二章 原罪

八話 天音、見ちゃった


 これは彼女の原罪。


 臆病な狐は無知を恐れ、知恵の実を食らった。


 故に彼女は知ることになる。


 この世の善悪を。


 彼の罪を。


 全てを知った彼女が何を為すのか。


 それは誰も分からない。


 言えるのは一つだけ。



 汝、これより進むならば一切の希望を捨てよ。



 運命の軋む音が聞こえる……。














 孝仁と暮らし始めて、二週間が経った。


 彼との生活は上手くいっている、と思う。

 最初こそすれ違いは多かったものの、今では互いに理解を深め。摩擦は減っていった。

 阿吽の呼吸、とまでは言えないが。

 それなりに息が合う関係になったのではなかろうか。

 天音はそう感じている。

 孝仁も、そうであって欲しいと願う。


「……」


 辺りを見渡した。

 殺風景だった景色。必要最低限の家具しか置いてなかった部屋。

 それが随分と、物が増えた。

 

 天音が日中、暇で退屈だろうから。

 漫画や小説をはじめとした書物。げーむ機なる機械。一人遊びの玩具などなど。

 孝仁は毎日それらを買って帰ってきた。

 両手に荷物を抱え、ふらふらと。危なっかしいったらない。

 それにこの数だ。金銭だって馬鹿にならないだろう。

 故に何度か、もう買わなくていいと、必要ないと言おうとした。

 でも孝仁が。

 あんな風に、天音を見るから。

 思わず口を噤んでしまって。

 ついつい、彼の優しさに甘えてしまう。


「……はぁ」


 まあ、これについて考えても仕方がないか。

 孝仁も迷惑ではないと言ってたし。天音だって、買ってきたものに不満はない。

 ならばこの話はこれで終わりのはず。

 ただ、心配なのだ。

 孝仁は大丈夫と言っていた。無理をしているやも。

 口に出せぬなら意味がない。

 そもそもどうして孝仁は……。


「ああもう、切りがないのじゃっ」

 

 頭を振って、強引に気持ちを切り替えることにする。

 何か紛らわせるものはないか。

 暫し考え、立ち上がった。

 向かう先は本棚。これも、天音が家に来てから置かれたものだ。

 様々な表紙を眺め、吟味する。


 さて、今日は何を読もうか。

 昨日は小説を読んだ。みすてりー、というやつらしい。難しくてよく分からなかった。

 やはり自分には漫画が合っている。

 絵があるのは新鮮で面白いし。何より分かりやすい。

 ではどれを読むか。

 あれは読んだ、これも読んだ。

 あれはいまいち。

 これは……。


 本を手に取り、見つめる。

 やたらと桃色が強調されており、真ん中には若い男女が手を繋いでいる。

 少女漫画、と言っていたか。

 結構前に読んだ記憶がある。あの時はそこまで面白いと思わなかったが。

 何故か気になって、数冊取り出す。


「ん、しょ」


 ぽすん。


 絨毯の上に本を置く。触れた毛足がふわふわで気持ちがいい。

 座布団を持ってきて、その上に座る。茶の準備も万端だ。

 お菓子は……お昼ご飯の前だから控えよう。

 万全の状態。

 早速、一巻を開いた。

 

「……」


 それは、ありふれた内容の恋愛漫画。


 親の再婚で兄妹となってしまった二人の男女。

 突如として同居することになった異性に困惑し。されど少しずつ心を開いていく。

 やがて二人は互いを意識するようになり……的な。


 特別、絵が上手いわけではない。人気もそこそこ。

 話もそんなに面白いということもなく。

 やはり、平凡な作品だ。


「……」


 ぺらり。

 

 だのに、どうしてだろう。

 進む手が止まらない。続きが読みたいと思ってしまう。

 気付けば、天音は目が離せないでいた。


『私、どうしちゃったんだろ……』


 前はこんなに熱中しなかった。 

 何が違う? 

 何が変わった?

 一体、何が。


「……ぁ」


 ふと、手が止まる。

 視線の先にあるのは、何てことのない台詞。

 乙女が発する、疑問の発露。

 

『あの人のこと、ずっと考えてる。声も、名前も、顔も。ずっと思い出してる』


 頁をめくる手が重い。

 確か、確か。

 この次の言葉は。

 だめだ。動かすな。見てはいけない。それを見たら終わってしまう。

 決定的な、何かが。


 理性は手を止めた。

 けれど彼女は天狐だ。元狐の、獣だ。

 本能は言った。


 確かめてみろ、と。


「……っ」


 ぺらり。

 薄い紙を一枚めくる。

 そこには。 

 顔を膝に埋めて、ぽつりと呟く。

 赤い顔をした、一人の女がいた。



『……恋、してるのかな』



「……こ、い?」


 思考が、止まる。

 こい。鯉。恋。

 誰かのことを、ずっと考えてしまうのが恋? 

 声も、顔も、小さな仕草も。

 名前すら、何度も思い返して。

 その度に嬉しくなったり、偶に落ち込んだり。

 

 それが、恋?


 じゃあ天音は……。


『まさか、ね』


「いや、いやいやいやいや」


 頭をぶんぶん振って否定する。

 ありえない。

 だって、そんな、まだ二週間だし。自分は天狐で、彼は人間だし。

 孝仁のことは嫌いじゃないけど。

 寧ろ、す、好きだけど。

 そういう意味じゃないというか。あくまで人間性を評価しているというか。

 異性として、見てるわけじゃないというか。


 ぺらぺらぺらぺら。


 頁をめくる手が止まらない。

 目をぐるぐるさせながら、天音は言い訳を続ける。


 そりゃあ、暇さえあれば孝仁のことを考えているけど。

 別に他意はないし。ただ気になっただけだし。

 彼の顔や声を思い出すのだって。一緒に住んでるのだから自然なことだ。何も不思議はない。

 ちょっと数が多い気もしないでもないが。仕方ないことだ。

 そう、仕方がないことなのだ。

 大体にして彼も彼だ。いつも天音を甘やかして、優しくして。

 これでは勘違いしてしまう。

 彼がまるで、天音を。

 す。

 

『私、馬鹿みたいだね。貴方のこと、こんなに好きなのに』


「いいや馬鹿ではない! お主は馬鹿ではないぞぉ!?」


 浮かび上げかけた言葉をかき消すように叫ぶ。

 顔が熱かった。今にも火が出そうだ。

 熱に比例して、天音の思考は迷走していく。


 ぺらららららららら。


 速読なんて比じゃないほどに高速で頁をめくる。

 これほんとに読めてるのだろうか。


『貴方の笑顔は好き。まるで、温かい太陽みたいだから』


「太陽は熱いじゃろがぁあ! つーか眩しくて見えんわ!」


 彼の笑顔はそうじゃない。

 太陽とは真逆。月を思わせる静謐な笑み。

 暗い夜にぽつんと。

 寂しげに光っている。


 この二週間で分かったこと。

 彼は普段、全く笑わない。というより、表情が動かない。

 顔の筋肉が死滅したかと勘ぐるほどに。

 どこか機械的な行動。感情の見えない無表情。暗く深い目つき。

 では彼は。

 孝仁には、心がないのか。


 否だ。

 彼はしっかりと感情を持っている。

 表に出さないだけで、ちゃんと心の内に秘めている。

 だってそうでなければ。

 あんな笑みは浮かべられない。


 天音がご飯を食べるとき。漫画を読むとき。げーむで遊ぶとき。

 自分はこっそり盗み見る。彼の顔を覗き見る。

 驚いたり、楽しんだりしたときか。

 自分がそうしたときに、彼は笑うのだ。


 そっと、水面に一滴零すように。

 隠していた何かが、意図せず溢れ出してしまったように。

 薄く、淡く。

 彼の頬が僅かに綻ぶ。

 それが、あまりにも嬉しそうだったから。

 だから天音も、つい。

 嬉しくなってしまって……。


「にゅおおおお……! なんか、ろまんちっくな表現になっておるぅ……!」


『貴方という大空で、私を包んで』


「うっさいわ馬鹿もん! 恥ずかしいんじゃっ!」


 ぱららららららららら。


 怒鳴りつつも本は手放さない。

 知らぬ間に物語は終盤。

 何故か二人はすれ違いにより、仲違いをしていた。無論、これは少女漫画。本気で嫌いになったわけではない。茶番である。


 ヒロインが壁一枚を挟んで、隣の部屋にいる想い人のことを考える。


『今、貴方は何をしてるんだろう』


「む……! う、にゅぅ……」


 ぴたり。

 再度、天音の手が止まる。

 とある文字をじっと見つめていた。


『怒ってるかな。私のこと、嫌いになったかな』


『貴方に会いたい。貴方に会いたくない。怖い。やっぱり顔を見たい』


『知りたい。知りたくない。それでも、私は』


 壁の方へ振り向く。その先には想い人がいる。

 泣き出したい感情のまま、心を吐き出す。

 不安。期待。恐怖。好意。

 ごちゃまぜの想いを伝えた。


『貴方が今、何をしてるか気になるの。今、何を思っているか、知りたいの』


「……」


『……ふふ。あんな酷いこと言ったのに、私って駄目だなぁ』


 まあ、この言葉を扉の前で待機していた彼は、ばっちり聞いてたわけで。

 俺もずっと気になってた。あのときはごめん。

 そんな、貴方は悪くないのに。私もごめんなさい。

 二人は抱き合って無事解決。

 おめでとう。


 ぱたん。


 天音は本を閉じた。

 呟くように、口を開く。


「……儂だって」


 彼が今、何をしているか。

 知りたいとも。ああ、大いに気になるとも。


 天音は世間に疎いが、鈍いわけではない。

 彼の仕事時間は異常だ。

 朝早くから出勤して、日を跨いで帰宅する。

 平均でも五時間ほどしか彼は家にいない。その時間で食事や湯浴みを行うのだ。

 睡眠不足なのは明らか。

 そんな生活を二週間も続けている。いや、これは自分が来てからなので、本当はもっと長いか。


 一体どんな仕事をしているのだろう。

 疑念に堪えかね、話の流れを装って聞いてみたことはある。

 こんな時間まで働いて、体は大丈夫かと。

 彼は深く頷き。

 心配には及ばないと言った。

 だが、それは。


「それは、平気とは違うじゃろう……」


 大丈夫とも言わず。問題ないとも言わず。

 ただ心配するなと。

 体の不調を否定することはなかった。

 それを慮る、必要がないと彼は言うだけで。


 ああ、そうだ。

 孝仁という人間は、そうなのだ。

 たとえ大きな怪我をしても知らないふりを決め込み。

 常人なら騒いで見せる傷を、敢えて隠し。

 誰の迷惑もかけずに生きようとする。

 そんな、馬鹿で不器用な男だ。


「どうして、そうなったんじゃ……?」


 元々、ではないのだろう。

 あれはきっと、何かがそうさせた。

 異常なまでの他者貢献。

 奈落より深い他者受容。

 分かっている。分かっているのだ。


 元宮孝仁は、決して優しいだけの人間ではない。


 憎いのだ。自分自身が。殺してやりたいと願うほど。

 憎くて憎くて憎くて。どうしようもなく自己を嫌悪する。

 彼の献身はそこから来る。

 塵に等しい自分は、せめて誰かを幸せにしなければと戒めて。

 でなければ、生きる価値がないと断定して。

 あれは、そういう人間だ。


 二週間ずっと彼を見てきた。

 些細な仕草から、本人でも気付かない癖まで。

 だのに天音は孝仁のことを何も知らない。

 何故。どうして。


「孝仁」


 どうして、あそこまで自分を憎む。

 過去に何があった。

 引き出しに大切に仕舞っていた、は何だ。

 聞きたい。聞いて助けになりたい。

 けれどそれ以上に、怖い。


 問えば、彼は答えるだろう。

 想像を絶する痛みを以て。口から千本の針を吐き出すが如く。

 罪人の懺悔をするだろう。


 そして、終わる。

 何もかもが。

 今の暮らしが壊れ、二度と取り返しがつかなくなる。

 そんな確信。

 嫌だ。

 嫌だ。

 だったら、聞かない方がいい。耳を塞いで、いつものように。

 見ないふりをしていた方がいい。


 でも。


「……」


 視線を下に落とす。

 先にあるのは、乱雑に置かれた漫画の一巻目。

 その帯紙に書かれていた。

 安っぽいフォントの、ありきたりな言葉。


『恋とは、壁を一枚ぶっ壊すくらいじゃないと始まらない』


 何だそりゃ。

 訳のわからない稚拙な宣伝。というかこれ、絶対最後の場面意識してるだろ。

 ばればれである。

 しかも、あんまり壁関係なかったし。彼氏、扉の前にいたし。

 やっぱり、稚拙だ。


 ……だが、まあ、なんだ。


「別に、恋などしとらんが」


 孝仁のことが気になる。

 ずっと、貴方のことを考えてしまう。


「恋とか、全然興味ないし。始めようとも思わんが」


 知りたい。

 貴方が何をしているのか。何があったのか。

 些細な事でも、全部知りたい。


「同じ部屋に住む、同居人じゃし」


 助けになりたい。しかし聞くのは怖い。

 傷付きたくない。傷付けたくない。

 幸せになってほしい。

 幸せに、してほしい。


「しょうがないの」


 彼の全てを知りたい。彼に問うことは出来ない。

 矛盾した願い。

 されど叶うはどちらかだけ。

 ならばどうするか。


 答えは既に決まっている。


「神によって定められし天狐。真名を天音が世界に命ずる」


 いつものように札を取り出し、目を閉じる。 

 これより行うは正しく奇跡。

 天音に与えられた、無二の権限。

 


「見せよ」


 

 藍色の瞳を開ける。

 次いで景色が、世界が変わる。

 天音が見たいものを世界が配下となって献上する。


 千里眼。

 それは世界を支配する力。

 天音の持つ権能の一端。


 問いはしない。

 ただ、一方的に見させてもらう。

 すまん、孝仁。

 見るだけだから。迷惑はかけないから。態度も絶対に変えないから。

 だから、どうか。

 どうか。

 この臆病な天音を、許しておくれ。


 後ろめたさと期待が混じる。

 差し当たり見るのは、会社にいる彼。

 問題がなければ、次は彼の過去だ。

 いけないことをしている自覚はある。それでも、天音は止まれなかった。

 知らないということは、怖いことなのだ。


 思考がぐるぐる回る。


 今はお昼時。もしかしたら、食事中だろうか。

 どんな仕事をしてるのだろう。

 遅くまで頑張っているのだ、きっと評価されている。

 無理してないといいな。

 早く見てみたい。

 

 やがて、彼の姿が映し出され……。

 

 

「……へ?」



 天音は勘違いしていたのだ。

 孝仁と過ごす中で、忘れてしまったのだ。

 かつて自分が、恐怖した存在を。

 その、限りない悪意を。



「孝、仁……?」



 天音は見た。

 彼の姿を。


 見て、しまった。














 元宮孝仁は、土下座のまま、頭を踏まれていた。

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