無色透明が導きだした式と名答

 僕には少し、歳の離れた弟がいる。

 今は少し事情があって、名乗る苗字は違うし、戸籍上は兄弟ではなくなっているけれど。

 僕の記憶と心と、そして体の中を流れる血が覚えている。

 17年前、はじめて弟と出逢ったあの日のことを。

 本当に嬉しかったんだ。

 母さんの横で寝転んでいた弟は顔を真っ赤にして泣いていて、父さんは困ったように笑っていた。

 けれど、僕が覗き込んだら、弟は僕を見つめて泣き止んだんだ。

 そして、笑ってくれたんだ。

 まだ、目も見えていないし、笑ったのとは違うのかもしれないけれど。

 僕は、あの時の弟は泣き止んで、そして僕に微笑んだ、そう思っている。

 僕は生まれてから今日までの日々の中、あの時が一番幸せだったと思う。

 弟が生まれてから程なくして、世の中は不景気になり、父さんの仕事の都合が変わって、両親は困り果てていた。

 乳飲み子とまだ幼い子供を抱えて生活するには、いろいろと心もとなさ過ぎたんだと思う。

 ある日、母方の親戚たちがやって来て、息子を一人、跡取りとして引き取りたいと言ってきた。

 その家は会社を経営していて、世の中が不景気であっても、もろともしない大きな家だった。

 引き取った息子のことは大事に育てるし、この家のこともしっかり援助し続けることを約束すると彼らは口々に言った。

 両親は最初こそ首を横に振ったが、たくさんの大人に説き伏せられて、渋々だったが了承した。

 多くの大人が弟を差し出すと思っていたようだが、僕がそれを許さなかった。

 弟はこの両親を選んで生まれてきてくれた。

 僕の弟として、この家にやってきた。

 奪われるわけにはいかない。

 弟から優しい両親を、弟の平穏な暮らしを、弟のこれからの幸せを、奪われるわけにはいかなかった。

 僕は自ら望んで、この家を出て、養子になった。

 その後、養子としていった先の父や母は優しかった。

 もともと、親戚だから、まったく面識のない人間というわけではなかったし、盆暮れ正月には父さんと母さん、それに弟の黒斗くろとにも会えた。

 だから、苦痛というほどではなかったけれど、やはり幼い頃は寂しかった。

 三人が家に帰っていく時、自分だけ取り残されることがつらかった。

 そして驚いたことに、僕が来てすぐ、父と母のところに娘が生まれた。

 当時の僕にとって、戸籍上の妹だ。

 父や母にとって、思ってもいない出来事だった。

 つまり、僕が養子になった時には、すでに腹にいたのだろう。

 父や母は、せっかく僕が養子にきてくれたから、僕を跡取りにすると言った。

 けれど周囲の大人は、せっかく血の繋がった娘が生まれたのだから、彼女が正当な跡取りだと言った。

 僕がやって来たことで、跡目争いになるのも気が引けたので、成人したタイミングで僕は母や母さんの旧姓を名乗ることにした。

 父や母は自身の息子として来てくれたのだからと優しい言葉をかけてくれたが、僕はもう弟のいる家に帰れないなら、なにごともどうでもよかった。

 ならば、せめて争いもなく、面倒事を全て回避して、つまらない生活を送る方がマシだった。

 僕の強い要望に、最後は父や母は折れる形で、僕は茂野もの 透明とあから、十色といろ 透明となり、今の無色むしき 透明となった。

 跡取りの娘が生まれた後も、僕が戸籍から抜けて母さんの旧姓を名乗っていても、父や母は変わらず優しかったし、息子として接してくれた。

 それでも僕の生きているこの世界はいつしか色が消えてしまっていて、何の色もない中、声も音も感情も何もかもがない、無の世界。

 けどある日、再びお前との日々がはじまった。

 お前をみつけたその瞬間、僕の胸に広がったのは、突然の眩しい光とともに舞い散る桜の香り。

 優しい風が吹きこんで、世界に色がよみがえる。

 僕の生きている世界を押し流していた無情な水が春の陽に渇かされ、世界に色が舞い戻ってきた。

 色が舞い戻れば、懐かしさや愛しさと同時に、苛立ちや苦痛も、僕の心の内に生み出された。

 けれど、そんな苛立ちも苦痛などとは引き換えにできないくらい、お前と一緒にいる時間が大切だ。

 僕がお前を守ってあげる。

 たとえ、この想いが伝わることはないとわかっていても……。

 僕がお前を守ってあげる。


 お前が一人でいると、あの女はきまってやってきて、ヘラヘラと薄ら笑いを浮かべ声をかけてくる。


「黒斗くん、もう帰る時間だよ?」

「十色……大丈夫、わかってる……今日は、起きてたから」

「ほんとにぃ?」


 あの女が媚びるように笑いながら、強請ねだるようにお前を見るから、優しいお前は折れてやる。


「……5限は……しょうがない。昼飯食った後だからな」

「だめだよ?5限って、無色むしき先生の授業でしょ?先生、泣いちゃうよ?」


 困ったように微笑むお前を見ることにたまらなくなった僕は、嫌な奴の後ろから顔を出す。


「本当に僕は泣いちゃいそうだったよ?茂野 黒斗くん☆」

「透明……学校で声かけてくんな」

「ひどいなぁ……実のお兄ちゃんによくそんな酷い言い草ができるよね。ねぇ?そう思いません?十色 彩莉あやりさん」


 弟をこの女の毒牙から守るため会話に入った僕をけむたがるのは、僕の大切な実の弟でこの学校の生徒として再会した茂野 黒斗だ。

 そして、そんな大切な弟に言い寄っているこの女が十色 彩莉、僕の戸籍上の妹だった女だ。

 苗字が違うのは、僕が母方の旧姓を名乗っているから。

 妹が生まれた時、僕はもうそれなりに大きかったから、今更、妹だと言われてもピンとこない。

 妹だから、ほぼ毎日顔をつき合わせていた期間もあったけど、そんなものだ。

 だから、かつての妹だろうと、学校の生徒だろうと、黒斗に対してとは違って、僕から彩莉への感情はほぼなかった。

 けど、今は違う。


――僕は十色 彩莉が大嫌いだ


 僕に声をかけられたかつての妹は、伏し目がちに戸惑うような雰囲気を醸し出しながら答える。


「えっ!あ……そうですね!でも、黒斗くん、照れてるんじゃないですかね……」

「えぇ~?黒斗、照れてるのぉ?かぁわいいぃ!」

「うるさい……帰るぞ、十色」

「え……あ、うん。それじゃあ、無色先生……また明日!」

「えぇ、さようなら。黒斗!また明日ね☆」


 女の癇に障る猫撫で声に、おそらく僕の顔は苦虫を噛み潰したような表情をしているに違いない。

 黒斗は僕の声を無視して、女と教室を出た。

 お前が帰った後の教室、僕はいつものように立ち尽くす。

 この時間は、とても複雑な感情に満たされる。

 お前とまた何気なく話せて嬉しい。

 お前の不機嫌な表情さえ愛おしい。

 けれど。

 お前があの女と話をすることが苦しい。

 お前にそんな表情をさせる女が腹立たしい。

 そんな感情をひた隠して、いつものように僕は呟くんだ。


「大丈夫。僕が守ってあげる……大船に乗ったつもりでいていいよ」


 お前の存在で、僕の世界は色づいていく。

 それはとても鮮やかで、そしてどこか繊細な色合いで、どこか怪しげな色をしていた。

 無色透明だったこの世界を彩った色は、狂っていても強く、愛おしいけれど憎たらしい。

 そんな色だった。

 これ以上を望んだら、僕は強欲だろうか。

 もっと、お前と一緒にいて、もっと、お前と幸せでいられる。

 そんな色を求めている僕は、欲深すぎるのだろうか。

 記憶の中で微笑むお前と困ったように微笑む僕。

 一人取り残された教室で立ち尽くす僕を、窓から射し込む夕陽が影を伸ばした。

 

 

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