動かずとも、迫り来る。
天井 香織
読書感想文
困った。実に、困った。
こんなつまらない書き出しを走り書く程に、私は困っていた。今年も頭を悩ます熱い季節が来てしまったのだ。
何を隠そうか。私は、読書感想文と云う強敵に頭を悩ませ、知恵熱まで出しているところである。
夏休みの初めの週に宿題一覧帳の9割には終わった印である斜線が引かれていた。だというのに、残り一つが終わらずに夏休みはもう残りも5日も無いぞと2学期が手をこまねいてるではないか。
課題図書とやらは、じっくりしっかり、きっかりすべて読み切った。しかし書けん、筆が進まん手が動かん。気がつけば原稿用紙の罫線であみだくじを始めている始末である。
お盆に食べたスイカは味がせず、手持ち花火は上の空で目を焼くような閃光が消えても握り続けていた。すべては、この憎き読書感想文と云う敵のせいである。
そうこう頭を悩ませ熱のなか私は、この難問をどうしようかとフラフラとブックカフェに立ち寄り、ペン先をゆらゆらと揺さぶっている。
眼前に聳え立つ本の壁を前に視線を泳がせてみれば、幾百を超える背表紙がただ私を圧巻する限りであった。右から左へ、上から下へと目線を移せば色とりどりな蔵書が選り取りみどりと並んでいる。
だが、どれもパッとしないタイトルではないか。そこに私の心をワクワクさせるような本は並んでいなかった。
仕方がないと別の本棚に移動し、あちらこちらとまたも視線を流して見ていると、1冊の本に目が止まった。
『〆切本』。白の背表紙に黒字で書かれたタイトル。それは、まるでカステラかのように分厚い見た目をしている。この本だ、直感的にそう感じた。
手に取りページを捲れば、そこには締切に追われる作家のエッセイや、夏目金之助氏が出版社に送ったとされる締切延長の願いを綴った手紙の内容が記載されているではないか。
初めに戻り目を通してみると、田山花袋氏によるエッセイから始まっていた。
「また、駄目ですか?」
こう、妻が言う。
「駄目、駄目。」
「困りますね。」
「今夜、やる。今夜こそやる。」
そう書き始められた文は締切を過ぎ去れど、書くことが見つからぬ筆者の葛藤が画かれていた。
書かねばならぬが書くことが見当たらぬ、そんな様子が今の私に似ていて少し笑いがこぼれる。結局、彼はその日原稿を取りに来た編集者も追い返し、小説に対する嫌悪感さえ覚え始めていた。
しかし、書けぬ、書けぬ。と悩み迎えた夜。ふと興が湧いて来て、筆を執る。筆が手と心と共に走る。二枚三枚、四、五枚と埋まっていた。
その瞬間だ。その瞬間を私も待っているのだ。ふとやってくる、靄が晴れて筆が止まらぬような瞬間を。
読み終われば、私はすぐにページを捲っていた。この本の虜になっているのが自分でもわかった。何が書いてあるだろう、文豪と名の知れる御方々もどれほどの悩みを抱えていたのだろう。
次ページの夏目氏は、こう語っていた。
『十四日にしめ切ると仰せあるが十四日には六づかしいですよ。〜とにかく出来ないですよ。』
『だれか代作が頼みたい位だ。然し十七八日までにはあげます。』
『時間がないので已を得ず今日学校をやすんで帝文の方をかきあげました。』
そこには締切の延長を願えど、最後には締め切り前に作品を仕上げる夏目氏の姿があった。私は途方もなく恥ずかしさを覚えた。
世に期待され、短い締切に追われながらも小説を書き切る彼を前にして、たった数枚の原稿用紙を仕上げられないなど甘えでしかなかった。
彼の熱意を前に、私の筆にも火が着いた。この篝火が消える前に、私はこの読書感想文を書き切らねばならぬのだ。ただの『読書感想文』とやらなど、ヘチマの皮とすら思うまい。
私はペンを強く握り直し、ゆっくりと、されど強かに原稿用紙へと言葉を紡ぎ始めた。
〆
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