第9話 そしてシゲさんの秘密と風呂の残り湯


 

「私は部屋に帰ります」




 すると見送りに玄関まで来ていたシゲさんがそう俺に告げた。

 

 

 

「あ、お休みなさい」




 俺は階段を登るシゲさんを見送ってリビングに帰った。そしてテレビをつけた。

 別に見たい番組があった訳じゃないが、なんとなく静けさが嫌だっただけだ。

 

 

 

 テレビではニュースが流れていた。

 だけど俺にはそれが全然頭に入んなくて、ただ呆然とソファに座っていたのだった。

 

 

 

 ……今日はいろいろなことが多すぎた。

 そう振り返った。

 五祝成子と弁当を食べて、昼休みに東雲が転校してきて、そして部活で試合して、最後は勉強会だ。

 

 

 

 俺は気がつくとうたた寝をしていた。

 番組はすでに深夜バラエティに変わっている。俺はテレビを消して二階の自室へと帰った。

 

 

 

「今日も終わったか……」




 俺は部屋からベランダに出た。

 すると月が昇っていて明るい夜だった。俺の家は丘の上なので眼下に街の明かりが見える。

 

 

 

「お邪魔かしら?」




 カラリと隣の部屋のガラス戸が開いた。見るとシゲさんではなくて五祝成子がいた。

 

 

 

「別に邪魔じゃない」




 俺は別段驚きもしなかった。

 先に部屋に戻ったシゲさんが変装を解いて五祝成子に戻っただけだからだ。

 

 

 

「今日はありがと」




 五祝成子がいきなり言った。俺は、へっ? っと、変な返事をしてしまう。

 

 

 

「ケーキのことじゃないよ。

 ……私を追い出しもしないし、みんながいるときは岩井シゲとして接してくれたこと」

 

 

 

「ああ、そんなことか?」




「そんなこと? ……私には結構大事なことなんだけどな」




 五祝成子は俺の隣に来た。そしてベランダの手すりに頬杖をつく。

 

 

 

「街の明かり、キレイだね」




 ヤツはそんなことをつぶやいていた。俺は肯定の意味で頷いた。

 

 

 

「ひょんなことから邪魔が入ったけど、気がつけば君と私の二人になったから、話、してもいいかしら?」




 五祝成子が視線を街明かりに固定したままそうつぶやいたのであった。 

 夜風が吹き、俺と五祝成子を包んで、そして流れていった。

 

 

 

「ああ」




 俺は返事をする。すると五祝成子が視線を俺に向けた。

 

 

 

「昼間にちょっと話したわよね? 私には家がないって」




「そうだったな」




 俺は思い出す。あるけど形だけって言ってたな。

 

 

 

「私の家もね、宝くじで一等が当たったのよ」




「お前の家もか?」




 俺は驚いた。宝くじなんて当たるはずもないって思っていたからだ。

 例えば何十年買い続けても一等が当たるなんて、

 あり得ないくらい確率が低いギャンブルだと考えていたからだ。

 しかもこんなに身近にも当選者がいたなんてびっくりだ。

 

 

 

「驚いているわね? 私も驚いたわよ。

 父親が趣味で何十年も買い続けても全然当たんなくて、

 たまたま母親が買ったたった十枚の内の一枚が当選した訳なの」

 

 

 

「へえ、じゃあ俺ン家と同じだな」




「そこまではね。……でもね、そこからが違うの。

 とんでもないお金が家に転がり込んだ訳でしょ? 

 だから元々仲があんまり良くない両親が互いにお金を分け合って、さっさと出て行ってしまった訳なの」

 

 

 

「……どっかで聞いた話だな」




 俺は東雲の話を思い出していた。東雲の両親も不仲と言っていた。

 

 

 

「そうね。東雲さん、……明香里ちゃんの家と同じだったのよ。

 ただ違うのは一生働いても手に入れられないようなお金が突然転がり込んだって事が違うだけね」

 

 

 

 街明かりをながめていた五祝成子が俺に向き直った。

 

 

 

「で、私だけが取り残されたの。……小学校五年生のときよ」




「五年生で一人暮らしになっちまったのか?」




 俺は驚いて言った。

 宝くじが当たって一人残されたのは俺も同じだが、俺は中学三年生だ。

 しかも俺の場合は自主的に居残ったので、五祝成子の場合とちょっと違う。

 

 

 

「私の両親は互いが嫌いなだけじゃなくて、

 間に生まれた私のことも嫌いだったって、わかったのよ。

 私を見ていると、やっぱり相手の事を思い出すんでしょ」

 

 

 

「……、そういうもんか?」




「そうよ。私、容姿は母親似だけど性格は父親に似てたから」




「そうか」




「それでね、だけど流石に小学生をたった一人残すのは両親共に良心の呵責があったんでしょうね。

 私の家に家政婦さんが来たの」

 

 

 

「なんだか聞いた話だな」




 俺の場合と同じだと思ったのだ。

 

 

 

「笑うわよ。その家政婦さんが岩井シゲって言うの」




「な、なんだってっ?」




 俺は思わず聞き返した。すると五祝成子が自虐的な笑みを浮かべる。

 

 

 

「疲れた中年のおばさんで、料理がとっても上手なのよ」




 俺は気がついたら五祝成子と向き合っていた。

 互いに手を伸ばせば届くほどに接近していた。

 五祝成子の顔が声が、そして息づかいが、すぐ間近に感じられた。

 

 

 

 俺は言葉が見つからない。

 目の前に五祝成子がいる。そのことに俺は強烈に意識してしまっているようだ。

 

 

 

 触れてみたい。

 だが、それはとてもいけない気がする。

 

 

 

 なんて言っていいのかわからないが、自分が息苦しさを感じていることはわかった。

 この息苦しさがヤツの妖術なのか? 

 俺は術にかかってしまったかのように口を開いては閉じることを繰り返している。

 

 

 

「……じゃ、じゃあ、シゲさんは実在するのか?」




 やっと言葉になった。俺はなんだかホッとする。額には汗が浮かんでいるのがわかった。

 

 

 

「いるわ。でもいたと言った方が正しいのかも」




「ど、どういうことだ?」




 すると五祝成子が俺との距離をそっと広げた。そして長い髪を手ですいた。

 

 

 

「消えちゃったのよ。かつらと眼鏡を残してね」




「かつらと眼鏡?」




 それはシゲさんのシゲさんたる証だ。これがなくてはシゲさんは成り立たない。

 

 

 

「……それで私がシゲさんを引き継いだのよ」




「シゲさんを引き継いだのか……。二代目を襲名したってことか」




「そうよ。

 ……じゃあ、今夜の謎解きはこれでお終い。後はまた明日ね」




 そこまで言うと五祝成子はくるりと背を向けた。

 

 

 

「ちょっと待て。それじゃまだ謎だらけじゃないか」




 俺は手を伸ばして五祝成子に触れようとした。

 だがそれをするりと五祝成子はすり抜ける。

 

 

 

「女の子にはね、秘密が必要なの。

 いきなり全部教えたら魅力の魔法が消えちゃうのよ」

 

 

 

 不思議な言葉を聞いた。

 俺にはその全然説得力がないその言葉そのものが怪しい術のように効いてしまっていた。

 そのため伸ばした手を引っ込めるしかなかった。

 

 

 

 そして五祝成子は自室へと通じるガラス扉に手をかけた。そして振り返って言う。

 

 

 

「忘れてた。一つだけ約束してくれるかしら?」




「な、なんだ?」




 すると五祝成子は微笑した。

 それは妖術のようで見る者すべてを術にかけてしまうような笑顔だった。

 

 

 

「今度、また剣道で試合するんでしょ? あの子と」



 

「……東雲とか?」




「そう。……今度また剣崎くんが勝ったら私とデートするってのはどう?」




「へっ?」




 俺は反射的に変な返事をしてしまった。……なにが言いたいのかわからなかったのだ。

 

 

 

「約束したからね。本気だよ」




「へっ?」




 俺は一人取り残された。

 ガラス戸がぴしゃりと閉じられてカーテンが引かれてしまったのだ。

 

 

 

「……訳わからん。いったいなにがなんなのか?」




 俺は頭ン中が混乱していた。

 そして仕方なく部屋へと戻る。そして布団の上でごろんと仰向けになった。

 

 

 

「……ま、待てよ。じゃあ俺は勝っても負けてもデートなのか」




 今更ながら気がついた。

 俺が買った場合は五祝成子とデート。

 そして負けたら東雲明香里とデートと言うことになってしまったことに思い当たったのだ。

 

 

 

「これはまずい」




 俺は風呂に入ってゆっくり頭を整理しようと考えた。

 そして階下に降りると先客がいた。

 風呂場に明かりがついていて例の鼻歌が聞こえてきたのだ。もちろん先客とは五祝成子だ。

 

 

 

 俺は脱衣場の前で立ち止まる。すると鼻歌が止んだ。

 

 

 

「……もしかしてお風呂?」




 声が浴室内で反響しているがしっかりそう聞こえた。

 

 

 

「ああ。でも後でいい。ゆっくり入ってくれ」




 俺はそのまま立ち去ろうとした。だが急にトイレに行きたくなった。

 

 

 

「すまん。トイレだけ行かせてくれ」




「わかったわ」




 返事を待つと俺はトイレに入った。 

 我が家では脱衣場を抜けなければトイレには行けない造りなのだ。

 

 

 

 そして俺は用を済ませて立ち去った。

 そしてそのままリビングに入った。木刀を使って素振りでもしようと思ったのだ。

 

 

 

「あ、……」




 俺はそのときふと気がついた。

 いつもは食卓の上に置きっ放しにしてあるスマホがないのに気がついたのだ。

 別に今必要ではないのだが、ないとわかると急に気になるものだ。

 

 

 

「二階かな?」




 俺は自室へと登って行った。そして部屋を見回すが見当たらない。

 するとふと思い出した。

 

 

 

「トイレか」




 俺は用足しのときズボンのポケットに違和感があったので取り出してみるとスマホだったことを思い出した。 きっとそのときトイレの棚の上にでも置き忘れたに違いない。

 

 

 

「仕方ないな」




 俺は脱衣場へと向かった。

 もしかしたら五祝成子がすでに風呂場から出てきていて着替えていることも勘定に入れて、

 そっと中をうかがった。

 

 

 

 すると鼻歌が聞こえてきた。まだ風呂場にいるようだ。

 俺は脱衣場に忍び足で入った。そしてトイレの扉を開けた。

 すると予想通りそこに俺の電話があった。俺はそれを回収し再び脱衣場に戻った。

 

 

 

 ――そのときだった。

 

 

 

「……なにやってんのっ!!」




「おわっ!」




 俺は思いきり飛び上がった。そこにはいつの間にか五祝成子が立っていたからだ。

 だが姿は裸ではなくて、淡いピンクのバスタオルで身体を隠している。

 

 

 

「い、いや、で、電話を忘れて……」




「こんなところで電話?」




「いや、ち、ちがうんだ。トイレだ」




「トイレで電話?」




 俺はあわてているので説明が上手くできない。

 だからとんちんかんな回答になってしまい、それを聞いた五祝成子の視線がだんだん険しくなってくる。

 

 

 

「早く出てって。さもないといつかみたいに悲鳴上げるわよっ」




「す、すまんっ」




 俺はダッシュで脱衣場を飛び出した。

 だが途中蹴躓いて廊下の壁やら戸棚やらに身体をあちこちぶつけての退散だった。

 

 

 

「はあはあ……」




 リビングに到着した俺は肩で息をしていた。血圧も体温も急上昇で、額からは汗が流れていた。

 

 

 

「あれは反則だ」




 俺は今見た五祝成子の姿がしっかり目に焼き付いていた。

 濡れた髪、上気した肌、そして淡いピンクのバスタオルに浮かんだ身体のライン……。

 

 

 

「シゲさんじゃないんだよな」




 俺はいつぞやあった脱衣場でのハプニングを思い出していた。

 あのときは相手が中年のシゲさんだと思っていた。

 だが今はあのときも実は五祝成子だったのだと実感した。

 

 

 

「ラッキースケベなのか、それとも単なるアンラッキーなのか……、それが問題だ」




 俺の耳はリビングに近づいてくる足音をしっかり捕らえていたのだった。

 

 

 

 ……ごくり。

 

 

 

 俺は自分の喉が鳴ってつばを飲み込んだ音が聞こえた。

 なんかホラー映画のような感覚だ。近づいてくる足音の一歩一歩がちょっと怖い。

 

 

 

 そしてとうとう姿を現したのだ。姿はもちろん裸でもバスタオル姿でもなくて、

 今度は黄色いスウェットの上下という楽な服装だった。

 

 

 

「そこにいたの?」




 リビングの入り口に立ったまま五祝成子がそう言った。

 

 

 

「あ、ああ」




 俺はソファに座りながら居住まいを正す。

 まるでこれから母親に叱られる子供のような気分だった。

 

 

 

「一度ならず二度もだもんね。……もしかして変態なの?」




「ち、違う。俺はそんなんじゃない。前回も今回も不可抗力だ」




 俺は力説した。

 悪いのは我が家のトイレと風呂場の配置であって、

 俺がそこに居合わせたのはまったくの偶然だと力一杯説明したのだ。

 

 

 

「ふーん」




 タオルで髪の毛を拭きながら五祝成子はそう答えた。

 怒っているのかいないのか、鉄面皮の表情からはなにもうかがえない。

 

 

 

「もう、いいか?」




 俺は木刀を持って立ち上がろうとした。

 なんだか裁判にでもかけられているような気分だし、外の空気が吸いたくなったのだ。 

 だが、ぴしゃりとした声が俺を止めた。

 

 

 

「待って。感想はどうなの?」




「へ? ……感想?」




 俺はなにを言われたのかわからなかった。

 いや、言われた言葉はわかったのだが意味がわからないのだ。

 

 

 

「ご、ごめん。これから気をつける。お前が風呂場にいるときは近寄らないようにするから」




 俺は冷や汗ものでそう答えた。すると五祝成子の視線が厳しく変化した。

 

 

 

「またお前って言ったわね。……まあ、いいわ。私が聞きたいのはどう思ったかなのよ」




「へ? ……だ、だから悪かった。悪気は全然ない。

 ホントに偶然だったんだってば。見るつもりなんか全然なかったし、見たい訳でもなかったし」

 

 

 

 すると五祝成子の顔が一瞬にして硬化した。きつーい目つきで俺をにらんだのだ。

 

 

 

「バッカじゃないのっ!」




「へ?」




「悪かったわね。見たくもないものお見せしてしまってすみませんねっ」




 そして五祝成子はフンと鼻を鳴らして立ち去った。心なしか二階に上がる足音が大きい。

 

 

 

「……いったいなにが言いたいんだ?」




 一人残された俺は仕方なく木刀を持って庭に出た。

 そして月夜の下で素振りをする。初めのうちはバスタオル姿の五祝成子が頭に浮かんでいたが、

 しだいに煩悩は去って気持ちの良い素振りをすることができた。

 

 

 

 そして俺は風呂に入った。

 

 

 

「げ、お湯がないっ……!!」

 裸になって風呂のふたを開けた俺は思わず叫んだ。

 風呂の栓が抜かれていて浴槽にはお湯が一滴も残っていなかったのだ。

 

 

 

「あの野郎」




 俺は見えるはずもないのに二階にいるはずの相手をにらんでいた。

 なんたる仕打ち。

 俺は舌打ちをしてシャワーを浴びたのであった。

 

 


   ◇◇◇




 朝目覚めると時刻はまだ余裕があった。

 今日はゆっくり食事してから出かけても部活には十分に間に合いそうな時間だった。

 俺は寝床に横たわったまま昨夜のことを思い出していた。

 ……なんであいつは怒ったんだろうな?

 やっぱり脱衣場で鉢合わせしたことを恨みに思ったのに違いない。

 その証拠に風呂の湯を抜いてしまっていたんだからな。

 俺はそこまで考えると起き上がった。

 そして制服に着替えた。そして、よしっ、と気合いを入れた。

 いつまでも考え込んでいても仕方ない。昨日のことはきっぱり忘れようと思ったのだ。

 

 

 

「おはようございます」




 階下に降りた俺は台所にいるシゲさんに挨拶した。

 昨日のことは昨日のことだし、それよりなにも五祝成子がシゲさんの格好をしているときは、

 シゲさん以外何者でもないからだと思ったからだ。

 

 

 

「おはようございます」




 するとシゲさんも俺と同じ考えのようで気持ちの良い返事をしてくれた。

 

 

 

「今日は時間があるんです。ゆっくり食べようと思います」




 俺は食卓に並んでいるトーストとハムエッグの前に座った。

 

 

 

「……そうだ、シゲさん。たまにはいっしょにご飯を食べませんか?」




 俺は思ったことを口にしていた。

 シゲさんがいつも俺と食事をしないのは変装を見破られるからだと思っていたからで、

 今ここには俺しかいないのだから問題はないだろうと思ったのだ。

 

 

 

「……それって私にシゲさんを止めろってこと?」




 いきなり五祝成子の声になってシゲさんが答えた。

 

 

 

「ああ。だって俺しかいないんだから、今更変装しても仕方ないだろう」




 そんなことを言いながら、俺は不思議な気分に浸っていた。

 正体が五祝成子と知ってからもシゲさんにはなんでも話せそうだし、

 それにヤツが五祝成子の姿になっても、今までと違ってずいぶん会話ができる自分に驚いているのだ。

 

 

 

「そうね。じゃあ、そうするわ。……ホント言うとね、私お腹空いちゃったのよ」




 そう返答するとシゲさんはかつらをはずし眼鏡とマスクをはずした。

 そして後ろでまとめていた長い髪をばさりと振り下ろすと五祝成子のできあがりだった。

 服装は疲れた中年女性のままだったのに、一瞬で華やいだ雰囲気の少女が登場した。

 

 

 

 そして自分の分の朝食を用意して俺の正面に座ったのだ。

 

 

 

「いただきます」




 俺はまずはハムエッグに噛みついた。

 

 

 

「うまいっ」




 嘘偽りなくうまかった。焼き具合が丁度良くてハムのうまみが卵に染み渡っている感じだ。

 

 

 

「何点?」




「百点!」




 俺が即座に答えると、心なしか五祝成子の表情が緩む感じがした。

 

 

 

「そう言えばなんだが、訊きたいことがある」




 俺はトーストに伸ばした手を止めて五祝成子を見た。

 

 

 

「なあ、昨日の夜、どうして風呂のお湯抜いたんだ?」




 俺はずっと疑問に思っていたことを口にした。

 どう考えたってたった一人、つまり五祝成子が入っただけのお湯なのだ。もったいないことこの上ない。

 すると五祝成子はトーストをかじる手を止めた。

 

 

 

「バカなこと、訊かないでよ?」




 いきなり五祝成子が下を向いた。頬にはさっと朱がさした。

 

 

 

「へ? なにがバカなことなんだ?」




「もう、恥ずかしいからでしょ?」




「へ……???」




 俺はなにがなんだかわからなかった。

 裸を見られる訳じゃないのだ。なにが恥ずかしいのか俺にはさっぱりわからない。

 

 

 

「だから、私が入ったお湯に君が入ると思ったら恥ずかしくなって抜いちゃったの」




「い、意味がわからん」




「もう、いいわよっ」




 すると五祝成子はぷいっと横を向いてしまった。途端に空気が気まずくなる。

 

 

 

「じゃ、じゃあ、今まではどうしてたんだ? 俺が入った後に風呂に入ってたろ?」




「シャワーだけよ。男の人が入ったお湯だと思うと恥ずかしいでしょ?」




「……」




 俺は口がきけなくなった。これが年頃女子の習性なのか? うーん。

 

 

 

 それからの俺たちは口数も少なく食事を終えた。そして洗い物をシンクに運ぶと五祝成子が片付け始めた。

 

 

 

「お弁当、もうできてるから」




「あ、ああ。ありがとう」




 俺はその言葉を合図に立ち上がった。

 時計を見ると流石に家を出なければならない時刻に迫っていたからだ。

 

 

 

「じゃあ、行ってきます」




 俺は用意された弁当を手にすると、そそくさと家を出た。

 どうにもこうにも気まずい空気感が苦しかったからだ。

 

 

 

「変なことを訊いちまったのかな……?」




 俺は駅へと向かう道でひとり言を言う。

 ……まあ、いい。少なくともシゲさんが家を出て行くことはなさそうだし、

 帰宅後に全然違う会話をすれば元通りに収まるだろうと思ったのだ。

 

 

 

 そのときだった。

 

 

 

「副将、おはようございますっ!」




「おわっ!」




 突然話しかけられたので俺は飛び上がらんばかりに驚いた。

 見ると東雲明香里がいた。

 まだ着慣れないおニューの制服姿で竹刀袋を持って立っていたのである。

 

 

 

「ど、どうしたんだ?」




 俺は驚き顔のままで尋ねる。すると東雲は大きな目をきらきらさせて言う。

 

 

 

「待ってたんです」




「俺を?」




「はいっ」




「ど、どうして?」




 すると東雲はよくぞ聞いてくれましたとばかりの得意顔になった。

 

 

 

「これから毎日、いっしょに部活に行こうと思うんですっ」




「はいっ?」




 俺は声が裏返る。予想だにしていない展開だ。

 

 

 

「ま、毎日……?」




「はいっ。そうです。……だって意外と近いんですよ。私の家と副将の家」




「いや、だからと言ってもさ、毎日だと大変だろ?」




 俺はなんとかなだめようとしていた。

 女と毎日通学するなんてなんの罰ゲームかと思うくらい苦痛だし、

 それに近所やクラスメートたちの目もあるだろう。なんて言われるか知れたもんじゃない。

 

 

 

「全然、全然ですっ。せっかくお近づきになったんですから、ずっといっしょが楽しいと思いますっ」




 こんなセリフをきらきら目で訴えてくる。

 俺は小犬になつかれた気分だ。そしてある意味これは反則だ。

 犬好きな俺には、たまらなく愛おしく感じられるじゃないか?

 

 

 

 俺は背後を振り返った。

 まだ我が家が遠く見えているが、幸い五祝成子の姿は見えない。

 

 

 

 なぜだかわからないが見られてはマズイと俺の本能が訴えたのだ。

 少なくとも風呂のお湯が抜かれる以上の酷い仕打ちが待っているのは、きっと間違いない。

 

 

 

「と、とにかく行くなら行こう」




 俺は猛然と歩き出した。

 それをちょこまかと東雲が追ってくる。

 そんな位置関係で俺たちは電車に乗り学校まで到着したのであった。



 

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