「ひもじい勇者チャコ」
父・ワモウは、あおむけにひっくり返り、ピクピクと痙攣したまま、しばらく動けなかった。そこへ長女のチャコと、その弟・クロオが駆けつけた。
「父ちゃん!」
チャコは父の背中を支えた。「起きられる?」
父は痛みに耐えながら、「ああ、ああ……ゆっくり、な……」
弟のクロオはというと、ぎゅっと目をつむって震えていた。視界に入ってしまうのが嫌なのだ……父親の、この、あらぬ方向に折れた脚……
父は汗ばんだ笑顔を二人に向けた。
「いやはや、これから少しばかり大変かもしれないなぁ。私は狩りに行けず、お前たちが行くには……危険すぎるからな。さてお前たち、どうだ? 腹が減っても我慢できそうか?」
「うん!」二人はうなずいた。「うん! 我慢する!」
それから三人は、日々耐え忍んだ。食べるのを。空腹を。
最初はつらかったが、すぐに慣れた。そしてまたすぐに、最初よりも遥かにつらくなった。
空腹というやつは、まるで腹の中で生きているようだった。〈腹の虫〉とはよく言ったものだが、しかしそんな生ぬるいものではない。空腹は、腹の奥で血液をちゅうちゅう吸って成長する化け物だ。そして腹が鳴るのはこいつの声なんかではなく、凄まじい力で血管をしゃぶり、勢いよく血を吸い上げる音なのだ。食事を……栄養を摂らねば、干からびるのは必至……。
四十日が経過し、ついに我慢の限界がきた。
「ね、クロオ……」
チャコは父が眠っているすきに行動を起こした。
「クロオ、あたしたちだけで食料を探しに行こう」
「うそでしょ?」弟は震えた。「外は危ないよ。僕らは、父ちゃんが治るのを待つしかないんだ」
「父ちゃんは治らない」
「治るよ!」
「しっ」
チャコは怖い顔をした。
クロオは今にも泣き出しそうになってうつむく。「なんで、そんなこと言うの?」
「なんでって、そりゃご飯を食べないと──」
チャコが言いかけたところで、父の腹の音が家じゅうにとどろいた。それが消えるのを待ってから、チャコは続けた。
「治るものも、治らないんだよ」
ややあってから、クロオは顔をあげ、「わかったよ」と真っ直ぐにどこかを見た。「姉ちゃん、僕やるよ。父ちゃんの食料をたっぷり手に入れて、それで父ちゃん、怪我治って、それで僕らは、八脚男をやっつける」
「それは……」
叶わないな、と言いそうになったが、チャコはその言葉を呑み込み、弟の手を握った。
「さ、行こう!」
そうして、二人は家を発った。
*
「充分、注意してね」
チャコは手を握る力を強めて言った。
「大丈夫だよ、こんなところ!」クロオは勇ましく言う。
二人は見知った土地からずいぶん離れ、〝油湿原〟を歩いていた。その地帯は沼のかわりに、油だまりというものが点在している。サラサラとしたものや、どろどろとした粘度の高いもの、油だまりの様相はさまざまだ。
「ねえ、これは食べられないの?」
油だまりに顔を近づけて、クロオがたずねた。
「どうだろうね、こんなんじゃお腹は膨れないと思うけど」
チャコは眉をひそめて答えた。
ふと、クロオが油を舐めた。
「味がする!」
「やめなさい!」チャコは怒鳴った。「何が危険か、わかんないんだから!」
「でも、これを持って帰ったらどう?」クロオの瞳はきらめいていた。「少しは足しになるんじゃない?」
「こんなのダメ」
「ねえ、あっちは!?」
クロオは急に走り出した。
「あっちから凄く良い香りがする!」
「待って!」
チャコはすぐに追いかけた。駆け足だったらチャコのほうが早い。が、ここでは油に足をとられ、なかなか進めない。一方、クロオは器用だった。
「ほら、これ!」
クロオが先にそこへたどり着いた。それはひときわ芳醇な香りを放つ油だまりだった。
「ダメだよ、クロオ!」
チャコは必死に叫んだが無駄だった。
「これなら栄養がありそう!」
クロオは、その油だまりに顔を突っ込んだ。途端、「ぎゃああ!」と叫ぶ。
何事かと、チャコは足を早める。
「クロオ!」転ぶのをいとわない。「クロオ! クロオ!」
弟は返事をせず、沼に顔を突っ込んだまま、ぐうぐう呻いていた。
「クロオ、ああ、どうしたの、ねえ!」
やっとそばに駆け寄ったチャコは、クロオの背をさすった。
「ねえ、どうしたの!」
「助けて……」クロオはくぐもった声で、「くっついちゃって、油から、顔が離れない……」
「何やってんの、もう! マヌケなんだから!」
チャコは弟の体を引っ張った。
「痛い痛い!」クロオはじだばた暴れ、「ダメだ、顔が破けちゃう!」
「それくらい我慢しな!」
これはまずい事態だとチャコは気づいた。かつて父が話してくれたことを思い出したのである。
油湿原には、〈死の油だまり〉と呼ばれる危険なものがあること。それは、獲物をおびき寄せ、一度捕らえたものを決して離さず、生命を吸い取ってしまうこと……。
「しばらく、じっとしててね」チャコは弟から離れた。
「姉ちゃん、どうすんだよ……?」
「水分で油の粘度を下げるの。さっき、水気のあるところを見たような……」
「ねえ、なんだか頭が痛くなってきた……」クロオは弱々しく呻いた。「なんだろう、風邪を引いたみたいに、体がだるい……」
やっぱり死の油だまりに命を吸い取られているのだとチャコは思った。
いっそう、急いであたりを探索する。
「あった!」
やっと目当てのものを見つけた。
「クロオ、今行くから!」
それは油だまりというより、少々油の浮いた水たまりだった。チャコは水を口にふくんで、クロオのもとへ駆けた。
戻ってきた姉の姿に安堵したクロオは、弱々しく声を発した。
「あったの……?」
うんと頷くと、チャコはクロオの顔にへばりついている油のところを、水で湿してやった。
「ほら、あと何回かこうすれば、大丈夫だよ」
「ありがとう、姉ちゃん……」
と、そのとき、チャコは何か背筋に嫌なものを感じ、振り向いた。
チャコは戦慄した。後方に、自分たちよりもはるかに巨大な影が見えたのだ。ぎらりと光るまなこと、八つの脚をたずさえた影が……。
「八脚男……!」
考えるよりも早く、体が動いた。早く、一刻も早く、クロオを救出せねば。幸い、八つ脚男から水たまりまでは、距離がある。油だまりまでは、さらに距離がある。チャコは全力で駆けた。急げ、急げ、急げ。奴が来る前に!
水をすくい、振り返る。おぞましい八脚男は、さきほどよりも距離を詰めて、今はじっと動かない。早く、急げ、急げ。チャコは水をこぼさないよう注意しながら、クロオのもとへ駆け寄り、水をかけてやる。振り返る。八つ脚男はいつの間にかもっと近づいており、じっと身構えている。ああ、まるで、だるまさんがころんだのよう……。
「もう動けるんじゃない!? クロオ、逃げるよ!」
やっと油がのびるようになり、どうにか、無理やり引き剥がせそうだった。
クロオは懸命にもがきながら、「姉ちゃん、どうしたの、何から逃げるの?」
「八つ脚男が来たんだよ!」チャコは泣き叫ぶように言った。
「うそだろ!?」クロオもいよいよ必死になった。「ちくしょう、こんちくしょう!」
そして、ついにクロオは油だまりから脱した。
「やった!」
しかし、喜びも束の間。ぬうっと、大きな影が二人をおおった。
二人がおずおず振り返ると、すぐそこで、八脚男が今にも跳躍せんと巨大な体躯を屈ませていた。
「だめだ……」クロオがぽつりと呟いた。
──それは一瞬だった。八脚男がその強靭な八つのバネを活かし、とてつもない速さで、おおいかぶさるように二人へ襲いかかったのだ。
チャコはとっさにクロオの正面に立った。
「姉ちゃん!」クロオの叫びがつんざく。八脚男は絡みつくようにチャコを捕縛し、サッと後方に跳ぶ。そして、隠していた二本の強靭な腕をあらわにし、そいつでチャコの首を締め上げた。
「ぐうう……!」
チャコは必死にもがく、もがく、もがく……
「姉ちゃん!」クロオが八脚男に近づく。
「ダメ、クロオ! 来ちゃダメ!」
八脚男には八本の脚と、さらに二本の太い腕がある。チャコとクロオを同時に捕まえることなど造作ない。しかし、クロオは姉のもとへ突っ込んでくる。
「クロオ、来ちゃダメだってば!」
もう遅い。八脚男はふたたび、跳躍のために身構え……
その刹那、首を絞める腕の力が弱まったのを、チャコは確かに感じ取った。
──ここだ!
チャコは八脚男の目玉へ向けて足を振り上げる──も、わずかに届かず、空を切る。しかし、それは勢いをつけるための補助にすぎなかった。チャコは逆足を思い切り蹴り上げ、八脚男の目玉をえぐった。
「ぎゃっ」
八脚男はチャコを離し、後退した。
「姉ちゃん!」
「クロオ、逃げて逃げて!」
二人は全力で走り出した。八脚男はすぐに体勢をととのえ、ぴょんぴょんと凄まじい速さで追ってくる。
「クロオ、油だまりに! あいつを死の油だまりに誘導しよう!」
二人は油に足をとられながら走ったが、八脚男は安定した体勢を保ったまま迫ってくる。おもわずクロオは弱音を吐く。「だめだ! 間に合わないよ!」
「頑張りどきよ! ご飯のために、父ちゃんのために、走って、走って生き延びるの!」
油だまりを目前にしたとき、ふたたび影がぬうっと二人をおおった。もう、ほんのすぐ背後に、八脚男が迫っているのだ……八脚男は二人を捕えるため、最後の跳躍の体勢をとった。
「今よクロオ、二手に分かれて!」
チャコとクロオは油だまりを前にして両手に分かれた。
ちょうど、八脚男は跳躍をしたところだった。そして、あわれかな、見事に死の油だまりの真ん中へ突っ込んだのだった。
「やった……やったよ……姉ちゃん……ぼくたち……やったよ……!」
「ははは……倒しちゃったね……」
八つ脚男は死の油だまりでビクビクと痙攣してもがいていた。まともに油のなかへ突っ込んだのだ、さすがの八つ脚男も、一人で這い上がってはこれまい。
「けど、万が一ってことがあるからね。早くここを離れよう」
チャコは今にも倒れ込みたいほど疲労していたが、体に鞭打って歩き出した。クロオも同じだった。
やがて二人は、油湿原を脱した。
「姉ちゃん……なんだか良い匂いがしない?」
「……する……油じゃなくて……ちゃんとした匂い……!」
油湿原を抜けた先は、今度こそまともな湿原だった。
「見て、果物が落ちてる!」
クロオは指を差して姉に教えてやった。今度は、いきなり走り出すことなく。
「本当だ、果物だ……」
よく見ると一つだけじゃなかった。そこらじゅう、果物や野菜の破片が散っていた。きっと、果物の木があるに違いない。
「クロオ、私たち、やっとたどり着いたんだ……やっと、助かるんだ……父ちゃんを、助けられるんだ……!」
チャコは果物に駆け寄った。
クロオは嬉しそうなその姉の姿を見て微笑んだ。
──そのときだった。悪魔の金切り声が、世界中に響き渡ったのは。
「あああああああああああ!」
そのとてつもない叫び声に、チャコは一瞬、心臓が止まったかと思った。弟はわずかな間、気絶した。
そして二人が我に返ったとき、突如、強烈な風と毒の濃霧が、二人を吹き飛ばさんばかりに吹きすさぶった。
「いやあああああああああああ!」
悪魔の雄叫びはその間もとどろいた。どうやら強風と毒の濃霧は、悪魔が生み出しているらしかった。
チャコはふんばりがきかなくなり、わけもわからず転げまわり、弟はひっくり返って動かなくなった。
「クロ……オ……」
頭がガンガン痛んだ。息ができなかった。手足は引き裂かれたように痺れた。遠のく意識のなかで、チャコは動かなくなったクロオと、そして、悪魔の姿を見た。
それは、八脚男より何倍も何倍も巨大な……
「さいあく!」
悪魔はチャコのわからぬ言葉を盛大に発した。
「さいあくなんだけど!」
やがて、チャコも動けなくなった。チャコとクロオは二人ともひっくり返って、そのまま息絶えてしまったのだ。
しかし、悪魔の雄叫びはやまない。
「さいあく! 一度に二匹も出るとか、まじさいあく!」
強風と毒の濃霧は、動かなくなったチャコとクロオへなおも噴射され続けた。
チャコの六本足は、死後もしばらく、ピクピクと痙攣していた。
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