九話 天音の天音の天音の天音のあまねねねねねのののの
『お、お、お前! こ、ここ! か、書いてねぇじゃねぇか!』
『申し訳ありません』
醜い肉塊が、何かを喋っている。
よく分からない。
ただ、口から汚いものを撒き散らしている。
孝仁の頭を、踏んでいる。
『た、ったく。め、飯の時間、減らしやがってよぉ。ほんっと、使えねぇわお前!』
『お手を煩わせ、申し訳ありません』
まとまった紙を彼の背に叩きつける。
彼はずっと土下座のまま。
頭を執拗に、痛めつけるように踏み躙られる。
ばらばらと紙が散らばる。
肉塊が荒い息をしていた。気持ちが悪い。
『はぁ、はぁ。くそっ、くそっ、くそっ。お、お前みたいな奴がいるから、お、俺も出世できないんだ。は、反省しろよ!』
『は、い』
一際強く頭を踏まれ、彼の顔が少し横にずれる。
僅かに見えた、その表情。
温かみが消えた死人のようなそれ。
何もかもを諦めた奈落の瞳。
そこにはあれがなかった。
天音が好きな、月明かりの色が。何処にも。
消えていた。
消されていた。
汚物よりも醜穢な、塵屑によって。
『ふぅ、ふぅ、ふぅぅ……! な、何ぼさっとしてやがる。早く直してこい!』
『はい』
よろよろと立ち上がる。
彼は散らばった紙を綺麗にまとめ。
『ち、ちんたらしてんなよ! くそっ、ああああむかつくなぁ!』
『っぅ、ぁ……』
あ。
『すみません、すみません』
蹴られた。
孝仁が蹴られた。
集めた紙がばらばらになった。せっかく集めたのに。
また拾ってる。
這いつくばって、必死に。
色のない顔で。何度も何度も謝罪しながら。
『申し訳ありません』
紙を胸に抱くようにし、その場を離れる。
何やら肉塊は騒いでいたが、どうでもいい。
彼は頭を下げて俯きながら歩いていた。
やがて彼が机に着く。
紙の束を置いた。
そこには山のように連なる紙が。
席に着くなり、彼は紙に何かを書き出す。
これが、彼の仕事?
これ全部、彼がやらないといけないのか?
他の者は食事を取ったり休憩したりしている。
彼だけが、仕事をしていた。
『はは、まーた課長に怒られたんすか? 元宮さん、ミスしすぎっすよー?』
『お疲れ様です。どうやら、記入忘れがあったようで』
『へー』
突然、軽薄な男が近づいて来た。
黒い缶を片手に持ちながら。
ちゃらちゃらとした格好でみっともない。
男は軽々しく孝仁に声をかける。
不意に、知性の欠いた顔で紙を覗き込んだ。
そして。
『あっ、そこ俺が書き忘れてたとこっすわ』
『……そうですか』
『やー、何か忘れてた気はしたんすよねー。はは、さーせん』
は?
『んじゃ俺、休憩入るんで。後はおねしゃーす』
『はい』
『……あ』
肉塊が振り返る。
もういい。
何も言うな。何もするな。
何も。
何も。
『これもういらないんで。捨てといてください』
『はい、……?』
願いは届かず。
缶が投げられる。
まだ中身が入っているのか。それなりの速さで、彼の顔に向かっていく。
紙に視線を落としていたのだ。
必然、反応はできず。
彼は呆然と来たる物体を見つめ。
当た――
ぶつん。
「……?」
映像が途切れた。
どうしたのだろう。
天音の方に問題はない。そう、天音は全く以て正気である。
であれば原因は、札か。
「……」
理由はすぐに判明した。
知らず、握り潰していたらしい。
札はびりびりに破け、これでは使い物にならない。
だから燃やして消した。
もう一枚、札を懐から取り出す。
今度は破らないように気を付けないと。
尤も、確約は出来そうにもないが。
「見せよ」
世界に命令する。ほんの少しばかりの抵抗。
構わず捻じ伏せる。
いいから見せろ。
見せろ。
早く。
彼の、全てを。
そうして、天音は見続けた。
『ちょっと元宮君。まだこれ出来てないの? 私、今週中って言ったよね?』
『申し訳ありません』
『はぁ、そんなだから課長に怒られるのよ。あれ、煩いから迷惑なんだけど。大体貴方ね……』
貶され、非難される姿を。
『元宮ー。ちょっと用事ができちまってよぉ。この書類、頼まれてくんね?』
『承知しました』
『……おっけー皆! 仕事終わったし、飯行くかぁ!』
仕事を不適切に押し付けられる姿を。
『あはは! えー、そうなのー? ……あっ、ごめーん元宮さん。書類落としちゃった』
『いえ、構いません』
『……ぷっ、ちょ、何ですかその服。コーヒーでも零したんですか? ぷふ、あはは! よく似合ってますよー?』
無様に、嗤われる姿を。
瞬き一つすることなく。
深い藍色の瞳で。
ただ、じぃっと見つめていた。
嘲笑われる。陰口を言われる。邪魔をされる。叱られる。仕事が追加される。蹴られる。ごみを投げられる。侮蔑される。見下される。仕事が増やされる。罵倒される。嗤われる。嗤われる。嗤われる。
肉塊たちが嗤っている。
彼だけが笑っていない。
一人で、孤独に。
誰にも助けられることなく仕事をしている。
肉塊が一個、また一個と消えていった。
気付けば室内にいるのは彼だけで。
それでも、薄暗い世界にぼんやりと光る板を確認しながら、ゆっくり腕を動かす。
書いて。
めくって。
また書いて。
まためくって。
光る板の文字を確認して。
間違っていたら修正して。
山積みになった紙束が、半分程度になった頃か。
今日が明日になる数分前。
そこで漸く、彼の動きが止まった。
どうやら、今日の仕事はこれで終わりらしい。
『はぁ、ぁぁ……』
長く長く、重い溜息を吐く。
魂を吐き出すように。突き刺さった刃物を抜くように。
安心と苦痛が織り交ざった終着。
これが、彼の日常。
彼の、地獄。
これが、これが……。
『ふぅ、っぅ……、ぁ』
よろよろと、彼が時計を見る。
そして、やや顔を綻ばせ。
消えかかった声で、呟いた。
『ああ、よか、った……今日は……早く、帰、れる……』
ぶつん。
「……」
いけない。
また札を捩じ切ってしまった。
掌で分断された紙屑を燃やす。灰がぱらぱらと落ちた。
さあ、次の札を。
「……?」
首を傾げる。
懐に手を入れても返ってくる感触はない。
よもや、使い切ったか。
軽く百枚は作ってあったはずだが。
視線を落とす。
床には燃え滓となった灰が積もっていた。
一撫でする。
それだけで、全ての灰は消失した。
「……んー」
まあ、今日はこれくらいにしておくか。
孝仁も仕事が終わったようだし。少し惜しいが、今は我慢だ。
何、札なら簡単に作れる。
彼が寝た後にでもやればいい。
これから忙しくなる。
孝仁のためにも、頑張らねばな。
天音は虚空を見つめ続ける。
色の消えた瞳で。
どこか茫然としながら、ふわふわと。
札が無くなり、彼の姿が見えなくなって尚。
見続ける。
想い続ける。
ふらふら、ふよふよ。
天音の心はぷかぷか浮かんでいる。
くらくら、そよそよ。
あの人のことをぺちゃぺちゃ考えてる。
やがて、何かを思いついたのか。
天音はこくりと頷き。
まるで、散歩に出掛けるような気軽さで。
幼い子供のような無邪気さで。
にっこり。
「取り敢えず、全員殺すか」
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