第4話

 ふたりのやりとりに聞き耳を立てていた招待客らは、固唾かたずをのんでこの場を見守る。

 緊迫した状況のなか、誰もが婚約破棄の宣言に戸惑っていた。

 花嫁はきぜんとした態度で箱を差し出すまま。

「……さない」

「ギリアム様……?」

 ギリアムが体を震わせた。荒々しい語気でテーブルを一度叩く。

「許さない、私のもとから去ることなど、させるものか!!」

 テーブル席にあったシャンパーニュの入ったグラスが倒れる。白いテーブルクロスからたちまち泡が吹きぼれていくが、誰も動けない。

「なぜだマリアンヌ! 私のどこが嫌なのだ、今はっきりと申せ!!」

「え?」

「……ふふ、そうか。やはり君も同じか」

 妖しく笑うギリアムは一人納得した様子で、腕に巻かれていた包帯をゆっくり取り去った。会場の照明に照らされたのは、人のものとは思えぬ右腕。悪魔に呪われ変色し、肉が不自然に盛り上がるその腕を、マリアンヌへとかざす。

「君もこの腕が恐ろしいんだろう? だから逃げるのだな」

「ええと」

「……安心するといい」

「あの、ギリアムさ」

「私はッ、一生、っ君に触れられなくとも構わないんだ!!」

 強く、ギリアムは叫んだ。

 悲壮感のある声音で、己の覚悟を。

 婚約者、否、最愛の伴侶に触れられなくてもなどのたまうのは、正気の沙汰ではないように周囲は思った。会場中がギリアムの隠していた本音に騒然となる。

「それでも、君がほしい。君なんだ、私が惚れたのは」

 大の男が瞳を潤ませてたかが令嬢を口説いている。かの人の武勲に比べれば、美しいご令嬢といえど、その価値は装飾品といっても過言ではないだろう。立身出世で身を立てたギリアム将軍には足下にも及ばない。

 ギリアムは恨みがましいような目で愛しい女性をにらみつけている。まるで子供の駄々のように。欲しい欲しいとねだっている。渇望、今この瞬間、男はひどい飢えを覚えているに違いなかった。

「なんのことでしょう?」

 首をかしげるマリアンヌ。

 いっそ自分たちは喜劇でも見せられているのかと招待客たちは焦った。

 ギリアムにとってはとぼけられることでさえ傷ついた。戦場で受けたどんな攻撃より的確に急所をえぐってみせたマリアンヌのせいで呼気がおかしくなりつつある。

 動悸がしたギリアムは、よろめき、腕をテーブルにつく。

 様子のおかしいギリアムに駆け寄ったマリアンヌ。

 彼女はギリアムの手に、あろうことか呪われている右腕に目を留めて。

「さわるな!! ――あああッ!」

 ギリアムの忠告は無駄になった。

「腕が、なんですの?」

「ばかな……、なぜ触れた!!」

「わたくし、……きゃあ!」

 ギリアムはとっさの判断で腕を払ってでも止めようとした。マリアンヌは力の強さにうろたえたが、それでも彼の手を離しはしなかった。

「とてもたくましい腕ね。頼もしいですわ」

 いつか感じた印象のままにやわらかな頬をすり寄せるマリアンヌ。


 いっそ爽快な春一番がギリアムのもとにもたらされた。

 ギリアムの胸中は複雑なものであった。とても一言では表現できず、油絵なら色の混ぜ過ぎで濁り、くすみ、どこまでも暗くなっていたことだろう。まさに嵐を、マリアンヌはもたらしたのだ。


(ああっ)

 だが、恐れていたことが起きてしまう。

 ギリアムは 神に祈りを、いやこの場合は悪魔をもう一度殺してやりたいと思った。

 自分の愛した伴侶の腕に異変が起き始めていたからだ。

 むしばまれていく痛みにマリアンヌは顔をしかめた。愛する人を苦しめている、それも自分の呪いのせいで。ギリアムは胸を押さえて歯を食いしばる。やり場のない怒りと虚脱感から彼は吠えた。それでも、呪いは止まらない。

 式場に吊るされたシャンデリアで、いっそうよく分かってしまった。

 わざわいが、マリアンヌを侵食していく。国一番とも称えられた美貌は、白魚のように美しかった両手は。赤茶色に染まり、紫の血管が不気味に透け、しわがれて枯れ枝のように乾燥した皮膚は。もう淑女の手とは到底呼べぬものだった。


「なんてことを……」

 ギリアムは信じたくなかった。それでも彼は動いた。

「だれか、医者を呼べ。だれでもいい、いますぐにっ、だ! 彼女の手を治せる者を手配してくれ!!」

 歴戦の英雄が、恥も外聞も、誇りさえも捨てて頭を下げた。必死の懇願だ、ところがみなの反応は芳しくない。それもそのはず、解けぬ魔法だから呪いなのだ。きっと国中を探しても解決する手立ては――……。

 間の抜けた声が響いた。

「それは、わたくしのためですの?」

「当たり前だろう!!」

 ぽわわんとしたマリアンヌのお花畑な有様に、ギリアムは狂いそうになった。自分がこんなに必死になるのも君のためだぞと、いっそ分からせてやりたくなるほどには。

 かわいさ余って憎さ百倍、忌々しげな目で威嚇する、君は黙っていろと。

「そうですか。……感激ですわ」

「は?」

 胸を押さえているマリアンヌ。

 この女、まさかほんとうに気でも狂ったか。今度はギリアムが呆ける番だった。

 彼女の顔をあらためてみると、ほほえんでいるマリアンヌにギリアムは目玉をむいた。


「ギリアム様はなにか誤解しているようですけれど」と、マリアンヌは丁寧に前置きして話し始めた。

「わたくし、この縁を手放すつもりなど毛頭ありませんのよ?」

 愕然としたのはギリアムだった。

「なぜ、だ……なぜ君は…………」

「話せば長くなりますので、ひとつだけ答えましょうか。わたくしはずっと待ち焦がれたものを手に入れたのです。それだけで、十分ですわ」

 胸の前で手と手を重ね、彼女は頬を染めながら思い出す。これまでの日々を。

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