第13話 私はいつも、自分で自分をダメにする

 旧校舎のレッスン室でただぼうっと過ごす。もう随分長い時間が経ったと思ったけれど、壁に掛けられた時計を見るとまだ登校してから少ししか過ぎていなかった。今は一時間目が終わったところだ。

 「…………」

 ヴァイオリンケースに目を向け、気まぐれに蓋を開けてみた。今までその勇気が出なかったのに、やけにあっさりと手が動いた。

何か、救いを求めているのかもしれない。その答えがヴァイオリンにあるのかもしれない。

 久しぶりにその姿を現すヴァイオリンは全く変わらないように見えた。鈍い光沢にこげ茶色の身体……しかし弦は錆びついていた。弾いてみると酷く歪んだ音がした。創路さんに調律してもらったピアノで調弦し、弓に松脂を塗って、構えた。

 弓を引くと、情けない音が出た。狂ったように練習していたあの日々に比べて、四か月も練習していなければこんなものだろう。

 「私……ずっと逃げてきたのかな」

 指揮科に行ったのも、楽器を弾けなくなった自分が音楽に縋るための逃げ道に過ぎない。がむしゃらだったのも、無力な自分から目を背けるための手段に過ぎない。結局、私は自分のことしか考えていなかった。あんな陰口を言われるのも納得だった。

 そもそもどうして音楽なんてやっていたんだろう。こんな苦しみも全て音楽をやっているからだ。父のことも母のことも全部忘れて音楽なんて辞めてしまえれば、どれだけ────

 「もしもし」

 コンコン、とノックする音が聞こえる。レッスン室の扉が開いていて、そこには創路さんがいた。

 「西島さんと宮本さん、怒ってたよー。学校来たんなら連絡しろってさ」

 「……関わらないでと言ったはずです」

 「謝罪するんでしょ。嘘はいけないな」

 「私の顔なんて誰も見たくありませんよ」

 「そんなかわいい顔してんのに?」

 「いい加減にしてください、何の用!?」

 私の喚き声がヴァイオリンに反響した。歪な音だった。私は耳を塞いでしまいたかった。

 創路さんは徐にレッスン室に足を踏み入れ、ピアノの前に座った。

 「何にする?」

 「は?」

 「曲。楽譜があれば、ある程度できるから」

 「弾くなんて誰も」

 「せっかくヴァイオリン出してんのに、もったいなくない? 弾く気になったんでしょ? 久しぶりにさ。どう?」

 創路さんは鍵盤を叩く。脈絡のない旋律がレッスン室に響き渡る。朝の陽ざしを反射するピアノの黒い身体と、創路さんの派手な髪。レッスン室にかすかに舞う埃。そして音。それらが私のどこかにある琴線に触れた。急に切なくなって、茫然と立っていられなくなった。

 「……『クロイツェル』」

 「ベートーヴェンの?」

 「第一楽章、弾けますか?」

 創路さんは立ち上がり、ボロボロになった楽譜が収められているレッスン室の棚の扉を開けた。目的の楽譜を見つけ、パラパラと捲って目を通し、私に向かって頷いた。

 「一回、弾いたことある」

 私が最後にコンクールに向けて練習していた曲だ。ある程度練習していなくても、身体が覚えているはず。私は革手袋を外した。両手に刻まれている醜い傷痕が顔を覗かせた。

 構えて、私は最初の和音を奏でた。会話するように創路さんのピアノが答える。心細く、繊細な音だ。指になかなか力が入らない。弓を持つ手が震えた。私は息を整える。

 イ長調での穏やかな導入────ドイツの春、花と高原と雄大な大地を思わせる重厚な和音が響き、ピアノがヴァイオリンの隣へ静かに伴う。

 そして────テンポが変わり、静かな導入とは一転激しくなる。イ短調の連続した和音。弓を弦へと叩きつける。

 創路さんを見ると、汗をかきながら笑っていた。

 ────いきなり!?

 と言っている気がする。私の指捌きに、創路さんは気合を入れ直した。

 ────もっと、いけるでしょ。

 もっと、もっと。ねだるような、わがままな音だった。伴奏を置いていかんばかりの速度だ。創路さんは必死に食らいついてくれた。

 ────テンポも強弱もめちゃくちゃだ。

 ────こんなの私の音楽じゃない。そのはずなのに……。

 ただ感情のままに、私はヴァイオリンを弾き散らかしていた。八つ当たりのように弓を叩きつける。音が歪み、外れた。こんな演奏認められない。それでも────

 ────どうしてあたしたちを見ようとしないの!? ずっと自分の殻にこもってさぁ!

 私は西島さんの言葉を思い出した。嫌われても構わないと思って、理解しようとしていなかったのは自分だった。嫌われているから無駄だと、突き放していたのは自分の方だった。

 音楽で通じ合えればいいと思っていたくせに、今、自分が感じているこの感覚は指揮を振っている時と────全く違うものだった。

 今、この瞬間こそ、私は創路さんと繋がっていた。めちゃくちゃな演奏でも、二人は対等に語り合っていた。

 創路さんは私に負けじと弾き、私も創路さんを突き放すように弾く。セッションというよりもこれは喧嘩だった。互いが互いの全力をぶつけ合い、屈服して相手のペースに飲み込まれた方が負け。ノーガードの殴り合いだった。

 本来、『クロイツェル』はこういうものだ。本来の題名は、『ほとんど協奏曲のように、相競って演奏されるヴァイオリン助奏つきのピアノソナタ』。つまり、私たちは対等だ。

 私は笑っていた。無意識にか、意識的にか。衝動のままに、純粋に弾くことに対して。

 互いの熱が頂点にまで達しそうになったその矢先────ヴァイオリンの弦が切れた。

 「あっ……」

 それをきっかけにして私たち我に返った。我を忘れるほど、互いが互いの音に熱中していた。ぐっしょりと汗をかき、息を荒くさせた。

 上手くいきそうになったら、いっつも、こうなる。

 私はいつもこうだ。

 私はいつも、自分で自分をダメにする。

 「どうだった?」

 額の汗を拭いながら創路さんは尋ねてきた。私は────涙を流していた。

 「えっ!?」

 創路さんはすっきりとした表情を一変させ、あたふたと私に近づいてきた。

 「ど、どうしたの!? ごめん、あたしの伴奏、変だった!? なんか気に入らない演奏しちゃった!? ごめん、ちょっと気持ちよくなっちゃって────」

 「ちがうの……」

 私は顔を手で覆いながら、必死に首を横に振った。

 「違うの、創路さんのせいじゃないの。私が……私が、全部────」

 「なんか音したと思ったら、こんなとこにレッスン室なんてあったの!?」

 騒々しい声が、聞こえた。

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