殴るとドキドキしたので手首を切っただけ

おくとりょう

我に慢ずるなら

 ――パンっ、と部屋に響く乾いた音。


 まるで明かりが急に消えたように、頭の奥で何かが弾けた。

 目の前には、誰かに頬を張られたように横を向く彼。その白い頬がほんのり染まっていく。同時に自分の手のひらには、ひりひりとした熱が広がっていく。

 息が止まるような沈黙。


 何が起きたかわからなかった。いや、わからないと思った。先ほどまで、彼と言い争いをしていたことは覚えている。いつもなら、私が我慢して終わるのだけれど、今日はもう限界だった。パッチリとした彼の瞳が、濁った色に濡れて見えた。地元に流れる、洗剤の浮いたドブ川に似ていた。


 だけど。今、彼の目は白黒と点滅するように瞬いていた。いつか冬の川辺で一緒に見上げた、名前も知らない星に似ていた。

 彼は何かを確かめるように自分の頬をなでる。私のことを見ようとしない。手のひらの熱はまだ引かない。


 あぁ、そうか。

 そう思うと同時に、下腹部から熱い液体が溢れ出すような、湧き出すような感じがした。それは激流のように私の中に行き渡り、頭の中でビートを刻む。目玉の奥がチカチカなって、周りの音が遠くに聴こえる。胸は痛いほどに高鳴って、下腹の熱も治まらない。しびれる右手をギュッと握ると跳ねるように心が踊る。

 これじゃダメだとぼんやり思った。


「ごめん」

 喉から声を絞り出す。彼がこちらを見上げる前に私は彼に背を向けた。何か叫んでいるような気がしたけれど、私は無視して台所に立つ。ちょうど夕食の準備をする時間。何だかそれを嬉しく思う。

 いつの間にか、いつも通りになった彼。何やら喚く彼の白い唾が頬に当たって気持ち悪い。私はそれを気にしないようにした。


 そして、手首に包丁を振り下ろす。力いっぱい、勢いよく。

 彼の声は悲鳴に変わり、赤い飛沫が彼を汚した。これでお互い様だという気持ちで、罪悪感はあまり湧かない。ただ、大根よりも南瓜よりも硬かった。左手だけじゃ綺麗に一度じゃ切れなくって、まな板の音はリズムなどとはほど遠かった。



 再び家には沈黙が戻る。


 朱い夕日の射し込む部屋で、私は彼に手紙を書いた。お気に入りの黒いボールペンで。ピカピカになったダイニングの中。私はもうこの部屋を出る。

 この手紙と、黒く染みた紙袋だけをここに残して。

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殴るとドキドキしたので手首を切っただけ おくとりょう @n8osoeuta

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