第40話

 清巳はとぼとぼと支部への道を歩いていた。

 最初の勢いはとおにどこかへと消え去ってしまった。彼が生きていたことへの期待がありつつも、人違いではないのかという不安が足を鈍らせていた。

 いつもより倍以上の時間をかけて支部に辿り着いた。太陽はすでに頂点にさしかかろうとしており、いつもなら喧騒に満ちた街には静寂が漂う。ダンジョン入り口ほどではないが、建物の周辺も息苦しいほど空気が重い。経験豊富な探索者でも耐えられないものが多いだろう。

 首を何度か掻いて、清巳は静から貰った軟膏を露出している肌に伸ばした。もうすでに二缶目であり、時折体を貫く痛みに三本ほど貰ったポーションを消費している。それらがなければとおに症状は進行し、この世から溶けて消えている。

 支部の扉の前に立った清巳は大きく深呼吸をした。中から喧騒が漏れ出ている。くっと唇を引き結んで建物の中に足を踏み入れた。数日ぶりに顔を出したフロントは閑散としており、その中央で二人が言い争う声がやけに大きく響いた。


「頼むから大人しくしていろ!」


 茶色の、色が抜け落ちたかのように薄い髪の男の左腕を羽交い締めするように掴んでいる高垣が叫ぶ。

 清巳は愕然と立ち尽くした。

 掴まれている反対の腕の袖が、虚しくひらひらと揺れている。記憶にある姿とは違えど、確かにその男は御坂敦だった。


「待っただろう⁉ 会える確証がどこにある⁉」

「まだ半日も経ってないのに、もう少し冷静になれ!」


 敦の垂れ目がちの眦が剣呑に吊り上げられている。そのしかめつらしい顔にふさわしい殺気を放ちながら、引き留める高垣を片腕で投げ飛ばした。


「だから知ってそうな清を呼んでるから、だぁぁぁぁ!」


 高垣の手を振り払い身体で押しとどめていた涼太を左腕で引き倒し、男は首をめぐらせた。気配で気づいていたのだろう。驚いた様子もなく、右の足を外へ振るようにして詰め寄ってきた。


「君はあの配信の子だね? 彼女は今どこに?」


 清巳は息を飲んだ。

 彼の目が自分を素通りした。あり得ない。あり得ない。彼ならば気づくはずだ。いくら五年の月日が流れているといえど、気づくはずだ。最初に清巳に気づいたのだって、彼の後輩――母によく似ているから、とそう言っていた。だから、気づかないわけがない。

 心がひしひしと悲鳴を上げる。目を背けて押し込めて、見て見ぬ振りをしてきた七年前に関する傷という傷が抉られていく。

 痛い。苦しい。そんな言葉では言い表せない澱みが胸に凝る。

 左手でピアスに触れた。

 ――君は死ぬんじゃないよ。


「教えてくれ、あの子は今どこにいる!」


 右肩を掴んで血相を変えて余裕のない声で敦は問いただす。

 清巳は腕を下ろして俯いた。

 これを届けてくれたあの人は、もういない。


「だから落ち着けと言っているだろう!」


 高垣が叱責しながら再び敦の腕を掴んで清巳の肩から引き剥がす。

 両親の話ができる唯一の人だった。自分はもう、両親との思い出を話せない。確かにあったはずなのに、それらは全て零れ落ち、罪悪感だけが残っている。


「居場所に心当たりがあるなら、頼む、教えてくれ! 私は会わなければいけないんだ、あの子に、緋色の刀を持っていたあの子に」

「そんなに詰め寄ったら答えるものも答えられないだろうが! というわけだ、もし知ってるなら……伊地知?」


 残らない。なにも。時には嵐のように、時には砂漠の砂が流れるように、酷薄な現実は奪っていく。家も、思い出も、持ってた夢も、親も、友人も、――恩人も。

 右手を失い、右足を失い、そして記憶まで失った彼は、自分の知っている彼ではない。父の形見を持ってきて、自分の理不尽な怒りとなじりを受け止めて、そのうえで、自分に闘う技術を叩き込んだその人ではない。

 清巳はゆっくりと口を開き、固まる。

 壁を挟んで耳をそばだてた時のように籠もって聞こえていた残響が大きくなった。

 ――そんなに探索者でいることが大事なら、二度と帰ってこないでください!

 感情にまかせて言い放ってしまったがばかりに、弟と妹から両親を奪ってしまった。

 両親の話を聞きたそうにしているのは知っていたけれど、親を恋しがる二人から自分が親を奪ってしまった罪悪感からなにも言えなかった。

 二人はもう親の顔しか知らない。逃げ続けているうちに清巳の中からも消えてしまい、両親がどういう人だったのか伝えることさえできなくなってしまった。それができる他者を清巳は知らない。

 ……いや、一人だけ心当たりがいた。静なら。なにか、聞けるのだろうか。名前を聞いても、写真も見ても、他人のようにしか思えない人の話を、静ならばなにか伝えられるのだろうか。なにかを残せるのだろうか、二人に。


「たのむ、あの子はどこに……っ」


 不意に敦は目を見開いた。ふっと表情がかき消える。


「御坂?」


 能面のような顔に高垣が訝しげに名を呼ぶ。

 不穏な空気に清巳も顔を上げた。

 先程までの指向性のない殺気とは違い、動けば首が落ちそうなほど鋭利で、冷たい殺気が清巳に向けられた。髪が赤くたなびき、硝子のような瞳も赤く染まり爛々と輝く。


「『拙者の緋色を所有せし幼子を行かせてはならぬ』」


 ぞくりと、言い表しようのない悪寒が背筋を這いあがった。


「『あれは身共みどもの幼子よ。奪われるなど言語道断。ゆめゆめ忘るるなかれ』」


 殺気が霧散した。同時にかくりと敦が脱力した。

 引っ張られるようにして高垣も座り込む。

 ぎこちない手つきで御坂を抱きかかえ、高垣は息を飲んだ。

 ぞっとするほど血の気の引いた顔。呼吸はしているが、それがなければ勘違いしてしまいそうなほど冷たかった。


「なんだったんだ、今のは……」


 強ばった顔で涼太が呟く。こちらもまた顔色は悪く、僅かに手足が震えていた。

 高垣は覚束ない足取りで奥へと引っ込む。担架でも持ってくるつもりなのだろう。

 清巳はぼんやりと敦の顔を見つめていた。昔に会った時よりも、どこか人離れしたように見える。顔の造形は変わらないはずなのにそう感じるのは先程の雰囲気のせいだろうか。

 敦であって敦でないなにかの正体は知らない。知りたいとも思わない。静を幼子と呼ぶその意味を暴きたいとも思わない。

 ――ただ。人からも、人ではない〝なにか〟からも、なにより奈落の化け物からも、死を望まれるのは自分なのだ。

 ああそうか。誰かに死ねと言われたかったのか。改めて、面と向かって、静ではなくお前が死ねと。

 肩の力がすとんと抜けた。


「清?」


 うっすらと笑みを――それもどこか安堵したような、諦めきったような笑みを浮かべる彼に涼太は得も言われぬ焦燥を覚えた。


 松永涼太が伊地知清巳を認識したのは、ダンジョンを連日潰して回る黒鉄がいる、という噂を聞いたからだ。ランクを上げる訳でもなく、自らの実力を磨くわけでもなく、なにかに取り憑かれたように徹底的に攻略指定ダンジョンを潰している、と。

 四国事変のこともあり、有用な資材を確保できる指定ダンジョン以外の攻略が推奨され始めた当時だ。名声を求める馬鹿か恨みで馬鹿やる馬鹿はあとを立たない。

 始めて噂の人物を見た時の感想は一言、やべぇやつ、であった。明らかにオーバーワークだろうに、幽鬼のような顔で目の下に隈を作りながらダンジョンを一人で這いずり回る死にたがりが、やばくないわけがない。


 過去は知らないが、西都周辺の出だろうというのは容易に想像がついたため、必要以上に関わる気はなかった。復讐に捕らわれてダンジョンを目の敵にする人がいないわけではない。ただ、その多くは命を落とすか、潰しても潰しても沸いて出るダンジョンに絶望して自ら命を絶つ。たぶんそうなるだろう、という思いがあったからだ。

 事実、一週間も帰らない、と不安げに研究機構を訪れた清巳の弟妹と名乗る存在に、涼太は彼が死んだのだと思った。

 家族を残して馬鹿な奴、と冷めた思いしか抱かなかった。


 そのおよそ二ヶ月後、そんなやつがいたとさえ思い出さなくなったころ、難易度Sランクの指定攻略ダンジョンが攻略された。誰が、とざわつくなかで帰還したのは、ぼろぼろの姿の彼だった。黒鉄の、探索者を始めて三年にも満たない人物。それもソロで成された偉業。

 大々的に発表があるのかと思ったが、予想に反して彼の報道はなかった。同時期に最年少最短記録を更新し、ソロで金青ランクを獲得した超天才児が現れたことも一つの要因であろう。


 清巳が姿を見せなくなったのもあり、やめたのだろうと誰もが興味をなくしたころ、たまたま向かったダンジョンにいたのを涼太は見つけた。家族の惚気を垂れ流しながら淡々と魔物を屠るさらにやばいやつになってた。それには大いに笑った。腹がよじれるくらい笑った。ダンジョンの中だったため魔物をおびき寄せ、笑い事じゃなくなるところだったが。

 それからだ。涼太が伊地知清巳という人間に関わり始めたのは。涼太は自ら死にに行くやつは嫌いだ。死ぬために死にに行くやつはもっと嫌いだ。だからたとえ同年代で唯一の機構所属の探索者だとしても関わるつもりは毛頭なかった。


 だが、そうして生きようとしているならば別だ。弟妹が望むから、と理由としては消極的であるが、すべて――自分の命さえ無価値とでも言いたげな態度よりも、消極的でも大事なものを大事にできるほうが好ましい。

 話しかけても無視一択、この二年くらいで粗雑な返答を得られるようになったのは進歩だ。それでも、伊地知清巳という人間は他者を寄せ付けないことに変わりはなかった。

 始めは確かに興味本意で話しかけた。だが、自分に必要なのは弟妹だけという頑なな態度に、次第に危うさを感じ始めるのは当然のことだ。清巳には秘密であるが、克巳と明美から見捨てないでやってくださいと深々頭を下げられ、手作り菓子を貰ったこともある。清巳の弟妹が不安がるほどに、彼の中心は弟妹の二人であった。それがなくなれば消えるのではないか、と思われるほどに。

 逆を言えば、二人がいる限りは大丈夫だと思っていた。――今、このときまでは。


「まて、清!」


 伸ばした手は宙をかいた。くるりと向けられた背中が遠い。追いかけなければと思うのに、殺気を浴びて固まってしまった身体は今もまだ震え、思うように動かない。


「おい……っ、弟くんたちをまた泣かすなよ⁉ そんな真似すんじゃねえぞ!」


 清巳は何も答えず、そのまま出て行った。

 配信であったことは切り抜き動画で見た。だから、清巳を欲した化け物のことも、代わりに行くと断言した静のことも把握している。

 だからまさか、二人を置いていくようなことはしない。今までの彼ならばしない。そう考えていたのは過ちだったのではないか。

 そう思えてならなかった。





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