非のないところに煙は
くいな/しがてら
非のないところに煙は
入店以来聞かされ続けたホットスナックの宣伝にも飽きた頃、ようやく前の客の勘定が済んで男に順番が回ってきた。前の客よりもはるかに少ない買い物なのに、ここまで待たされたことを思うと、なんとなく承服しかねる。「隣のレジをご利用ください」の立て札を睨むのをやめ、そういえば、と財布を確認する。札は入っていない。小銭入れを確認すると、五百円玉が辛うじて二つ入っていた。ひゅう、危ねえな。
「お待たせいたしました」
「アイブラ」
はい? と店員は訊き返した。
ぼやぼやしてんなよ。店員の首に掛けられた名札を見ると男は得心がいった。ああ、やっぱり新人だな。初めてのバイトってところか、幼い顔立ちに社会慣れしていない雰囲気。しかし男はいつも通りに注文した。
「アイブラ。アイスブラスト五ミリ、ボックスで」
「ええと、番号で言ってもらえるとありがたいのですが……」
「……っ黒地に青のマークと数字の五が書いてあるやつだろうが」
番号なんざ知るか。そんな遠くの文字、読める訳ねえだろうが。見せる気が無いならそれくらい覚えとけ。そんな悪態を、この時点では吐き捨てないだけの器量を辛うじて持ち合わせていた。
しかしやっと目当てのものを受け取った頃には、今日の身体の異常も手助けして男はかなり苛々していた。
「あのさあ、兄ちゃん学生だろ」
「は、はい」びくりと肩を震わせる。
「いいか? 店ってのは客がいて初めて成り立つものなんだ。お客様は神様なんだよ」
「……承知しております」
「いーや、してないね。言葉としては知ってても、心に刻まれてない。俺は客だぞ? 常連の好みの銘柄くらい覚えてねえと……」
「うちの新人が失礼しましたっ、若林くんは引っ込んでなさい」バックヤードから、見覚えのある恰幅のいい初老が出てきた。学生バイトは謝罪の言葉を口にし、ぺこぺこして指示に従った。面白くない。
「あんた、店長だっけ? 教育が行き届いてないんじゃねえのか?」
「ええ。大変失礼いたしました。彼には厳しく言っておくので……」
「勘違いするなよ。俺がまるで悪役みたいじゃねえか。俺は誠意を見せてほしいだけだぜ。口先だけの謝罪なんていくらでもでき……」
暗転。
またあの発作だ。物が落ちる音が聞こえた。数秒して、自分がレジ横のガムの棚をひっくり返したことに気づく。ふらついたのだ。
「お客様、大丈夫ですか!」
慌てて店長はレジ横から出てくるが、差し伸べられた手を男は振り払った。
「……今回は勘弁してやるよ。よく言い聞かせとけよな」
千鳥足で自動ドアの方へ向かう。道中、一番くじの棚にも激しくぶつかった。箱入りのフィギュアやキーホルダーが散乱する。私が拾っておきますので、と店長の声が後ろからかかる。当然だろうが、と男は思った。
外に出ると鋭い寒風が男の顔面を直撃した。暖房にあてられ続けた身には、かえって心地よい。歩きながら慣れた手つきでアイスブラストを口に咥え、内ポケットからライターを取り出して火を点ける。すーっといつもの快感が脳を突き抜ける。ため息のように煙を吐くが、胸のわだかまりは晴れない。男は八つ当たりするように、茂みに吸殻を投げ捨てた。
今日は厄日だ。調子がおかしい。酒は呑んでねえのに千鳥足、思うように歩けやしない。前に足を踏み出そうとすると目の前が暗転し、横から誰かに身体を引っ張られ、倒れないよう反射的に足を出す。結果、まっすぐ歩けないといった調子だった。自分の身体が自分のものじゃないような感覚の気持ち悪さと言ったらなかった。
それだけじゃない。
まず、変なものが見えるし聞こえる。冬なのに祭囃子が流れ、お面を被った子どもがそこら中で遊んでいる。和装の狐が二足歩行で、車道に行列を成している。白い着物だ。点描されたように斑まだらの深緑の空は、言い知れぬ不安感を煽った。
いよいよ俺の頭もおかしくなったかな。しかし一般人の姿も変わらず見えるし、なんなら例のビジョンに重なっていることもあるのだから、狐や緑色の空はいわゆる幻覚とやらに違いない。男はそう納得しようと努めた。
病気的な意味で体調が悪いのか、と言えば違う。眩暈というのはこんなものなのか? 頭痛も吐き気もない。ただ、ふらつく。これを病気とみなしていいかは、果たして判らない。男は健康を取り柄に思っていた。思い返す限り、病気になったのは小学生の頃のインフルエンザが最後。煙草と酒が身体に障るというのは迷信だと切り捨てていた。自分が病気だとは男にとって信じがたかったのである。
軽くふらつきながら、横断歩道へ向かう。途中サラリーマンに肩がぶつかったが、ちょっと睨んでやれば、相手はそそくさとその場を立ち去った。
案外、本当に病気ではないのかもしれない。例えばそう、下らんが……呪いとか。男は呪いやまじない、ジンクスに至るまでオカルティックなものなど信じていなかったが、自分が体調を崩していることを認めるよりは、それを受け入れる方が容易かった。
呪われるような覚えが身にあるのか? ある。ありすぎてどれが原因か見当がつかないくらいだ。
信号に差し掛かるが、もう青信号は点滅を終えたところだった。車通りも多い。この状態で走るのも危険に思える。男は人目も憚らず舌打ちをした。
気に入らない奴は殴った。小遣い稼ぎに脅した。電車で赤ん坊が泣いたのでベビーカーを蹴って、新人バイトには教育してやった。河原の段ボールハウスを花火で全部燃やした‥‥‥。普段気にも留めていなかった自分の悪行を振り返る程に、身体の異常は男の精神を弱らせていたのである。
信号はまだ変わらない。車道の信号を見ても、黄色になる気配は未だしない。男の目的地は誰も住んでいないあばら家で、仲間とのたまり場になっていた。早く向かって、馬鹿話がしたい。しかしそんな思いは、到底赤信号に生身で突っ込む動機には足りなかったはずだった。
暗転。
急ブレーキが踏まれる音が、閑静な夜道をつんざく。気付くと男は横断歩道の真ん中あたりに倒れこんでいた。すんでのところで無事だったようだ。
「バッカ野郎! 殺させる気か!」
「……ホコーシャユーセンって知らねえのかジジイ!」
吐き捨て、横断歩道を渡り切る。自分の行いをしおらしく反省しつつも、結局男の身体にこの生き方は染みついていた。危機的状況になれば、初詣や大自然を前にした時の、自分が抱いていると誤解してしまうような、その場しのぎの態度など消えうせるというものだ。
それにしても、危ういところだった。まるでテレビの「次ボタン」を押されたかのように、意識の飛んだ先で倒れていた。
腹立たしさに、近くにいた狐面の子どもの鳩尾に膝蹴りを見舞った。どうせ幻覚なのだ、誰にも咎められまい。
しっかりとした手ごたえがあり、穴の開いた風船のように子どもが飛んでいくのは予想外だったが、爽快だった。非難するではなく虚を突かれたような周りの視線を感じながら、二本目の煙草に火を点けて歩き始める。ところがすぐに足はふらふらといつものルートを外れ、自分の意志とは関係なく運ばれる。まるで誰かに導かれているように。
上等だ。何だか知らんが、返り討ちにしてやる。轢かれずに済んだことで気分はハイだ。反省メーターの針は振り切れて、怒りが燃え上がる。男は足の赴くままに任せることにした。
男の足がようやく止まったのは、あと五分ほど歩けば例のあばら家に到着するという辺りに所在していた空き地だった。仲間と花火を打ち上げたこともある、禿げた空き地だ。ところが今日に限っては、そこは空き地ではなくなっていた。
柔らかなオレンジの光が漏れる建物が代わりにあった。看板は無い。はためくノボリには「按摩」「悪いもの、剥がします」「解呪」などと崩し字が妖しく躍る。はて、俺は崩し字なんて読めないはずだが。それに、いつの間にかこんな店が出来ていたとは。
男は訝しんだが、「ご不満があればお代は頂きません」の文字に惹かれた。先ほどのコンビニでも煙草ひと箱買えるかどうか、というほど男の懐は寒かったのである。如何にも胡散臭いが、受けるだけならタダ。最後の最後に怒鳴り散らせばタダなのだ。男は足が動く前に、古風な扉に手を掛けていた。
「いらっしゃいませ。解呪ですか、マッサージですか、それとも両方……おや、大変。おつかれのようですね」
女の声が出迎える。代金を踏み倒しやすそうで安心したが、特筆すべきはその姿だった。思い描いていたマッサージ師らしい白衣はともかく、素顔は黒布――暖簾のような三枚布で覆われていて判然としない。歌舞伎か何かのあれ……そう、黒子みたいだ。唯一違う点は、目出し帽さながらに目の位置に穴がしっかり開いているところだ。
一流の按摩師は見ただけで症状がわかるのだろうか、と最初は思ったが、最初の挨拶と店の前のノボリを思い出し、「お疲れ」と「お憑かれ」をかけているのかもしれないと考え直す。つまらない洒落の相手をしてやるほど余裕はない。
「何とかしてくれ。よろしく」
「はいはい、ではどうぞこちらへ……」
按摩師なのか除霊師なのかは判らないが、案内されるまま続く。店の奥にはカーテンで仕切られたベッドがあり、その一つに導かれる。なんとなく、小学校の保健室を思い出した。脚の悪霊はなりを潜めているようで、どこにもぶつかることなく辿り着く。
カーテンの中は白い煙でモクモクだ。煙草のそれとは違い、甘い匂いがある。アロマってやつか。鬱陶しい。
「ではどうぞ、うつ伏せになってください。上の衣服はこちらの籠に」
本当にマッサージ店でもあるんだな。手早く服を脱ぎ、ベッドに吸い込まれるように倒れる。清潔なシーツの匂い。背中に彫られた入れ墨に怯むことなく、長細い指が背中を撫でるのを感じた。
「いやはや、本当に大変なものにおつかれさまですね」
除霊師の不自然ともとれる言葉に面食らうとともに、非常な安心感を男は得た。やはり「お憑かれ様」ということで良いのだろう。悩みを吐き出せる相手が見つかり、男はいつになく饒舌になった。
「判るか。ひどい目に遭った」
「今日からでしょう」
男は嬉しさに、もう飛び上がらんばかりだった。
「ああ。身体が知らねえ奴に引っ張られててるみてえで、さっきも危うく車にも轢かれかけた。おかしなものも見えるし、空も変な色だし。さ、この悪霊を早いとこ祓ってくれ」
除霊師はおかしそうに笑った。
「ふふ、悪霊ですって、祓うですって。聞きました? ふふ、おかしい」隣のベッドの従業員に言ったのだろう。脚がこわばる。いい気分はしなかった。
「おい、俺は客だぞ」
除霊師を見上げて抗議する。
「ええ、これはご無礼を。お客様は神様ですもの……どうぞ、リラックスして寝転がってください」我が強いのかと思いきや、なかなか話の分かる店員じゃないか。
除霊師は黄金の油を掌に載せ、温めていた。それを背中に満遍なく塗りたくる。暖かな空間だった。
一通り終え、除霊師が首に触れた瞬間、電撃が走った。比喩ではない。間違いなくそれは、身体から脳へ撃ち出された電気信号。それからやっと、この衝撃を、この電気を快感と呼ぶのだと男は悟った。普段凝り固まっている筋肉の隙間に、細長い指が入り込み、好き勝手に掻き回す。
油も良い香りがする。何となく懐かしくて、久しく嗅いでいない……何の匂いだったか。
「人間の言う悪霊や怨霊というものは、煙を嫌うものでございます。ほら、除霊方法に護摩焚きってあるじゃないですか。あれは煙で邪なるものを遠ざけているんですね。でも、あなたはお煙草を嗜まれるでしょう? ということは、あなたに憑いているのは悪霊じゃない。お分かりですか?」
知らない快感でとても会話どころではなかったが、なんとか耳に残っている音から受け答えを成立させようとする。ゴマタキが何かは知らないが、聞いてもどうせ分からないのでスルーした。
「煙草をやるって、俺、言ったか?」ふっ、ふっと息が途切れがちになる。
「判りますよ~、そんなにプンプンさせていたら」除霊師も喫煙者は嫌いらしい。
「最近は煙草も吸いづらくなってきているんでしょう? 私にとっては喜ばしいことですが」除霊師は男が話せるようマッサージの手を緩めたが、男としてはそのまま続けてほしいところだった。
「そうだな。まあ、文句を言う奴が増えただけで、俺は改めるつもりもないが。この前は子ども連れの母親に絡まれてな。子どもの前で吸うなだとか、副流煙がどうとか」
「あちゃあ、それでどうしたんです」
「子どもの顔にふーっとやってやった。そうしたらあのばばあ、ヒステリック極まれりだ。キーキー叫んで愉快だったな、あれは」
「煙に巻いたという訳ですか」あっはっは、と除霊師は自分で笑った。面白くない。言いたいだけだろそれ。
除霊師は肩甲骨のあたりの筋肉を掴み始める。ジョークセンスは頂けないが、マッサージはやはり驚異的だった。骨が一つ一つの節で離ればなれになり、肩が軟骨入りの肉団子さながらにこねくり回されているような、かつてない感覚。それでいて痛みはないのだから不思議だ。
「憑かれるのも納得です」
「天罰が下った、とでも言うつもりか」
「滅相もない。憑かれる、というと相手が勝手にぶつかってきた印象を受けますが、どちらかというとぶつかったのはお客様です。蜘蛛の巣に引っかかってしまったという方が近いでしょう」
とろけた頭では理解が難しい。噛み合っているような、そうでないような‥‥‥。しかし自分からこの状況に陥っているというのは誤解に思えた。
「俺が悪いってのか」
「まあ、そういう風にも言えます」
「『憑かれる』って言い方は変だろ。俺が憑かれてるわけじゃねえし、ほら、あの、敬語の‥‥‥尊敬語だったか? 俺が憑いてるわけでもねえし‥‥‥」
「あっはっは」除霊師は笑ってごまかした。‥‥‥同じ洒落をずいぶんごり押すな。うろ覚えの敬語知識を引き出したのに、甲斐が無いというものだ。鉄板トークなのだろうか。
「鍼を刺していきます」
トトト、と針の頭が叩かれ、背中に刺さっていくのをかすかに感じる。
今度の衝撃は、もみほぐしのそれとは質が異なっていた。鍼の形状からは想像できないような、じっくりと伝わる熱。穿たれた各箇所が熱を帯び、徐々に伝播し、血管でつながる心臓へ向かう。収束したその先で熱は早鐘を打ち、熱い鮮血が全身を回るのが判る。この興奮に近いものを記憶から探すと、ダチに連れられて行ったサウナの水風呂か。しかしこの鍼とは比べるべくもない。段違いだ。高揚感、生きているという実感が燃え上がる。
陶酔しながら、男は本題を忘れかけていたことに気づき、慌てて尋ねた。
「確認するが、これはマッサージ兼除霊ってことでいいんだよな? ひたすら気持ち良いが、除霊できなきゃ金は払えねえぜ」
払うつもりはないけどな、と男は心中で舌を出した。立ち上がったら、ちょっとよたついてから盛大に転んで、「やっぱり駄目じゃないか」と怒鳴り散らせばオーケーだ、という算段を立てている。
「そう考えてもらって構いません。まさか肉を柔らかくしているとでも思いましたか? これはあなたに穴を開けているんです」
「穴?」
「ええ。出られるように」
「悪霊が、か」
「ふふ、滅相もありません」
「てことはさっきの油も」何か除霊的な意味があったのか?
「ええ。胡麻油です。胡麻は護摩焚きの護摩に通じて、神様が好まれるものですよ。悪霊に効くわけではありませんが」
嗅いだ記憶があると思ってたら、ゴマ油かよ。どうりで覚えがあるし、最近嗅いでいないわけだ。ゴマ油なんて買わねえからな。
「ともかく、これはれっきとした処置ですのでご安心ください。お客様にくっついた悪いものを無事に剥がすと保証しますよ」
男は安心した。もう今日は、集まりに行くのはよそう。この除霊師はホンモノらしい。ならば今日は問題の解決に専念しよう。
除霊師は数々の針を操り、一つ一つ紹介してくれた。長いもの、短く太いもの、電気か何かが流れて痺れるもの、熱いもの。中でも気に入ったのは細かい針がローラーにびっしりついていて、背中の上で転がすものだった。
マッサージなんて生まれてこの方してもらったことが無いからだろうか。この快感に、感動を覚えている。いつのまにか目尻が滲んでいたことに気づき、枕に押し付ける。なんと縛りの多い身体だったことだろう。もうすぐ俺は、砂のように軽やかで水のように自由な身体を手に入れられる。男は除霊が済んだ後も、ここに通うことを決めた。
驚くべきことに、針で刺されたところから確かに湯気のようなものが噴出し始めたような感覚がある。鮮血ではなく湯気だ。命の沸騰。これが悪いものが出ている証拠なのだろうか。そう思うと、まもなく施術が終わりを迎えることを悟り、男は名残惜しい気持ちがした。慣れてきたこのアロマの匂いすら、失い難い。
「お客様が憑かれたのは、あなたが死に近い人間だったからです」
「俺は死なねえよ?」藪から棒に失礼な奴だ、と男は思った。現実に引き戻され、怒りすら覚えた。除霊師は気にした風でもない。
「重なる喫煙、方々から買う恨みつらみ。いつ死んでも殺されてもおかしくありません。こちらの世界に片足を突っ込んでいます。だから、触さわれた」
「触れたって……」
「障さわられた、とも言えます……ふふふ、ねえ、聞いてます? お客さん」「またお得意のダジャレかよ」漢字は浮かばなかったがツッコむ。多分これで合ってるはずだ。
除霊師は人差し指を空に動かしながら、障害物の障、とご丁寧に付け足す。注釈入れても面白くねえから。
「つまり死にかけだったから俺は悪霊にぶつかったってことか?」
「ふふ、あなたはぶつかったんじゃなくてぶつかられたんですけどね、このお転婆さんに」
分かるような、分からないようなことを除霊師は言った。さて、と手を打つ。
「そろそろ仕込みは終了です。ちょっと準備がありますので、うつ伏せのままでお願いします」除霊師はがさごそやり始めた。その言葉に従って、黙って枕に額を押し付けていると、除霊師が作業しながら話しかけてきた。
「問題です。古びた桝に入ったお酒を零すには、どうすれば良いでしょうか?」
「またダジャレなのか? 付き合いきれねえよ」
「いえ、なぞなぞではなく、今回は現実的な解決法です。このあとの施術に関する、ね」
まどろっこしいのは嫌いだが、ここまでの施術は尊敬に値する。つまらんネタは玉に瑕だが、話に付き合ってやることにした。
「逆さかさにする」
「ぶー、危ないです」
「? 壊す」
「せっかくの桝が勿体ないです、ぶ」
「……揺さぶる?」
「ピンポン、仰向けになってください」
言われるがままに寝返りをうつと、目の前には黒い球が、天井から伸びる糸で吊られていた。
‥‥‥。意味不明の状況を前にすると、言葉は出てこないものだ。男が呆気にとられている間に、除霊師は手際よく枷に両手と両足を嵌める。板に二つの穴が開いたタイプだ――何をする気だ? その疑念は、除霊師が片手で弄ぶ物を見て晴れた。俺が上着に入れていた……ライター。
火、糸、そして球。連想するのは一つだけだ。
「あなたには一生分の快楽を味わっていただきました――」
やめろ、嫌だ。
「天国から地獄へ揺さぶります」
導火線を伝って火が近づいてくる。
「ですが、お客様は最後まで動かず耐えねばならない。いいですね、決して動いてはいけませんよ、お転婆さん」
そんなことを言ったって。横に転がって脱出? いや、枷を外さねば結局歩けない。手足を無理に開こうとしても、枷はびくともしない。火は今にも小型爆弾に接触しそうだ。
「最後までです。動かすのは桝だけですからね。今、衝撃で出して差し上げますからね」
その言葉を言い終わると、炎はいよいよ終点に到着した。
スローモーションのように爆弾が花開くのを観察できる。内蔵されていた大量の黒い粉末が熱に炙られ、爆風とともに襲い来る。
俺が死んだら、この除霊師に憑いてやる。「お憑かれさま」と耳元で囁いてやる。ざまあみろ。
しかし訳の分からない最期だったな‥‥‥。やりたいことをやってきた。終わってみればあっさりとしたものだった。
――? ところが、威力は皆無だった。考えてみれば当然、威力は除霊師に及ばない程度のはずだったのだ。ただ、謎の黒い粉末が俺に吸い込まれただけ。しかし次の瞬間、全ての謎が氷解した。黒い粉末の正体、そして衝撃。生物として当然の反射反応。
男は火薬に炙られた胡椒でくしゃみをした。
一発、一発、さらにもう一発。終わりの見えない苦しみに悶え、涙し、喘ぐ。腕と足に変な力が入り、引き攣る。
ようやく鎮まった頃、男はくの字型に腰を丸め、悲痛の涙と鼻水と涎を垂らし、ぴくぴく痙攣しながらベッドに横たわっていた。
「あっはっは、どうです、私特製の胡椒爆弾は!」
「なに……しやがんだてめえ……俺は客だぞ……」息も絶え絶えに言葉を絞り出す。
「施術の一環だと言ったでしょう。香辛料は臭みを除けるから魔除けです、とでも言っておきますか」
除霊師は面倒くさそうに答えた。その目は俺ではなく、天井のあちこちに落ち着きなく走っている。
「あっはっは、本当にお転婆だなあ、もう。そんなんじゃまた引っかかりますよー」
「こっちを……見ろよてめえ。俺を誰だと……ん」
気分がすっかり良くなっているのが判る。俺の身体の自由が侵されていないのが感覚で理解できた。一時はどうなることかと思ったが、やはり完璧、非の打ちどころのない除霊だったのだ。「動くな」と言われたのに動いてしまったから、もしや失敗したかと心配したが、問題は無かったらしい。眼だけ動かして確認すると、窓から覗く空も、もう緑の斑ではない。店の明かりに照らされた、茫漠とした黒である。
「うんうん、ご不満はありませんね? お代は頂いてもよろしいですか?」
除霊師の目は、相変わらず天井のあちこちに向かっている。
「歩いてみねえことには何とも……早くこの枷を外してくれよ」
「それは結構でございました。え、ゲテモノ? あっはっは、ちゃんと仕込めば意外と悪くないものですよ。ええ、ええ。それでは今後もご贔屓に……」
「話を聞けよ、俺は……」
男が口を閉じたのは、店のドアが勢いよく閉じられた音に驚いたからだ。いらっしゃいませ、の挨拶も無い……? もう一人従業員もいたはずだが、躾がなっていないな。安堵からか、男にはいつも通りの蛮勇がむくむく湧いてきた。
「なんて態度だ。こんな店に払う金なんざ持ち合わせてねえ。とっとと枷を外しやがれ!」
「うるさい」
うるさい!? 男は絶句した。
「おい、俺は……」
「お客様は神様です」
「分かってんじゃねえか、だったら……」
「お客様は神様だけです」
男の頭に、閃くものがあった。
客は俺だとばかり思っていたが、実は俺に憑いていた悪霊の方なんじゃないか? 「動くな」と言われていたのに動いてしまったにも関わらず施術が成功したのは‥‥‥あの言葉が俺ではなく客である悪霊‥‥‥いや、除霊師の言葉を借りるなら「神様」に向けられたものだったから。
考えてもみろ、俺がこの店にたどり着いた経緯を。見知らぬ店を、それもとびきり都合のいい店を、今日に限って見つけられたその理由を。引っ張られ、変なものを見せられ、まさしく誰かに導かれるように。悪いものを剥がそうと躍起になっていたのは俺ではなく、「神様」の方だったというのか?
むせ返るような甘ったるいアロマの煙。
何故だか判らないが、肝が冷える感覚を味わう。具体的に説明できないが、何かがマズい。本能がそう告げている。
「……客が出ていったぞ」
「お客様です。神様です」
「金をちゃんと置いていったか、確認しなくていいのか」
「お代は確かに頂きました……あなたは、お酒は飲みますか?」
「あ、ああ」反射的に答えてしまう。逃走経路を探さなくてはならないのに、どうして俺の眼はこいつに釘付けになっているんだ。黒布から覗く瞳から、がっかりしているのが窺える。
「喫煙に加えて飲酒ですか。下半身は油分が足りず好まないのですが、内臓も諦めねばなりませんね」
こいつが俺の顔を覗き込み、影が俺に落ちる。
ぽたり。顔にぬるい滴が滴るのを感じた。黒子のような顔隠しが重力に従うと、隠されていた口元が露あらわになった。左右に開いた口が見える。開いた鋏が重なっているようだ。チロチロと二つに分かれた舌が覗く。こいつはすーっと息を深く吸い込み、満足げに息を漏らした。
「でも、多少マシな匂いにはなりましたね」
暗転。
非のないところに煙は くいな/しがてら @kuina_kan
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