは元来面倒くさがりであった。

「シシさん足はえーな。俺より速い人なんてマジで初めてかも」

「鍛えているからね」

「やっぱしかー。筋トレとかっすか?」

「うん。まあね。義人くんも鍛えているのかい?」

「俺はぼちぼちっすね。部活も入ってないですし」

「なるほどねえ。じゃあ昔から身体が強かったのかな。その調子だと足が速いだけじゃないだろう?」

「よく分かりますね! でも昔は身体弱かったんすよ。物心いたばっかの頃は入院とか結構してましたし」

「ふんふん」

 義人の話を聞いて、シシは得心した。恐らく、義人は先祖返りだろう。妖怪の中にもかつて人間と交わった者がいて、彼らの子孫は人間界にちらほら混じっている。普通は代を重ねるごとに血が薄まっていくのだが、時たま隔世遺伝として妖怪特有の機能を持ち合わせた者が生まれることがある。それが先祖返りだ。シシも話には聞いたことがあったが、実際に目にするのは初めてだった。妖怪の中にもその機能が身体に馴染むまでは体調が不安定になる者がいるから、義人についてもそういうものなのであろうとシシは解釈する。またシシと義人が互いに感じた親近感についても、彼らが妖怪と先祖返りだったからであろう。あるいは義人の先祖に小豆洗いでもいたのかもしれない。義人や美月の名字である俱利伽羅峠のある石川や富山に小豆洗いの一族は居なかったと思うが、シシとて総ての同族を把握しているわけではない。

 小豆洗いはシシの属する豆生田の他にも豆ノ浜(まめのはま)、鬼豆(おにまめ)、木蓮豆流(もくれんまめながれ)、豆五来(とうごらい)など全国各地に多様な名字を持って散らばっている。今挙げた以外にももう滅んでしまった一族だって居るし、どれかが過去に彼らの先祖と交わったに違いない。

 もし義人が現代社会に生きづらさ覚えるようであれば、同朋のよしみで妖怪のコミュニティを紹介してもいいかもしれないとシシは考える。義人は特に、人間にしては身体的に力が強すぎるようだ。きっといつか困る日が来るだろう。

「俺、もっとシシさんと仲良くなりたいっす。今日うちで夕飯でもどうですか?」

「あー」

 そろそろお暇しようかと考えていたシシに飛んできたのは、義人からの思わぬ爆弾だった。まったく似た者姉弟である。しかし義人からそのような発言が飛び出たということは、まだ美月からシシの事情を聞いていないということだろう。つまりシシにとって、逃げ出すなら今が最後のチャンスである。

「実は今日はこれから用事があって──」

「あ、姉さんからメッセ来ましたよ」

 終しまいであった。

 シシは目を閉じる。既に美月から誘われていたにもかかわらず現在進行形で断ろうとしていたとか、義人にバレたらシシの心証は最悪である。

「ん、なんですかねこれ」

「いや違うんだ。どうしてもというか、やむにやまれぬというか、ともかくも本来は前向きではあったんだが」

「これ見てください。なんかヘンなんすよ」

「うん?」

 義人にシシを責める調子は見られなかった。それよりも何かに疑問を抱いているようで、彼はシシにメッセージアプリの画面を見せてきたのであった。

 シシは状況を呑み込めないながらもメッセージを見て、そして義人と共に困惑した。

「『タスク』?」

「ですね。これ以外には送られてきてないんで、打ち間違いっすかね。まあ姉さんがよく使いそうな言葉ではありますけど……」

 確かに義人の言う通り打ち間違いというのが妥当だろう。もし美月が義人に何かを申し付けたいのなら、具体的な内容がすぐに送られてこないというのはおかしい。それに美月の性格からして何かを頼む時はもっと丁寧な言い回しを心掛けるはずだ。

 それにと、シシは公園の時計を確認して疑念を深める。

「まだ閉店時間にはちょっと早いね」

「そうっすね。後十分くらいあります。バカ真面目な姉さんが仕事中にスマホを弄るってちょっと考えにくいんで、それもなんかヘンなんすよね」

 シシも義人に共感した。美月はお客の居ない時にシシと私語をすることこそあれ、仕事中にスマホを弄ることなど決してない。確かに、何かあった時のためということで常時スマホは身に着けているそうだが──。

「待てよ」

 瞬間、シシの脳内に嫌な想像が流れる。

「店まで走ろうか義人くん」

「え、まあいいっすけど。何かありました?」

「どうだろう、それを確認しに行こうか」

 考えれば当たり前のことである。何か問題があった時にしか仕事中にスマを使わない美月がメッセージを送ってきていて、しかもその内容が『タスク』だった。

 シシはこの十四年、時間をかけてスマホやパソコンなどの電子機器類に適応してきた。それは曲がりなりにも現代社会で生きるのなら当然のことであるし、また妖怪狩り団体に先手を取るならば必須のことである。情報は命なのだ。

 故にこそ、シシは予測変換という概念もしっかりと理解している。『タスク』が美月のよく使いそうな言い回しなのならば、『た』或いは『たす』まで打って最初に出てくる予測変換は当然の如く『タスク』だ。しかもそれがただ一語それだけで送られてきたのだから、コロケーションからの予測機能は使われていない。つまり、美月が『タスク』という文字列を送るには、最低でも『た』までは文字を入力しなければならない。

 そして、シシが俱利商店を出る際に見た怪しげな男。もし彼がシシではなく、俱利商店を監視していたのだとするならば。あの距離ではシシのような秀でた視力がなければ個人を特定することまではできないが、それでも、誰かが出てきた、という程度ならば判断ができる。場合によっては性別までも判別できるだろう。つまり例の男は俱利商店から誰かが出てくるのを待っていて、そして出てきたのがシシであることが分かったから監視を止めた。つまりは美月が一人きりになる瞬間をずっと待っていたと解釈することができる。きっと逃げたわけではないのだ。

『助けて』。

 それが美月の送ろうとしたメッセージだとするのなのではないか。

 シシのこめかみに、嫌な汗が伝った。


 俱利商店はもぬけの殻であった。閉店時間まであと五分だというのに、美月はどこにも居ない。店内が荒らされた様子は見られないが──。

「これ、姉さんのシュシュっすね」

「ああ」

 床に落ちたシュシュを見て、シシは己の失策を覚った。例の男を見た時点で、シシは無理にでも商店に残るべきだったのだ。そうすれば美月が攫われることはなかっただろう。もしくは男を追いかけてさえいれば、まだ上手く立ち回れたかもしれない。

「きっとアイツらだ」

「アイツら?」

「はい。最近よく怪しい連中が辺りをうろついてたんです」

 怪しい連中。義人の発せられたその言葉は、きっと自身が見た男と同じものを指しているのだろうとシシは感じた。

「アイツら、俺の高校近くにも来てたんです。どうも監視されてるみたいだったんですけど、俺も別にそんなことされる理由も分からなかったんで、ほっといたんです」

 義人の言葉に、シシは違和感を覚えた。まず、シシが例の怪しい男を見たのは今日が初めてである。普段からそういうものには気を配っているシシだ。あの男の他にも怪しい連中が居れば、きっと気づいたはずである。つまりシシの周りに監視の目はなかったと言っていい。その一方で義人の身の回りには、その怪しい連中が溢れていたという。不審者としての注目を浴びるリスクを負いながらも高校周辺にまで出没したというのだから、恐らく相手も本気だろう。ということは、連中の目的はシシではなく義人の可能性が高い。

 義人の電話が鳴ったのは、シシが推論を深めている最中だった。ちょうど閉店時間になった瞬間である。画面には美月の名前が表示されていた。

「出た方がいいですよね」

「ああ。スピーカーにしてほしい」

 義人は頷く。義人は画面をスライドさせて電話を受けると、シシの言葉の通りスピーカーモードに切り替える。

『俱利伽羅峠義人だな』

 それは美月の声などではなかった。

 スマホから響いたのは甲高い合成音声。美月の身が無事ではないのは明らかだった。

「そうだ」

 義人は緊張を孕んだ声で言葉を返す。

『一人か? 男が一緒だっただろう」

「あの人は裏で作業してる。今は俺だけだ」

『ふん。まあいい……いいか、よく聞け。お前の姉は預かった。無事に返してほしければ街はずれの廃工場まで来い。今すぐだ。警察に言ったら姉の命はない。分かったな』

「……姉さんは無事なんだな」

『お前の行動次第だ。分かったな』

「クソ。分かったよ」

 電話はそこで切れてしまった。身代金の話もなく、求めたのは義人の行動だけ。連中の狙いは確実に義人である。シシは確信した。連中の正体は確実に妖怪狩り団体である。また相手はシシにも言及していたことから、この場所は監視されているのだろう。盗聴だってされている可能性が高い。義人もそのことに気付いたようで、シシに目線を送りはするものの、話しかけてくることはなかった。

 困ったことになったとシシは歯噛みする。連中のことだ。シシの正体がバレてしまえば美月を切り捨てることだって厭わないだろう。本物の妖怪と先祖返りとの両方を同時に相手どろうとは考えないはずだが、腹いせに美月を傷つける程度のことはやってもおかしくないというのが、シシの経験から考えられる相手の行動パターンだった。

 しかし反対に考えれば、今現在のシシは連中には全く重要視されていないということだ。

 義人が一人かどうかに拘らなかったのもそういうわけだろう。

 シシは少し考え、義人のスマホを借りる。次いでメモ帳を開くと、短く要件を打ち込んだ。


「義人!」

 美月が見たのは、制服のジャケットの上から鎖を巻かれて跪いている弟の姿だった。

 まるで奴隷のような義人の扱われ方に美月は憤慨するが、彼女もまた椅子に縛り付けられている。美月の力ではピクリとも動くことができなかった。

 一方、義人も頭を下げたまま動かない。まるで自分の運命を受け入れているかのようだ。

「ふん、先祖返りとはいえ人間か。人質が居れば容易いな」

 薄暗い電灯が明滅する中、一人の男がそう呟き、ニンマリと笑う。男はこの組織のリーダーだった。念入りな準備の末、好事家に高く売れる先祖返りをついに捕らえることができたのだった。

 とはいえ、これといった抵抗もなかったのは男にとって驚きでもあった。事前の調査では、妖怪並みとはいかないまでも相当な身体能力を持っていることが分かっていたために、血気盛んな年ごろの青年がその力を活かしてこないのは想定外だったのである。男としてもかなりの数の人員を割いていただけに、肩透かしを食らった気分だ。まあ望外の幸運であるということで、男は口元を緩める。彼は昔から土壇場の幸運だけには自信があった。

「もういいだろう。最後に感動の再会もさせてやったんだ。連れてくぞ」

「──いや、ちょっと待ってくれ」

「あん?」

 今まで動かなかった義人が、細い声を上げる。彼は相変わらず頭を下げたまま言葉を紡ぐ。

「そこの窓が開いているだろう。閉めてくれないか」

「なんでお前に指図されなきゃなんねえんだ。立場分かってんのか」

「ああ、そうか。ならいい」

「義人?」

 美月から声がかかる。義人はそれを無視して、ゆらりと立ち上がった。

「アンタらは僕のことをずっと探っていたらしい。今日も商店街で見かけたし、高校の近くにも行ったそうだな」

「あん? なんでそんなこと答えなきゃ……」

 不意に、開いた窓がガタガタと揺れる。男の右手にあるその窓に、その場に居る全員の注目が集まった。気付けば鳩の鳴き声がうるさい。

 男は周囲を見回した。他の人間は気付いていないようであったが、幾度となく修羅場を潜り抜けてきた彼だけは、現状をしっかりと把握していた。

第一にこの工場のつくり。平屋の廃工場であるこの場所は、確かに建物としては心許ない。とはいえ入念に確認した上でのロケーションである。果たしてここまで屋根が軋むことがあっただろうか?

 第二に目の前の先祖返り。鎖で巻いて跪かせたはいいが、思えば男自身はこの先祖返りの顔を確認していない。部下に任せきりにしていたためだ。

そこまで考えて男は首を振る。冷静に考えてみれば、この先祖返りに協力者など居るはずもない。いるとすれば商店で唯一のバイトであるネットカフェ暮らしの男だが、あの半ホームレスに不審な点は見受けられなかった。

 だというのに、男の頭からは嫌な予感が拭い去れない。

「ベタな言い方になって申し訳ないが」

 男の目の前で、先祖返りは全身に力を込めている。鎖の軋む音がする。

「アンタらが捜していた男は──」

 先祖返りはゆっくりと顔をあげ、そしてにやりと笑った。

「こんな顔だったか?」

「ッ、テメエ!」

 男が懐から銃を取り出す前に、堅牢なはずの鎖が、千切れた。

 そしてそのまま、縛られていたはずの先祖返り──否、豆生田シシは、細かく散らばった鎖の破片を男に投げつける。

「クソ!」

 男とてただでは転ばない。鎖を避けて素早く身を翻すと、椅子に縛られたままの美月を引きずって盾にし、周囲の部下に指示を出した。

「おいテメエら! どいつか知らんが客だ! もてなしてやれ!」

 鎖が千切れたことに啞然としていた部下たちも、男の言葉で我に返る。各々の得物を握り直し、シシを睨み付ける。

「気合いを入れ直したところ悪いけれど、頭上注意だ」

 シシの言葉と共に、屋根の一部が裂けた。

「は?」

「惜しい。鳩だ」

 裂けた屋根の隙間から大量の鳩が流れ込んでくる様を、男とその部下たちは黙って見ていることしかできなかった。

 彼らがようやく事態を呑み込んだ時には、既に趨勢は決していた。工場を埋め尽くすのは総勢八百六十三羽の鳩。とはいえ、たかが鳩と侮ってはいけない。この鳩はシシの友人である鳩妖怪が手づから育て上げた特別な鳩軍団であり、その殆どが鳩妖怪としての自我を確立しているのだから、実力は折り紙つきである。人体の急所を完璧に理解した鳩軍団は、その鋭い嘴で的確に人間を潰すことができるのだ。

「クソッ! クソ! 何だってんだ。たかが鳩ごときに!」

 鳩に翻弄される部下を見ながら、男は悪態を付く。

「ボス、こっちです! 逃げましょう!」

 鳩の群れに遮られてシルエット程度しか判別できないものの、部下の一人が裏口近くで声を上げているのが男から見える。

「チッ、撤退か。久々の大物だってのに」

 目の前の獲物、損害、保身、雇用主との信頼。様々なものを天秤にかけ、男は逃亡を選択した。男は銃を手にもって裏口に走る。人質に構っている暇はない。また走りながら銃を命中させるような腕前も男にはなかった。今はただ、先祖返りに変装していた何者かから逃げることが最優先である。幸いなことに、何者かは男の部下を相手に切った張ったの大太刀周りを見せており、男自身に関心が向いている様子は見られない。

「クソッたれ! もっとマシな装備があればこっちもヤレたってのに。虎狩りのせいで!」

 残念ながらその虎狩りが目の前に居ることに、男は気付いていなかった。しかし、それは男にとって幸運でもあった。もし男がシシのことを虎狩りだと認識してしまっていたら、男は恐怖のあまり動けなくなっていただろう。十四年間で五十三の妖怪狩り団体をたった一人で壊滅させ、そこに出資していたパトロンまでもを破産に追い込んだ虎狩りは、男にとって悪夢そのものである。

 ここ最近は虎狩りを恐れた同業者の自主廃業が続いていたのもあって、今や妖怪狩りビジネスはすっかり冬の時代であった。故にようやく舞い込んだ先祖返りを捕らえる依頼でも満足な資金を調達できず、木っ端の半グレを纏めることでようやく都合が付いたのだ。

「ボス!」

「分かってらあ、逃げるぞ! 東京のビジネスはこれで終わりだ!」

 男は早速、逃げた先での算段を立て始める。行くなら京都か。いやあそこはダメだ。既に大手のシノギが確立されているために新規参入が難しいし、何より妖怪が強すぎる。男は鬼に殴られた同業者を思い出してぶるりと震えた。個人が旗揚げできるような場所じゃない。ならば遠野か。いやあそこもダメだ。妖怪が強すぎる。男は河童に尻子玉を抜かれた同業者を思い出して顔を顰めながら尻を押さえた。

 そんなことを考えつつ、男が這いつくばりながらも必死に駆け抜けた先。裏口の前に立つ男の部下が自身に向かってファイティングポーズを取っているのを認識した時には、もう銃を構える間もなかった。

 よく見れば、それは本来捕獲対象だった先祖返りである。

「逃げれるわけねえだろボケ。これは姉さんの分だ」

 とはいえ次に男が目覚めた時、彼を取り囲んでいたのが鳩ではなく警察だったことを考えれば、やはり運だけはよかったのだろう。


 結局、シシが取った手段は単純な入れ替わり作戦であった。シシと義人は美月の言葉通り姿が似ているだけでなく、背格好もそこまで大きく変わらない。それに連中は義人が来るものと信じ切っているはずである。制服を着ていけば誤魔化せる可能性は高いだろうと思っていたし、実際に男の部下である半グレを目にした際に、それは確信に変わった。シシは連中の先入観を逆手に取ったのである。

 というわけでシシと義人は服装を交換し、シシはそのまま廃工場へ、義人には鳩軍団を呼びに行ってもらった。いたって簡単なおつかいである。街中の鳩に「豆生田シシが虎狩りになる」とだけ伝えればいいのだ。

 スマホのメモ帳に書かれたそれを読んだ義人はしばらく腑に落ちなさそうな顔をしていたものの、最終的には要件を理解し、見事にやってくれた。

 懸念していたのは鳩軍団が集まるまでの時間稼ぎだったが、そんなもの必要ないくらいに軍団の行動は迅速だった。流石、軍団を名乗るだけのことはある。

後は連中の注意をどのように逸らすかで、シシが最初に考えていたのは窓を覗いた誰の顔に鳩軍団で突っ込んでもらうことである。が、上手くいかなかったために鎖を引きちぎることにした。つまりはアドリブである。半グレ集団が妖怪狩りの素人であることは明らかであったし、きっと意表を突けるだろうと思っての行動だったが、やはり正解であった。

無論、美月の身についても、乱戦の最中でしっかりと気を配っていたので問題はない。いつでも千切った鎖を投げつけることができた。

 そして最後は半グレに扮した義人が上手いこと男を美月から引き離して拳を叩きこんで終わり。あれは良いパンチであった。シシとしては物足りないくらいだったが、近年の妖怪狩り団体の軟弱ぶりを考えれば仕方ない。東京の団体もこれで本当にお終いかもしれないなと、シシは感慨深く振り返った。復讐から始まった虚しさばかりの十四年であったが、それでも計五十四の団体を壊滅させ、ビジネスとしてもほぼ機能停止にまで追い込んだのだとあれば、現実逃避にしては上出来だろう。

 シシは思う。本当に、ここが区切りなのかもしれないと。総てが始まった十四年前のあの日。怒りに身を任せて故郷を飛び出し、妖怪狩り団体を滅ぼし続けた日々。今思えば、ヤツらを滅ぼせばヒヒが帰ってくるのではないかと本気で考えていたこともあった。

 十四年──否、気付かぬ間に、もうあと少しで十五年になる。

「シシさん」

「ん? ああ、義人くん」

「姉さんが探してましたよ。なんか用事があるみたいっす。まあ瓶ビール三本開けてたんで、あんまり重要なことでもないと思うんすけど」

「あはは。まあ行ってくるよ。だいぶ無理しているだろうからね」

 そんなわけで、今は事件が起こってから翌々日。美月がヤクザに攫われたという話題で商店街はすかり持ち切りで、昨日なんて近所の住人が代わる代わる様子を見にきて客足が絶えない調子だった。彼らもついでに買い物をしていくものだから、俱利商店は近年稀にみる大黒字である。「これを逃したら次の商機はない」との執念の商魂で店を回してみせた美月に、シシは頭が下がるばかりである。そんなわけで美月はここ数日殆どロクに休めていないというのに、今日もしっかりと親族に応対していた。シシもあれこれ手を尽くしているが、いかんせん部外者では限界がある。

「あの、シシさん」

 美月に会いに行こうとしたシシに、義人から改めて声がかかった。

「なんだい」

「シシさんは、えっと、妖怪、なんすよね。それで俺は先祖返りとかっていう」

「うん。そうだね」

 そう、シシは事件の直後、美月と義人に総ての事情を明かしていた。今回の騒動の原因から、シシが今までやっていたこと、妖怪を取り巻く現状まで、ありとあらゆることをである。

 その時は二人とも事情を呑み込むのが精いっぱいの様子で質問はされなかったのだが、改めて考えればとんでもないことだ。美月のところへ行く前に義人の疑問には答えてあげようとシシは思った。

「あの、失礼かもしれないんすけど、シシさんてお幾つでしたっけ」

「あー、六十七かな。まだまだ若輩だよ」

「ええ……妖怪ってどんぐらい生きるんですか」

「うーん、種族によるかな。うちのでも三百年は生きるらしいけど、長いのは千年超えるって聞いたことあるし。上の世代は文明開化で死んでいるからちょっと分かんないんだよね」

「文明開化で妖怪死ぬんすか⁉」

「あ、ごめん。明治人妖決戦のことね」

「明治人妖怪決戦⁉」

 義人の反応が良いので、シシは思わず笑ってしまった。

「鳩妖怪にも会っただろう?」

「ああ、はい。あのやたらとお洒落で恰幅の良いオッサンですね。ハトミさんでしたっけ」

「アイツの本名は鳩御堂鳳之進藤原朝臣善鳩はとみどうおおとりのしんふじわらあそんぜんきゅう。何代目かの鳩御堂家当主で、珍しく文明開化を乗り越えている江戸生まれの二百三十何歳だかだよ。お偉いさんに仕えていた家系で襲名性らしい。」

「もうどっから突っ込んでいいのか分かんないっす」

「気にしなくていいよ。僕も特別気にしていないからね」

 当の鳩御堂は自身の古めかしい名前を時代遅れだと嫌っており、人前では専らハトミを名乗っている。流行に敏感でファッションセンスが良く、シシも偶に服を見繕ってもらっている仲だ。

 そんな情報を補足すると、義人はとうとう頭を抱えて蹲ってしまった。

「大丈夫かい?」

「……俺もそんくらい生きるんすか?」

「さてね。そう生きようとしない限りは人間の範疇からは外れないんじゃないかな。人間のままでいたいなら、あんまり無茶はしないことだね。永遠の代償に一瞬を失う生き方はきっと後悔するよ」

「……了解っす」

「まあ、どうしても人間社会で生きづらかったら、また鳩に話しかけるといい。……聞きたいことは聞けたかな?」

 シシが問いかけると、義人は首を横に振った。

「すみません、あと一つだけ。……やっぱりシシさんって、小さい頃の俺と会ってますよね」

 義人が真剣な顔で問いかける。どうやらこれが本題らしい。

 とはいえ、前にも答えたが、シシは義人に会ったことはない。復讐に明け暮れていたシシに、少年との交流の思い出などあるはずがないのだ。

 しかしそのことを伝えても、義人は否定するばかりである。

「いえ、会ってるはずなんです。俺が三歳くらいの頃、出先で親とはぐれて、それに発作も出て死にそうだったときに、シシさんは俺を助けてくれました」

 助けた。

 その言葉で、シシにある予感がよぎる。

「……その時の僕はどんなことをしたんだい?」

「よく覚えてないんすけど、なんだか暖かいものが俺の心臓に入ってきたんす。そしたら急に体調が良くなって、それ以来身体も丈夫になったんす」

「……なるほど」

 いつの間にか、シシは自身の胸に手を当てていた。彼の鼓動の奥底にあるその小さな豆粒が、なんだか熱を持っている気がして、シシは目を閉じた。

「なるほど。なるほどね。道理で」

 道理で、親近感を抱くわけである。

「シシさん?」

 義人の呼びかけに応じて、シシが目を開く。何を言うべきか、シシには分からなかった。

 確かに言いたいことは山ほどあったけれど、けれどその殆どは義人にとって重荷になってしまうだろう。だからシシは喉元まで迫り上がってくる言葉の数々を余すことなく精査して、その一つ一つを消していくことにした。

 そんな消去法を繰り返して、シシの心は次第に片付いていく。結果、シシに残ったのは、たった一つの問いかけだけであった。

 その言葉が義人にとって重荷にならないかどうか、今ここで聞いても不自然にならないかどうか、シシは頭の中で何度もシミュレーションして、ついに義人に問いかける。

「義人くんは、何か夢はあるかい?」

「夢、っすか。えっと」

 義人は困惑していたが、シシがじっと自分を見つめているので、しばらくして話し出す。

「俺は、大学で経済の勉強がしたいっす。それで商店を継ぐか企業に就職するかはまだ決めてないっすけど、とにかく姉ちゃんをラクさせたいって思ってます」

「そっか、それはいいな。美月さんも喜ぶよ」

「へへ。だと嬉しいっすね」

 義人が破顔するのを見て、シシもまた笑った。美月が義人を思っているように、義人も美月を思っている。きっと当人にとっては何でもないようなその姉弟愛が、シシにとっても尊いものに思えて、泣きたいくらいに嬉しかったのである。

「うん。『思う念力岩をも通す』だ。応援しているよ。義人くんには義人くんのやりたいことを、最後まで貫き通してほしい」

「はい! もちろんっす! ところであの、やっぱ俺たちって会ってません?」

「ああ、ようやく分かったよ。それは俺の兄だね。ヒヒっていう。今度会ったらよろしく言っといてくれ。偶には顔出せってさ」

「はい!」


「シシくんおっそーい! 何してたの!」

「義人くんと話していました。遅れてすみません」

「いいよ! 許す!」

「テンション高いですね。結構酔っています?」

「酔ってないよ。あ、お父さんとお母さんに会ってくれた?」

「急に落ち着かないでくださいよ。怖いですから、それと、はい。先ほどお線香をば」

「そっか。ありがとうね。それにしてもシシくんのスーツって珍しー」

「友人に借りました」

 シシは両手を広げ、自慢するように美月にスーツを見せつける。冠も婚も葬も祭も滅多にないのが妖怪だが、それにしてはやたらめったらスーツを持っているヤツもいる。ハトミだ。持つべきものは友であると、シシは実感した。

「それで、何か用があるって聞きましたけれど……」

「うーん、話したかっただけ。くつろいでよ」

「仰せとあらば」

 シシが仰々しく頭を下げると、美月はおかしそうに笑った。

「やめてよもう! シシくんの方が年上だったんでしょ? 私すっかり騙されちゃったな」

「僕は好きでしたよ。美月さんの年上ムーブ」

「コラ!」

 そんなじゃれ合いをしながら、シシは美月の隣に腰を下ろした。

 元々少ない親族もすっかり帰宅したためにだらけ模様となった美月は、ワイシャツの第二ボタンまで開けてすっかり出来上がっている。普段は自制している美月がここまでになるのは珍しい。お酒に強い方ではないから、きっと明日には後悔しているのだろう。頭を抱えている美月を想像して、シシは口元を緩めた。

「それにしても、恙なく終わってよかったです」

「そうだね。お母さんの三回忌とお父さんの二回忌、うん、やっぱり同時にやっちゃうのがラクでいいよね」

「むしろなんで去年はそれやらなかったんですか」

「いやあ。流石に一回忌はちゃんとやっとくべきかなあって。妖怪さんはそういうのってないの」

「ないですね。少子化で子供はいませんし、誰も結婚しませんし、かといってポンポン死にませんし、祖霊祭はまあぼちぼちやりますけど、スーツなんて着ませんし、親族は元からみんな村に居るので、ちょっと集まったらお酒飲んで解散ってかんじです。他のところは知りませんけれど」

「くう~。ラクそうでいいなあ。私は人付き合い苦手だから、こういうのは面倒くさいよ」

 美月の意外な一面に、シシは目を丸くした。普段あれだけ活力に溢れている美月が、まさか人付き合いが苦手だとは。

「あ、意外だって顔してる」

「はい。正直驚きました」

「まあそりゃあ、普段は弱いところ見せないように頑張ってるからね。だからなんというか、シシくんが私のお店に来た時、放っておけなかったんだよね。この子、私に似てるなあって」

 シシは美月と初めて会った時のことを思い出していた。あの時、シシは客として俱利商店に訪れたのだった。それがまさかその場でスカウトされて働くことになるなんて、想像もしていなかった。

「だからといって素性もはっきりしないヤツを働かせますかね」

「でもシシくんは悪い人じゃなかったでしょう。実際、シシくんが居なかったら私たちどうなってたか分からないよ」

 結果論だと、シシは思う。今回はそれでよかったかもしれないが、毎回上手くいくわけではないだろう。

「ま、こんなこと言うとシシくんは『結果論です』なんて言うかもしれないから、もう何も言わないけどさ」

 バレている。シシはバツの悪い顔をして、一瞬だけ美月から目を逸らした。

「そういうことが言いたいんじゃなくてね、なんというかさ、そう、うん。やっぱり私と同じだなって話なんだよ」

「ええと」

 美月の話は要領を得ないものだった。彼女が酔っているのもあるだろうが、シシの目にはどうも、まるで言葉にしたくないことを無理やりに捻りだそうとしているようなふうにも見えてならない。

「そうだね。つまるところ──」

 そこで美月は一息ついて、何かを諦めるように、肩の力を抜いた。

「つまるところ、私はお母さんとお父さんの死を、まだ認められてないんだよ。そしてそれは、あの時のシシくんも同じだったはず」

 なんて、美月がそんなことを言うものだから。

 ああ、それは。まったく。

 まったく、美月には敵わないなと、シシは笑ってしまった。

「敵わないですね、本当」

「年の功ってやつかな。豆生田シシくん」

「言いますね。俱利伽羅峠美月さん」

 これはダメだ。シシはそう小さく呟くと、そのまま畳に寝転がる。無理だ、勝てない。シシはまた呟く。

 俱利伽羅峠美月。

 シシはその名前を、今後一生忘れることはない。

 なぜなら彼女は、恐らくはもう二度と現れることのない、妖怪豆生田シシを負かした人間。シシが本気で敵わないと思った人間だ。 美しく、聡明で、愛に溢れ、誠実で、清廉で。他に無限の言葉を尽くしても、彼女の芯を語り尽くすことはできないだろう。

「僕、美月さんを見て、兄さんの死を乗り越えようと思ったんすよ」

 だからだろうか。もう何をやっても自分は美月に敵わないと認識したシシの口からは、今まで誰にも明かしたことのない思いが、すらすらと紡がれた。

「二年か三年か、それくらいで両親の死を乗り越えられるなんて、人間て、美月さんて凄いなって思いました。かたや人間よりも丈夫なはずの妖怪の僕は、十数年経っても兄さんの死を乗り越えられていない。だから焦っていたんです。自分も乗り越えないとって。言うなれば、僕は美月さんに触発されていたんですよ。それなのに、急にこんなこと言われてしまったら、なんだか梯子を外された気分です」

「その割には、今のシシくんは結構いい顔してるよ」

「まあそれは、予想外の出会いがありまして」

「あら、じゃあ乗り越えられた?」

 それはどうだろうかと、シシは自らに問う。どうであろうか。確かに心にわだかまっていたものを消化して、気持ちはすっきりした気がする。これを乗り越えたというのなら、確かにそうだろう。けれどそれでは、なんというか。そう。

「かもしれません。けれど、なんというか、美月さんの話を聞いていると、それだけじゃダメな気がしてきました。寂しいっていうか……教えてくれませんか。美月さんは、どうやってご両親の死と向き合ってきたんですか」

「ダメってことはないよ。でもそうだなあ、前言をひっくり返すような形になるけど、私にとってさ、認めるとか、納得するとか、受け入れるとか、乗り越えるとか、そういうのは重要じゃないんだ」

「それは、どういう」

 美月は一息ついて、シシと同じように寝転がった。

「商店街の近くの緑道に、桜並木があるじゃない。あそこの一本だけ、今は切られてるの分かる?」

「はい」

 美月が言っているのは、公園近くを通っている遊歩道のことだ。確かにそこの一本だけ、桜の木が根元から伐採されていた。

「元々、他の木に比べて樹齢のある木でね、ボロボロでさ。危ないからって切られちゃったんだよ。私が子供の頃に。それが結構寂しくてさー、通るたびに悲しい気持ちになってたんだけどね。ある夏の日、ふとその場所を通ったらさ、そこにヒマワリが咲いてたんだよ」

 ああ、と。シシは思い出した。確かに、この夏も咲いていた。綺麗なヒマワリだった。

「そこで気付いたんだ。私は、きっと日々の大丈夫を積み重ねていて、それがたまたま今日咲いたんだって。受け入れるんじゃなくて、乗り越えるんじゃなくて、日々の大丈夫が、いつかそれを上回る日が、ただ来るんだって、なんとなく分かったんだ」

 美月は続ける。

「だから、向き合うっていうのも、きっと違う。私は、ただ真っ直ぐ生きていくことに決めたの。その過程で得た大丈夫が、きっといつか大きなものになるから、ただその時を待つことに決めたんだよ。時間に任せるっていうのかな」

「寂しく、ないんですか」

「寂しいよ。ずっと寂しい。これまでも、これからも、ずっと寂しい。だからこうして思い出してるんだよ。今日も明日も明後日も、大丈夫が大きくなったその後も、ずっと思い出し続けるんだ。だからさ、たぶん、ゆっくりでいいんだよ。人間の私がこう言ってるんだから、妖怪のシシくんは、もっとゆっくりでいいと思う。まあ、妖怪にとっての十数年がどれだけの重みを持つか、私には想像もつかないけど、でもその果てに、思えればいいと思う」

「──たまにはそっちが思い出せよって?」

「なんだあ。やっぱり分かってるじゃん、もう」

「いや、でも、ようやく分かった気がします」

 美月の話を聞いて、ようやく、シシの心は纏まった。そんな気がした。きっとそれは、酷く当たり前のことなのだ。

「寂しがっていいんですね」

「そうだよ。当たり前のこと。当たり前に傷ついて、当たり前に後悔して、当たり前に叫んで、当たり前に怒って、当たり前に生きて、当たり前に繰り返していけばいいんだよ」

「難しいですね」

「私もそう思う。言ってて出来る気がしないよ。あーあ、きっとどこかで躓くんだろうなあ」

 言うは易しというヤツだ。シシも美月も、きっと色々なことを、勝手に分かった気になっているだけだ。

でも、今はそれでもいいと、シシは思った。

「あーあ! 会いたいなあ! チクショウ!」

「私も! 会いたいな! バーカ!」

 二人の叫び声が、天井に吸い込まれて消える。後悔だらけの言葉は、いつもより少しだけ心地よかった。

 一度くらいは実家に帰ろうかと、シシはふと考えた。いやその前に手紙だろうか。

「そういえばシシくんは何の妖怪なんだっけ」

「自認と種族のどっちがいいいですか」

「なにそれ。どっちも。まずは自認からね」

「ホームレス妖怪です」

「あ、もしかして下宿の話も嘘だった?」

「その話はまた今度にしましょう」

 どうせ勝てやしないのならば最初から戦いとして成立させなければいいのだと、シシは策を弄した。まあきっと美月には読まれているのだろうけれど。

「憶えておくよ。それで、種族は?」

 決まっているじゃないですかと、シシは呟く。

 妖怪の中でも飛びぬけて力が強く、またその力を十全に揮うことのできるシシの基礎となるものは、雨の日も風の日も、川でソレを洗い続けたあの日々に集約されているのだから。

 だから、そんなもの最初から決まっている。

 だから、豆生田シシは。

「小豆洗いですよ。誇りある、ね」

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ホームレス妖怪豆生田シシの家出 私情小径 @komichishijo

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