アガペー

瑠璃川新

宝神伊織

 自宅何軒分の敷地があるのか分からない屋敷に入り、手入れの行き届いた庭園を抜ける。花々の香りと噴水は現実を忘れるくらいだ。


伊織いおり先生はとにかく気難しいから、くれぐれも粗相のないように。言葉一つも考えながら話すこと。あなたはたまに危なっかしいから。玄関を入ったら目の前にある階段を登って‥。』


 と色々と聞かされた。

 そんなに言うならあなたが行ってよ。と言いたかったけども我慢我慢。玄関を上げるとそこには城を思わせるような大きな階段があった。


「階段ってこれ、よね?」


どこを歩くのか分からない大きな階段の端を登り、教えられた通りに部屋に向かう。


「本当にこんなところに一人で住んでるの?」


芸術家はこだわりが強い人が多いが、一人で暮らすのにこんなに広く、豪華にする必要があったのだろうか?の前に、個人資産どれくらい持ってるのだろうか。と誰もが思うことを思いながら部屋の前についた。


「失礼します。本日より雇われた宝生ほうしょうあおいです。伊織先生はいらっしゃいますか?」


自分の声だけが響く。一向に返答がない。もしや、中で倒れている?


「伊織先生!」


勢いよく扉を開けると、目の前に海岸が広がっていた。


「ちょっと静かにしてくれるかな。気が散る。」


引き締まった後ろ姿の男性が、高い梯を登って作業をしていた。目の前に広がっているのは彼が描いている作品らしい。よく見ると床にはバケツに入った絵の具が何個かあったり、様々な種類の筆が散らばっていた。やはり気難しい性格なのだろうか。喉まで出かかっていた感想を押し込んだ。ただただ、彼の描く絵を眺めていた。


何時間経っただろうか。外はもう陽が沈もうとしている。


「うん。いい出来だ。今日はこれくらいにしておこう。」


ゆっくりと彼が梯子から降りてくる。


「っ!君は誰?どこから?!ああっ!」

「先生!」


私の姿に驚いた先生が体勢を崩して、落ちてくる。


「っ‥。大丈夫ですか?」

「君は‥。ありがとう。ところでいつからここに?」


彼を起こし、視線が重なると彼は目を大きく見開いて一瞬固まった。


「2時頃に訪ねたのですが、先生が集中していたようで。本日より雇われることになった宝生蒼です。」


集中すると一切覚えていないタイプなのだろう。もう一度同じ挨拶をした。


「あ、あぁ。そう言えばそんな話があったね。」


彼は視線を逸らすと手を洗いに行った。


「いきなりで申し訳ないのですが、契約内容を確認したいのでよろしいでしょうか?時間も遅くなりましたし、手短にお話しして今日のところは帰りますので。」

「そうしようか。そこのソファーにどうぞ。紅茶とコーヒーどっちがいい?」

「あ、大丈夫ですよ。私猫舌なので。」

「そうだったね。じゃあ、僕の分だけ入れてからそっちに行くよ。」


誰かと間違えたのだろうか?彼とは初対面なのに。


「次の展示会の作品ですか?この海の絵。」

「あぁ。これは暇つぶしさ。それにこんな大きなの運ぶの大変だし。次の展示会のはまだ描けてないんだ。」


紅茶を一口運ぶと、書面に目を通した。


「ねぇ。君って何日か泊まれたりするの?」

「えぇ。あらかじめ契約をしてくださっているなら可能です。」

「‥君、僕のことなんとも思わないの?」


この短時間で何か粗相をしてしまっただろうか?だとしてもした覚えはない。


「なんとも、とは?」

「‥なんでもない。君なら大丈夫そうだ。今度次の展示会の絵を描くために必要なものを買いに行きたくてね。その警護をお願いしたい。」


一瞬表情を曇らせたが、契約についての会話をしているということは相手は私で大丈夫なのだろう。


「契約内容は概ね契約書に書いておる通りで構わない。変更があればその都度連絡を入れる。」

「かしこまりました。」

「じゃあ、今日は送ろう。すっかり遅くなってしまった。」

「いえ。大丈夫ですよ。先生はおやすみになられてください。もし外に出て先生の身に何かあれば私の意味がありませんから。」

「‥そうか。わかったよ。男としてなんだか情けない気もするけど。君が言うなら従うことにするよ。」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る