烏鵲楼奇譚-美貌の茶芸師と好漢たちの中華世界活劇-

神崎あきら

第1話 朱鷺山の仙人

 蒼天を突く峻厳な頂を見上げ、いったいこのような険しい山に住むのはどんな奇人なのかと想いを馳せる。運河を下り、断崖に築かれた桟道を進み、蛇のように曲がりくねった山道を幾度も折り返し登ってきた。

 伊織いおりは岩壁の作る日陰に腰を下ろし、額から流れる汗を藍染めの手ぬぐいで拭う。竹の水筒を傾けてみるが、すでに空だ。


 霊峰朱鷺山には伝説の薬師が住んでいるという。あらゆる植物に精通し、人体への学識が深く、たちどころに身体の不調を治すことができるのだと。

 世を厭い下界に降りることはなく、住まいを訪ねたところで居留守を使われるか無碍に追い返されるので、顔を見たものはほとんどいない。

 街で聞いた他愛のない噂話だ。


 伊織には薬師に会わねばならぬ理由があった。故郷である天陽てんよう国から大海を越えてやってきたのは、この遼河りょうが国で律令や仏法を学ぶためだけではない。病に伏せる師を救う霊薬を求めるためだ。

 遼河国の中心部、千都には古今東西のあらゆるものが集まる。伊織は学問の合間に街に出かけて薬を探し回ったが、目的の効能を持つ霊薬を見つけることができなかった。


 そこで耳にしたのが、朱鷺山の薬師の噂だ。同門の徒からは道は険しく、山賊や危険な生き物も徘徊しているからやめておけ、と止められた。しかし、伊織は伝説に賭けることにした。

 話の通り険しい山だ。ここへ辿りつくまで人家など一軒も見かけなかった。こんな場所に本当に人が暮らしているのだろうか、伊織は脳裏を過ぎる疑念を振り払う。


 歩みを進めると、涼しげな水音が聞こえてきた。叢の向こうに岩にぶつかる清流の白い飛沫が見える。伊織は大岩の上にしゃがみこみ、両手で水を掬う。水は手の感覚が麻痺するほど冷ややかだ。喉の渇きを潤し、水筒に清水を汲んで頭からかけた。涼を得て汗が一気に引いてゆく。これでしばらく乾きはしのげそうだ。


 岩場の上に大きな鴉が三匹とまっているのが見えた。鴉は岩の上で何か黒いものをつついている。狸かいたちの死骸だろうか。そう思って見ていると、短い足がぱたぱたと動いた。それはまだ生きている。


 自然の摂理とはいえ、生きながら食われるのは辛かろう。伊織は手近な石を拾い上げ、岩にぶつけた。鴉は威嚇の声を上げ、まだ黒いものをついばもうとする。

 伊織は石を拾い、二つ、三つと投げつける。鴉はとうとう諦めたのか恨みがましい鳴き声を残し、森の中へ飛び立っていった。


 伊織はおそるおそる黒いものに近付いてみる。それはつるりとした細かい鱗を纏っていた。抱き上げてみると、胴が長く、腹が白い。黄色い嘴を持ち、鳥のようだが、羽はない。異様に短い足をばたばたさせている。

 見たことのない奇妙な生き物だ。仙人が住むという山だ、こんな生き物がいても不思議ではないのかもしれない。


 鳥に似た奇妙な生き物は衰弱しているように見えた。伊織は履き物を脱いで清流に入り、山女魚やまめの稚魚を手づかみで掴まえて岩場に投げてやる。奇妙な生き物は山女魚を器用に嘴で掴み、つるんと呑み込んだ。


 五匹ほど食べると満足したようで、上機嫌で岩場の上をぽてぽて歩き回っている。木の枝に止まる鴉が目を光らせているのが見えた。このまま放っておけば、また奴らに襲われるに違いない。

 伊織は奇妙な生き物を連れていくことにした。


 清流に沿って山道を登っていくと、柵に囲まれた草蘆が建つのが見えた。

「もしや、ここが薬師の家」

 伊織が期待を胸に門へ駆け寄ると、柵の向こうから男が二人険しい顔をして大股で歩いてきた。

「あいつ、何様のつもりだ」

「お高くとまりやがって」

 どうやら二人は薬師に取り合ってもらえず、返り討ちにされたらしい。


「あんたも奴に会おうってのか、だが徒労に終わるぜ」

 髭面の青い着物の男は忌々しげに地面に唾を吐き捨てる。二人は罵詈雑言を吐きながら山道を下っていった。

 その背を見送りながら、伊織は不安に表情を曇らせる。彼らは苦心してやってきて、何も得るものが無く帰る羽目になった。それほどに気難しい相手なのだ。


 しかし、ここまで来てのこのこ帰るわけにはいかない。

「ええい、南無三」

 伊織は意を決して門をくぐった。敷地に足を踏み入れた途端、頬を疾風が吹き抜ける。恐る恐る振り返って見ると、背後の門に小型の刀子が三本刺さっている。

「ひえっ」

 遅れて恐怖が襲ってくる。草蘆の主が放ったのだ。初対面というのに、いきなり殺す気なのか。


「帰れといったはずだ」

 長身で細身、黒い着物を纏った男が姿を現わした。艶やかな黒髪をひとつ括りで纏め上げ、臙脂色の組紐で結わえている。白い肌に高い鼻筋、切れ長の瞳は月の無い夜の静謐な湖を思わせた。背筋を伸ばした凜とした立ち姿は浮世離れしていた。

 慣れた手つきで刀子を弄んでいる。


「私は今ここへ来たばかりです」

「そんなことは関係ない、帰れ」

 男のふてぶてしい態度には微塵も取り付く島がない。しかし、何とかこの男と話をしたい。伊織は食い下がる。

「遠く離れた故郷で大事な人が病に伏せています。どうか、薬を分けてもらえませんか」


「何を勘違いしている、俺は薬師ではない」

 男は面倒臭そうに腕組をする。

「えっ」

 伝説の薬師を訪ねてきたというのに、思わせぶりな場所に住んでいるだけの根暗な男なのか。紛らわしい真似はやめてくれ。伊織は愕然と肩を落とす。

 男は伊織の足元に注目する。


小雪シャオシュエ

 男が奇妙な生き物を見つけ、名前を呼んだ。この生き物はどうやらここで飼われていたようだ。

「三日前から姿が見えず、探していた」

「鴉に食われそうになっていたところを助けました」

 男は伊織の顔を見据える。小雪が伊織に懐いているのを見て、話に嘘はないと判断したようだ。チッと舌打ちをして草蘆へ入ってゆく。


「茶でも飲んでいけ」

 男が扉を開けたまま振り返る。伊織は嬉しそうに大きく頷き、履き物を揃えて草蘆に上がる。

 室内は簡素な作りで、杉を切り出して作った足の短い長机がひとつ、壁際には小さな引き出しがいくつもついた棚が置かれていた。火鉢にかけられた鉄瓶から湯気が立ち上っている。

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