第15話 2人でチークダンスを
2人でチークダンスを 1
大型スクリーンの電源を落とした後、メリッサはトーフハンバーグをアルと2人で作る。それにレストランのシェフが用意してくれたサラダの具材を組み合わせると、簡単な夕食が出来上がる。備え付けのキッチンはとても小さなものなので、2人で料理をしているとどうしても距離が近くなる。ついさっきまで隣のソファで大型スクリーンで猫番組を鑑賞していたのとはまた別の近さだ。
メリッサは共同作業をすることで心まで近くなっていることを感じる。
今夜こそ、アルは自分に手を出してくれるのだろうか、と考える。それは難しいだろう。添い寝といって彼の行動を縛ったのは自分の方だ。禁欲生活が長い彼にとって、自分がどれほどの誘惑の対象になるのか想像もできない。
そう。誘惑する気がなくてもこうして2人きりになるだけで誘惑になる。それでは今までの秘書とそう変わらないのではないか――とためらうのである。
トーフハンバーグとサラダを打ち合わせテーブルに持っていき、電気ケトルでお湯を作り、インスタントのスープを作る。
「いやあ。思ったより苦戦したね」
「トーフの水分量がこんなに多かったとは不覚でした」
メリッサはどうにかこうにかハンバーグらしきカタチを形成したトーフの固まりを見て、苦々しい顔をする。予定ではもっと格好良く作れるはずだったのだ。
「まあでも、美味しく食べられるならそれでいいよね」
こんなことを言ってくれる独身のセレブリティがこの世のどこにいるというのだろう。
アルはにんまりと笑った後、トーフハンバーグの攻略に着手した。メリッサも同時にそれを口にする。やや水っぽいが、しっかりハンバーグ感があるのはトーフハンバーグキットのお陰だろう。既製品バンザイである。ソースも悪くない。ヨシダソース。ちょっと甘辛い不思議な味だ。エスニックのそれとは全く異なる。長い間、売れるだけのことはあるなと思う。
夕食はとりあえずできた。その中身よりも近い距離で共同作業したことに大きな意味がある。これで心の距離も一層、近くなったと思いたい。
全面ガラスの向こう側には黄昏の時間が訪れていた。街が赤く染まり、ライトが点灯し、白い輝きを点す数が増えていき、それに反比例するように空が暗くなっていく。赤から黄昏れのオレンジに、そして闇へ移ろっていく。
「こんなに綺麗だったんですね――ここからの景色」
「気がついたことがなかったような言い方じゃないか」
「気がついていなかったんです」
アルの一挙一動に気を配らなければならない秘書業は、外の光景をそれ以上のものとして思うメンタルの余裕をたやすく奪ってしまっていた。
「ふーむ。君は疲れているね。申し訳ない。できることなら、今、この一瞬一瞬を楽しんで欲しい」
アルは本当に申し訳なさそうな顔をした。
「ええ。そうします」
自然と自分の顔に笑みが浮かぶのがわかったメリッサだ。この2年間の疲れや苦悩が溶けていくような時間が、今、ここに横たわっている。
夕食を平らげ、2人で皿を下げて洗い物を済ませる。
洗い物を済ませて執務スペースに戻るとすっかり外は暗くなっていた。全面ガラスの向こう側は闇の中に浮かんでいる街のシャンデリアがうっすら見えるだけだ。反射して鏡のようになっている。そこにはアルと自分が並んで映っている。
「ドレス、無事届いていたよね」
ガラスに映ったアルがガラスに映るメリッサに言う。
「ええ。無事」
「楽しみだなあ。僕もタキシードがあればよかったんだけど」
「いえ、確かあったはずですよ。クリーニングに出してそのままのが」
ガラスに映ったアルが苦笑する。
「持って帰っていなかったか。では好都合。僕もタキシードに着替えよう」
「やる気満々ですね」
「夢が一つ、叶うから」
ガラスに映ったアルは少し照れたように笑った。直にその表情を見たくて、メリッサは隣にいたはずのアルを振り返ったが、彼はもう仮眠室の方に歩き出していた。仮眠室の中にはベッド以外にクローゼットがある。本当に彼は踊る気満々だ。
「――どうしてそんな嬉しいことをさらっと口に出せるんでしょうね」
アルが仮眠室の中に消えてから、メリッサは小さくそう言葉にした。
メリッサだってロマンス小説の愛読者の1人だ。ロマンス小説のヒロインたちがヒーロとダンスを踊るのはハイライトシーンの1つである。憧れがないと言ったら嘘になる。
「さて。頑張るのは私の方だ!」
メリッサは自分に気合いを入れて、自分の仮眠室に向かったのだった。
アルはドえらく緊張していた。
自分がドレスを着て欲しいと言い出したのはいいが、自分と躍るところまでは想定していなかった。ただメリッサのおめかしした姿が見たかっただけだったのだ。
クローゼットの中にはクリーニングから返ってきたままのタキシードが一揃いあった。着る機会がないのでそのまま持ち帰らずに掛けていたものだ。アルはクリーニングのビニールを剥がしてタキシードを身にまとう。ピッと背筋が引き締まる気がする。やはり気持ちとカタチは連動するらしい。
着替え終えて、洗面台で髪を整えて、応接セットのソファに座る。
いや、立って待っていた方がいいか。
執務スペースの明かりを消すと、メガロポリスの夜景が全面ガラスの向こう側に広がる。そしてメリッサの仮眠室の扉が開いたら、手を差し出して言うのだ。
――そう、考えていた。
しかしメリッサはなかなか仮眠室から出てこない。女性の着替えに時間がかかることを知らないわけではないが、さすがに30分過ぎても音沙汰がないのはかかりすぎだろう。洗面台が別なので、もしかしたら中で必死に髪型を整えているのかもしれないと思い至り、自分の居場所に問題があるのかと考えた。アルはメリッサの仮眠室の扉をノックし、口を開いた。
「僕は仮眠室で待っているからね」
メリッサからの返事はなかったが、聞こえたはずだと考え、アルは仮眠室に戻った。するとやはり、隣の仮眠室のドアが開く音がした。メリッサはシャワールームの洗面台に向かったようだ。苦労をさせてしまったようで申し訳ない気分になった。
メリッサとこうやって踊る機会が今までなかったわけではない。セレブリティが集まるパーティに招かれることもある。そのときメリッサをパートナーとしてエスコートすることもある。しかしそのときも躍ることはなかった。パーティ会場であろうと仕事に結びつくことはなんでもやっていたからだ。アルにとって、パーティとは新たな仕事を発掘する場だった。
躍ることもなく、パートナーとして、仕事に注力するメリッサはそれだけで輝いていたが、やはりいつかは彼女と躍ってみたかった。しかし躍るのは下手なので、いつかは、どこかで、くらいにしか考えていなかった。そして今日という日がきた。誰も見ていない。2人きりだ。
ずーっと2人で過ごしている社長室でメガロポリスの夜景をバックにワルツを踊るのはアルにとって非日常そのもので、ロマンチックをカタチにしたようなものだ。
長い時間が過ぎた気がした。実際には20分くらいだっただろうか。それでもアルにとっては、非常に長い時間だった。
「準備ができました」
アルは息をのみ、仮眠室のドアノブを開けて、執務スペースに出る。
メリッサは執務スペースの明かりを消したままだった。
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