没落令嬢は執着王子の求婚から逃げられない!

宮前葵

一話 没落令嬢

 こう見えても私は貴族令嬢、だった頃がある。


 今ではすっかり庶民の、しかも嫁ぎ遅れの二十五歳だけど、昔は伯爵令嬢として社交界に出てブイブイ言わせていた時代があったのだ。


 まぁ、お家が没落して庶民落ちして、はや七年。昔の話よね。


 今では下町の代書屋で働いている。貴族令嬢教育で読み書きを習ったからね。手に技術は身に付けておくもんだ。代書屋は結構良いお給料が貰える。それで、女一人でも生活出来ているのだ。


 お父様お母様はどうしているかなぁ、と思うこともたまにある。二人は没落と同時に親戚を頼って王都を出て今では田舎に暮らしているらしい。農業をしていると聞いたわね。私は地方に行きたくなかったのと、あの時は何とか頑張って貴族に復帰したいという野心があったから王都に残ったのだ。


 というのは、当時の私は社交界に友人も多くて、それなりにモテてもいたから、上手くすれば友人の紹介とか、結婚とかで貴族に戻れるチャンスもあるんじゃないかと思ってたのよ。


 甘かったけどね。友人はほとんど会ってもくれず、恋人候補に至っては顔も見ることが出来なくなった。そりゃ、貴族の結婚は家同士の契約だからね。なんで貴族の貴公子が庶民と結婚する訳があるか、という話しよね。友人だって庶民と会っている暇なんて無いわよね。そりゃそうだ。


 という訳で私は貴族復帰を諦めて、元家臣の伝手で代書屋で働き出してそれなりに重宝されていた。私は字が綺麗だったし、何カ国語かを書けたからね。代書屋の主人は貴族に仕えていた人で、私の境遇に同情してくれているから何かと面倒を見てくれた。


 毎日毎日、それなりに充実した毎日だったわよ。慣れれば庶民生活も別に不便は無い。町の人も良い人ばかりで、私は楽しく暮らしていた。


 ただ、結婚の話はとんと無かったわね。庶民でも、結婚は家同士の契約だから、家族がいない私との結婚には旨みがないのよ。家同士で助け合う為に息子と娘を縁組みさせるのだもの。お金も何も持っていない私と結婚しても仕方がないのだ。


 そんなだから私に声を掛けてくるのは一夜の遊びを誘ってくる男か、お金持ちの商店の店主なんかが愛人にならないかと誘ってくるような話ばかりだった。清らかな乙女である私としてはちょっと勘弁して欲しいと思うような話ばかりだったわけね。


 私はお金には当面困っていなかったから、無理にお金持ちの愛人になって養ってもらう必要も無かったこともあって、そういう話は全部お断りしていた。そうしている内に「身持ちの堅い女だ」という噂になって、愛人の話すらなくなってしまった。


 そんな訳で私はすっかり嫁ぎ遅れたままで二十五歳になってしまった。庶民なら十五歳くらいで結婚するのが当たり前で、貴族でも遅くとも二十歳に結婚するのが望ましいとされる。二十五歳は嫁ぎ遅れも嫁ぎ遅れ。大年増扱いだ。


 ただ、庶民の場合様々な問題で結婚しない女性は少なくないのよね。さっきも言ったけど家同士が納得出来なければ結婚は出来ない。家同士が釣り合い、お互いの家が助け合って新しい家族の子供を育てられる見込みが無いと、結婚は出来ないのだ。借金があるとか片親だとか、あるいは単純に超貧乏だなんて場合も結婚は難しい。まぁ、そういうとこの娘さんは器量が良ければお金持ちの愛人の道を選ぶけどね。愛人として子供を産んでる女性も多い。


 まぁ、仕方が無いわよね。私はすっかり結婚は諦めていて、働きながら呑気に暮らしていた。考えて見れば別にどうしても結婚して子供を産みたいとも思っていないのだし、構わないだろう。没落してまで世間体に気を遣うのも馬鹿馬鹿しい話だものね。


  ◇◇◇


 私は代書屋の主人が紹介してくれた下宿に住んでいた。下町の中では表通りに面した建物の三階。最上階だ。家賃はこの辺りでは高い方だったわね。もっと裏通りの安い下宿に引っ越そうと考えた事もあるんだけど、色んな人に止められたのだ。治安が悪いから。女の一人暮らしなんだからその辺には気を遣わなければならない。必要経費だと思って高い家賃を払っている。


 三階なので水を汲んだり逆に汚水を捨てるのは大変だし面倒だったけどね。だから三階の家賃は二階に比べれば安い。ただし日当たりは良いし、夕方は遅くまで明るいから仕事が終わって帰ってきてから出来る事が多くて助かる。蝋燭は高いからね。


 その日も私はお部屋がまだ明るい時間に帰ってきて、下の井戸のところで洗濯をして、それを抱えて部屋まで上がって洗濯物を干していた。食事は帰宅の途中の屋台で済ませたわよ。


 洗濯物を干したらお部屋の掃除をする。それほど広い部屋ではないけど、貴族出身の私は近所のみんなに比べればきれい好きの部類に入るらしい。掃除を毎日しないと落ち着かないなんて珍しいのだ。トイレも、したら外の汚物入れにすぐに捨てに行く。人によっては三日も四日も捨てに行かなかったり、夜中に窓から外に投げ捨てちゃう人もいるそうね。


 箒で掃いて濡れぞうきんで拭き掃除をして、水瓶の水をコップで掬って飲んで、ようやく一息吐く。水はまだ汲まないで大丈夫そうね。これは大仕事なので、休みの日に一気にやるのだ。


 安心して椅子に座り、どれ、太陽が残っている間に繕い物でもしようか、と考えていると、ドアがノックされた。お客? 私は首を傾げる。


 私の部屋まで、しかも夕暮れ時に尋ねてくる人に心当たりはない。私に用がある人は代書屋まで来る事がほとんどなのだ。私はドアの側に寄って返事をする。ドアはまだ鍵を掛けたままだ。


「はい?」


「エステル・ブランビア・フィレックシア様のお住まいはこちらでしょうか?」


 ……一瞬考えて、それが私の懐かしのフルネームである事に気が付く。最近はすっかり「エル」で通っていたのだ。うん。確かにそれは私の名前です。


「はぁ、そうですけど」


「よかった。私はその、やんごとなき方の使いで参りました。ドアを開けては下さいませんでしょうか?」


 やんごとなき? 私は更に首を傾げてしまう。庶民になってからは聞かない表現だわね。貴族時代は婉曲な表現が好まれたから、そういう持って回った言い回しをする事が多かった。その頃をなんとか思い出して、私は尋ねる。


「えーっと、どの辺りの方ですか? ユリの花の方? それとも山羊の関係の方ですか?」


 ユリの花はこの国の国章に使われていて、転じて王家や官憲を表す。山羊は実家の紋章に入っていて、フィレックシア家を表す。つまり私はお客が、王家又は実家の関係者であると予想したのだ。


「ユリの方です」


 あー。そっちかー。私は思わず頭を抑える。王家又は官憲。この内、王家が没落貴族の私に用があろう筈はないから、官憲の方だろうね。


 そっちだと可能性はいくつか考えられる。私は貴族身分からは外れてしまったけど、貴族には親戚が沢山いる。そのため、親戚の間でなにかもめ事が起きた場合に庶民落ちした私の所まで問い合わせがくる可能性があるのだ。


 あるいは、お家が没落する原因になった詐欺事件の話かもしれない。隣国との通商条約をネタにしたこの詐欺事件には多くの貴族が引っかかり、いくつもの家が破産してしまって貴族界は大混乱になったのだ。その話の余波が今頃になって私の所に届いてもおかしくはない。


 困ったわねぇ。今更当時の話で「実はもっと借金がありました」なんて言われても困るわよ? 私は庶民レベルなら暮らしていけるだけのお金はあるけども、今の貯金なんて貴族の半日の生活費にも満たないんだから。


 しかしながら、官憲の使いでは対応しないわけにもいかないだろう。無視なんてしたら今度は兵士がやってきて逮捕されかねない。私は観念してドアを開けることにした。鍵を外してドアを開ける。


「はい、私がエステルですが……」


 と言いながら私がドアを開けると、もう真っ暗な踊り場に大きな男が立っていた。生成りのマントを羽織って、フードも頭から被っている。私は思わず「ヒッ」っと悲鳴を上げてしまった。


 しかし男性はフードの隙間から私をマジマジと観察しているようだった。そしてウンウンと頷いた。何かしら。私が三度首を傾げた時、彼が言った。


「エステルだ。間違い無い」


「はい?」


 私が間抜けに応えると、男性はバサッとフードを頭から払った。


「私の事を見忘れたか? エステル?」


 フードの下から現れたのは艶のある金髪と、紺色の瞳を持つ美青年のお顔だった。白い頬と明瞭な輪郭と、そして柔らかい微笑。その育ちの良さそうな顔は間違い無く貴族よね。


 彼は自信たっぷりに私を見下ろしていたのだけど、私はためつすがめつ彼のその凜々しい顔を観察して、再び首を傾げてしまった。


「だれ?」


 男性はずっこけた。そしてがっかりした表情を隠しもせずに慨嘆した。


「私を忘れたのか! 酷いじゃないか! 私は君を忘れた事など一度も無いというのに!」


 そんな事を言われても困る。本当に見覚えがないのだから。困っている私を見て、彼は仕方が無さそうに名乗った。


「アーバインだ。アーバイン・クセルク・ベルケッテンだよ」


 ……名乗られてまで思い出せないのでは、さすがに彼に悪い。私は記憶を必死に辿った。アーバインの名前は全然思い出せない。ミドルネームは兎も角、知ってるなら家名には心当たりがなければおかしい。ベルケッテン。ベルケッテンねぇ……。


 ……え? 私は彼の事をもう一度観察する。相変わらず見覚えはない。ないのだがきっとそれは私のせいではない。彼の容姿が私の知っている頃から随分と変わってしまっているせいだ。


 確かに、ベルケッテン家の方とはお会いした事がある。何度か。そう、王都の中央に聳え立つ王城の中で。


 なぜならベルケッテン家は王家の家名なのである。ベルケッテン家は当然、王家しか存在しない。だからベルケッテンを名乗るこの男性は王家の人間ということになる。


 そして、王家の中で親しかった人なんて一人しかいない。私が貴族だった当時、王家の方は国王陛下、王妃様、そして王太子様しかいなかった。この三人しかベルケッテンを名乗る事を許されていなかったのだ。


 そして、その中の王太子殿下と私は親しかった。確かに。王城に行くたびにお相手をして一緒に遊んだ。それは間違い無い。その時、私は王太子殿下の事をこう呼んでいた。


「ルーク?」


「思い出してくれた?」


 つまりミドルネームのクセルクの愛称がルークだったという事なのだろう。


 私がなぜ王太子殿下をルークなどと親しく呼んでいたのかというと、それは彼がその頃、子供だったからだ。


 まだ小さかったのだ。確か、私より八歳年下で、私が王宮で遊んで上げていた頃は三歳とか四歳とかだった筈。そう、その頃は私もまだまだ子供で、十一歳くらい。


 十三歳になると社交界デビューしてしまうから忙しくなって、まだ社交の場には出て来ていなかったルークと会う機会は無くなってしまったのよね。だから今日は実に十二年ぶりくらいの再会なのだ。それは私が覚えていなくても仕方が無いんじゃない?


 私が呆然と見上げる先で、ルーク、いえアーバイン王太子殿下は嬉しそうにニッコリと笑った。


「エステル。迎えに来たよ。さぁ、結婚しよう」


「は?」

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