第22話 崖から突き落とされる恋
日が暮れる一歩手前の時間。夕焼けが畑を、山を、家の外壁を橙色に染め上げる。
持留が斉賀に近寄ってくる。
「ありがとう。連れてきてくれて」
少し寂しげで、けれど優しげないつもの持留だった。
「もういいのか」
「たくさん見たから。それに永一郎が一緒に来てくれたから」
「いや、別に俺は何もしてない」
「鹿児島の家行ったよねって今後話せるのが嬉しいんだ。ほんとにあったんだって思えるし」
斉賀は、彼との間に特別な思い出を作れたことに気づいてはっとするようだった。
名残惜しそうに家を振り返る持留を待ちながら、二人で車に乗り込んだ。運転席に座った瞬間、どっと疲れがきて深く息を吐いた。運転が好きと言ったのは嘘ではないが、慣れない道が多くて神経を使った。
持留も疲れているのは同じであろう、夕焼けの中でしばし休んだ。
「永一郎、今日はこっちに泊まろうか」
持留が気遣う表情で言った。今から福岡まで運転、と考えて弱っていた斉賀にとって、これ以上ない提案だった。
「そうできるとありがたいけど。宿あるか」
「たしかに、こっちあんま泊まれるところないんだよね。ちょっと調べてみる。あ、ここ電波入んないから、入ってきた大きい道の方に降りてもらってもいい? 」
「電波入らないとかまじか」
自分のスマートフォンを見てみると、確かに圏外だった。一体全体、この辺りの住民はどんな生活を送っているのだろう。
また山道を走る。木々で陰ってもはや夜に近いほど道が暗く、徐行に近いスピードで進まざるを得ない。ふと通ってきた国道の途中にホテルがあったのを思いだす。
「そういえば来る途中、ホテルあったよな。なんかやたら派手なやつ。あれは? 」
「あれ……あれはラブホテルだし、駄目でしょ」
スマートフォンを弄りながら、返事がある。腕を伸ばして車のフロントガラスぎりぎりまで端末を上げて、なんとか電波を得ようとしており、そちらに気を取られているようだった。
「ああ、あれそうなんだ。ラブホテルって男二人だと入れないのか」
「ん……いや、受付に人いないとこもあるくらいだし、入れるだろうけど。だめなとこもあるのかも」
斉賀はラブホテルに入ったことはなかった。大学生になってから、そういう種類のホテルがあるということに初めて気付いたぐらいだった。持留の口ぶりは入ったことがある人のもので、瞬時に誰と? という疑問がわく。
「あ、電波入った」
進入するのにためらった山の入口に、随分近づいて、ようやく鉄の塊が使い物になった。スマートフォンとにらめっこをしながら、道案内をしてくれる。
「とりあえず右の方向にひたすら向かってもらったら、市街に着くから」
言われた通り進んでいると、持留がどこかに電話をかける。
「……すみません、今日飛び込みで宿泊したいんですけど、二つお部屋空いてますか? あ、一つしかない……。二人で泊まりたいんですが、ツインベッドですよね? あ、そうですか。すみません、ちょっとお待ちください」
保留音が流れているのが小さく聞こえる。持留がこちらを見て、弱った表情を見せた。
「永一郎、どうしよう。泊まる部屋、僕と一緒になっちゃってもいい……? 」
「いいよ。むしろ二部屋取ろうとしてるのに驚いたけど」
「ん……」
保留音が流れたまま、持留は逡巡していた。何を悩んでいるのか斉賀にはさっぱり分からない。二部屋取ったらお金が勿体ない。
持留は斉賀の顔を見て、額に手を当てたあと、保留を解いた。
「長く持たせてすみません。二人一部屋で予約したいです」
名前や電話番号を伝えて、電話を切った。
「無事取れたか」
「うん、取れた」
「別に一部屋で問題ないだろ。なんかあるか」
「いや……二人一緒だと疲れ取れないかなって」
「そんなことないよ」
「うん」
それより、彼が誰とラブホテルに行ったのかが気になる。そんな自分が少し気持ち悪い。
信号待ちの際に、持留がナビに本日宿泊するホテルの名前を打ち込んだ。わりと近くにその場所はあり、斉賀はホッとした。
「宿取ってくれてありがとうな」
「いやいや、迷惑かけっぱなしだから、これくらいは」
「……なんか、こんなに家族以外の人と二人で一緒にいるの初めてかもしれない」
「ああ、そうだね。僕も」
「裕となら住めるかもな、俺」
なんとなくそう思い、そのまま口にした。同居やら同棲やら、気遣って大変だろうに世の中の人たちはよくやる、と思っていたが、気遣うのが嫌にならないような相手が皆いるのだ。そんなことに気づく。
持留は返事をせず、曖昧に笑った。
◆
ホテルに着いてチェックインをした。部屋に入り、荷物を降ろすと疲れが押し寄せてベッドに仰向けに寝転んだ。眼鏡を外して、ベッド脇のサイドテーブルに置いた。背中の筋肉が弛緩して、気持ちがいい。
ツインベッドの窓際の方を斉賀が取った。持留はもう一個のベッドに腰掛けて、天井を見上げていた。
エアコンがよく効いていて、心地よく今にも眠ってしまいそうだった。
「なあ、裕。今日夜ご飯何食べる」
横向きに体勢を変え、肘をついて頭を手のひらで支える。座る持留を見上げながら問いかけた。
「何にしようか。さっき見たけど近くに居酒屋あるからそこでもいいし。それかスーパーでお刺身とか買ってきてもいいかも。安くて美味しいよ」
「どっちもいいな……迷う」
彼が手元のスマートフォンを見て、辺りの店を調べてくれている。悩んでいるうちに眠ってしまいそうだったから、隣のベッドに移り持留の横に腰掛けて画面を一緒に覗き込む。
途端、彼は手を滑らせてスマートフォンを床に落とした。幸い柔らかい床材が敷いてあり、衝撃は少なかったようだった。
とっさに床に伸ばした手のひらが持留の手のひらと重なる。触れた途端、びくりと彼の体が跳ねた。
「あ、ごめん。落としちゃって」
「いや」
拾って渡すと、持留はどこか緊張しているように見えて、斉賀にもそれが伝染る。触れた部分の感覚が鋭くなっているような。眠気が消え失せる。
視線を彷徨わせる横顔を眺めると、肩を抱き寄せて落ち着くように言い聞かせる、そんなビジョンが浮かぶ。おかしな想像だ、と自分を諌めて、斉賀は少しだけ持留から離れて座りなおした。
「あ、えっと。ここいいんじゃない。イタリアンの居酒屋さん、つけあげあるし」
「お、ああ。そこにしよう」
持留が差し出した画面をろくに見ないまま、賛成した。二人は立ち上がって、外に出られるようにいそいそと準備を整えた。
ラブホテルにて、緊張している持留の肩を、一緒のシーツにくるまって抱いた人がいるのかもしれない。気分が悪くなる。考えないようにしようとしながら、リフレインする。
◆
ホテルから川沿いを歩いて、徒歩十分もかからないところに居酒屋はあった。持留の実家とは比べるべくもないが、人と、植物や虫どちらにとっても住みやすそうな田舎だった。何かの鳴き声が常に響いている。途中、スーパーに寄って換えの下着を購入した。
居酒屋にて、地鶏のカルパッチョやシーザーサラダなどお洒落な名前の食べ物と、その中で浮いているつけあげを頼んだ。
「つけあげってなんだ」
「さつま揚げのことだよ」
「ああ、なるほど」
アルコール飲み放題をつけて、斉賀は生ビールを持留は芋焼酎をもらう。乾杯をしてグラスを傾けながら、静かに飲む。
「今日はほんとにありがとうね。こんなに人に助けてもらったことない」
「いや、裕の役に立ててよかった」
昨日よりも酒が美味しい。料理も当然のように美味しく、まだ現地にいながら再び鹿児島に来たいと考える。
持留もしみじみ楽しそうにグラスを空けた。昨日よりもペースが早い。彼は酔うとどうなるのだろうか、酒で緊張が解けるといいけれど。
時間をかけて、酒と食事を味わい、最後にはデザートで薩摩芋のスイートポテトを食べた。
「あのね、芋焼酎って甘いものにも合うんだよ。知ってた? 」
「いや、知らなかった」
「だから、スイーツのバイキングとかにも芋焼酎置いたらいいのにって思う」
「そういうのってメインターゲット層は若い女の子だろうからなあ。難しいんじゃないか」
持留は酒に酔うとご機嫌になり突拍子もないことを言いだすようだった。そういうところもいいな、と好ましく眺めていた。
店を出る前にお手洗いに立って、戻って来ると持留が支払いを終えていた。
「おい、俺払う気だったのに」
「もう払ったから大丈夫! 」
「待てって」
ぷいとそっぽを向いて、店を出ていくのを追いかける。店員さんに頭を下げると、手を振ってくれた。追いついて、横を歩く。
「割り勘でいいだろ」
「だって、今日の夜ご飯とか本当は斉賀食べなくてよかったし、僕、奢んないと申し訳なくて辛いし」
捨て台詞のように言ってちょっと歩くスピードが上がる。彼は結構酔っている。面白くて、夜道に笑う。街灯のないところで空を見上げると、星がよく見えて驚き、立ち止まった。理科の授業で習った星座を見つけた。斉賀が遅れていることに気づいて持留が戻って来る。
「こんなよく見えるんだな、星」
「星? 」
持留も夜空を仰ぐ。ああ、と小さく言葉を零したのが聞こえた。二人で星を追いながら、来たときよりも遅い速度で宿へと帰る。
◆
持留の後にユニットバスに入ると、洗面台に化粧水が並んでいた。あと、いい匂いがしていた。
食事を終えて帰ってきてすぐ、汗をかいた洋服をコインランドリーへ持っていく、と持留が申し出てくれ、昨日来ていた上下をお願いした。予定していない二泊目だったから、明日着る洋服がなかった。
バスタブの中でシャワーを浴び終え、タオルで体を拭く。衣服を身につける前に、ドライヤーで髪の毛を乾かした。濡れると天然パーマが強くなり、毛先がくるりと巻かれるのが斉賀のコンプレックスだった。入念に乾かし、髪型が落ち着いてから下着を着て、バスローブ型の館内着を身に着けた。
ベッドのある部屋に戻ると、持留は椅子に腰掛けてくつろいでいた。テーブルの上に飲み差しの水のペットボトルが置いてある。彼も斉賀と同じ館内着を着ていて、同じサイズだから細身の彼の方が肩が落ちている。
酔って火照った顔の赤みは治まらず、彼はお風呂上がりみたいに見える。
「お水、冷蔵庫入ってたよ」
「おお」
喋り方がゆったりしていて、眠たそうだった。冷蔵庫からペットボトルを取り出して飲んだ。湯上がりののぼせた体に染み渡る。
「明日、何時に起きようか」
「あー、別に俺なんも予定ないからいつでもいい」
「じゃあ十時くらいに出るようにしようか」
「なら、八時半とかに起きて朝食食べるか」
朝食はバイキングだった。その時間でいいと頷いて、持留はスマートフォンで目覚ましをセットしていた。
「あと三十分くらいで洋服の乾燥終わるから、それまで回収したら寝る」
「そうか」
「永一郎はよかったら先寝てね。運転お疲れだろうから」
「いや、それまでは一緒に起きとくよ」
斉賀は荷物を揃えて、明日の準備をした。やることを終わらせて、シーツの上にあぐらをかく。
今日の出来事を振り返ると、あまりに密度が濃く、一人で笑ってしまった。
「なんか面白かった? 」
「いや、今日一日思い出したら、色々ありすぎて面白くなってしまった」
「そうだね」
彼も笑った。食事に出る前の緊張感はなくて、一日が無事に終わることへの安堵に溢れていた。今回の旅行で何回うどん食べるんだ、とか大名庭園に悩みを抱えずもう一度行きたい、とか二人にしか分からない冗談で笑いあう。
乾燥が終わった頃、館内にあるコインランドリーに行って、乾かしたての熱い衣服を持ち帰った。二人とも眠気が限界で、眠い目をこすりながら部屋に戻った。
再度寝支度を整えて、それぞれのシーツに潜り込む。ベッド脇のつまみで灯りを常夜灯に変えた。おやすみ、と挨拶を交わした。
しんとした部屋。次第に目が慣れてきて、仄暗い灯りで部屋が見えるようになる。気になることを思い出して、ふと寝るに寝れなくなる。
「裕、起きてるか」
小声で問いかけると反応があった。
「うん、まだ起きてる」
小骨のように喉の奥に引っかかっていたことを聞いた。
「車でラブホテルの話しただろ」
「え、うん。したね」
「ラブホ、入ったことあるか。……俺はないんだけど」
「急にどうした」
彼が寝返りをうって、こちらを見た気配がする。
「いや、行ったことあるんだろうなと思って、さっきの感じ」
「ん……ある」
「そう、か」
なぜだか衝撃を受ける。
「誰と」
聞いてしまう。前回の反省を活かさずに、理性よりも好奇心が勝つ。
「え〜、えっと」
シーツがもぞもぞと動くのが微かに見える。
「んと、石田さん」
唐突に出てきた人名に、記憶を探る。知り合いにはいない。
「え、誰だよ」
「だから、石田さんって人」
もう寝る、と区切りを打つみたいに告げて、彼は寝返りを打ちつつ、シーツの中に全身潜りこんでしまった。
それ以上質問はしなかった。持留と石田さんという何者かの関係を考えながら、眠りについた。
◆
明け方、目が覚めた。カーテン越しに朝日が差し込み、柔らかく部屋が照らされている。エアコンのせいか喉がひどく乾燥しており、水が飲みたかった。シーツから上体を起こして、寝ぼけ眼で持留の方を見る。
すっぽりシーツを被っていたはずの彼は掛け布団も蹴り飛ばして、まくり上がった館内着から足を無防備に投げ出していた。熟睡していることが分かる寝顔は子どものようだった。
徐々に覚醒する頭は、むき出しになった太ももを意識に捉えて、離さなかった。ぎりぎり下着は隠れている官能的な衣服の乱れ。ふくらはぎに筋がうっすらと浮いている。朝焼けに光るように艶かな皮膚は白くて、毛が無い。
自分自身の脛と比べると、己が恥ずかしくなるくらいには滑らかだった。
斉賀は涼しい室内で、汗をかいていた。足の付け根を穴が開くほど見つめて、カラカラの喉を鳴らした。触るとどんなに気持ちがいいだろう。触りたい。
それを実行する勇気はなく、ただただ見つめていた。持留が身じろぎをして、息を飲むほど驚き我に返った。何を考えているのだ。下半身に血が集まっているのが分かる。太ももからようやく目をそらして、気を紛らわすように冷蔵庫に入れた水を取り出して思い切り呷る。冷たい刺激で目が完全に覚める。
そして、何も悪いことはしていないというつもりで、彼が蹴り飛ばしたシーツを掛け直してやった。
鼓動がうるさいまま布団に戻り、持留に背を向けて心臓を手で押さえる。勃起は収まらなかった。
斉賀には、眠れない夜があった。二週間に一度程度訪れるその夜は自慰をしてからでないと寝付きが悪かった。眠れないから仕方なく触れて、いつも決まった動画を観て素早く終わらせていた。
だから、他の男が言う、アダルトビデオで性的興奮を得て毎日抜いているだとか、女子の制服に透けるブラジャーの線で興奮して学校のトイレでオナニーしただとか、そういったことが理解出来ず、何を大袈裟なことを言っているのだ、と冗談として捉えていた。
今、その感覚が分かってしまった。皆本当のことを言っていたのだ。
何か違うことを考えようとした。土の種類ごとの含水比を思い出そう、白砂はたしか一般的に十五から三十パーセント、沖積粘土は……。別のことを考えても最終的には彼の無防備な姿が浮かんで消えない。
斉賀は仕方なく、トイレに入り鍵をかけて、固くなったそれに触れた。待っていた刺激に息が漏れる。彼を使って自慰をした。
どんな触り心地なんだろう。存外筋張っているだろうか。引っかかりのない皮膚。触れたい。
夢中で扱いて、トイレットペーパーに射精した。粗くなる息を抑えて、深くため息をついた。虚脱感に苛まれる。
彼に向ける熱はこれだった。斉賀は自分のことをやっと理解した。男に欲情する体を持っている。
手を洗い、再び眠ろうとして布団に戻ったが寝付けなかった。アラームが鳴って持留が目覚め、肘をついて上体を持ち上げた。目を擦り、こちらを見てまだ眠たそうに微笑んだ。
「おはよう、永一郎」
可愛くて、少し腹立たしく、罪悪感もあり胸が痛む。
「おはよう」
今まで通りでいられるように、態度を変えないように尽力した。
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