悪銀のブラスバンド

七村メイナ

第1話 黒い雲から漏れる夕焼け

 あの先輩、辛そうだ。

 四月十五日、津丘中学校の四階にある第二音楽室で開かれた、吹奏楽部の入部体験。参加した一年三組の町田悠奈まちだゆうなは、個人練習でサックスに腹から強く息を吹き入れる一人の男子部員の、目を閉じた横顔を見つめていた。その表情は、眉間に皺が寄り、大きなバリトンサックスから音色を奏でることに必死になってか、息苦しさを滲ませていた。

 顧問は練習に現れず、三週間後に控えるファミリーコンサートに向けた全体練習の指揮は、部長の新原にいはらが執る。背が少し大きく、眼鏡をかけて堂々とした姿勢を見せる女子部長だ。


「はいはい、さっさと始めるよ」


 譜面を指揮棒で叩きながら準備を促すと、全員が少し濃い目の青いファイルを開き、本番当日の演奏曲である『南風のマーチ』のスコアを広げる。一年の見学者たちには聞き馴染みのないタイトルだが、吹奏楽に携わればいずれ知るであろう曲だ。新原が学校用の椅子の上に乗り、指揮棒を上げて構えると部員達は楽器を素早く構え、演奏体勢に入る。同時に、新原の隣に移動した見学者たちは固唾を吞んで見守る。

 金管楽器と木管楽器のメロディに、パーカッションの力強いリズムが加わったイントロダクションが流れると、見学者たちの心は演奏に惹かれていく。曲の長さは三分弱と、悠奈が普段聞いているロックと比較すれば短いが、進むにつれて展開が大きくなる演奏は、三分弱でも満足できると、町田の顔に憧れが浮かぶ。

 新原の指揮棒が左手の握った拳と同時に頭の位置で止まると、一斉に音は壁に吸い取られていく。迫力に惹かれた見学者たちから拍手が出ると、部員達は少し会釈をする。


「入部してくれたら、いつかは皆にもこのチームに参加してもらって、コンクールにでることもできるから、一緒に頑張ろうね」


 新原は見学者に声をかけ、ぴたりと座って待つ部員たちを振り返り、パート練習に向かうよう指示を出す。きっと楽しい練習生活なんだろう、と音楽室から出て行く部員達の表情を見ると、やっぱりあの男子部員の目は俯きがちになっていた。他の女子部員達が仲良く話をしながら出て行くが、彼だけは違った。

 見学が終わり、正門から下校する友那は、門から出て南にある一本杉まで歩き、トランペットの音色が漏れる四階の建ち並ぶ窓を見上げる。第二音楽室の窓に中から紺色のカーテンで遮断され、中を見ることはできない。既に吹奏楽部への入部届を出していた友那は、ほんの少し不安を抱いた。


「悠奈、一緒に帰ろうよ」


 通学用の紺色の鞄を右肩からかけた友那と同じクラスの亜樹あきが、背中がやや前に曲がりながらも、重さに耐えながら走ってくる。友那の右肩を掌でぐっと押さえ、息を切らしている。


「そんなに慌てなくても」

「悠奈が、先に、帰ろうとするからでしょ」


 必死に喋ろうとするが、荒げた息の音が強すぎて言葉がはっきりと聞こえない。

 息を整え、背筋をぴんと伸ばすと亜樹は、少し偏ったセーラー服の赤いリボンを整え、行こうか、と声を掛けて笑みを浮かべながら先に歩き始める。友那も少し小走りになりながら追いつき、歩いた。


「亜樹って、部活どうするの?」

「私? 入らないよ」


 胸を張って堂々と帰宅部を宣言する亜樹は、驚いて「えっ」と声を漏らす友那に同じ質問を聞き返した。


「吹奏楽部に入ろうかなって」


 既に入部届を出しているのに、思考段階であることを匂わせる。すると、亜樹は前と背後に誰もいないことを素早く確認する。そして、少し曇らせた顔を友那の耳元に近づける。


「顧問、うちらの担任だよ?」

「知ってるけど、それがどうかしたの?」

「クラスの面倒すら見ないってことは、部活の面倒も全く見てないってことじゃない?」


 確かに、彼女達の担任の高橋は一学期が始まってからクラス内で起きている男子生徒同士のいじめや、女子生徒同士の頭突きの喧嘩も見逃し、徴収も一切行っていない。しかし、悠奈は彼が顧問でも大丈夫だという根拠のない自信があった。


「音楽の先生だったら、問題ないでしょ。大丈夫、大丈夫」


 最後の三文字に口角の硬さを感じた亜樹は、大丈夫じゃないよ、と言いたくなった気持ちをぐっと押し殺し、さすがにそうだよね、と同調した。顧問の性格がどうのこうのより、今後関わる同期と先輩との繋がり問題がなければいいのだから。自分の心を安定させる二人を、広く張る黒い雲から漏れる夕焼けの空が見下ろしていた。

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