第3話 音楽家が音楽以外で

 「おはよ、リツちゃん」

 「……あなた、ここ他のクラスですよ」

 翌日。教室に登校すると創路さんが私の席までやって来た。御門学院は科によってクラスが分かれており、ピアノ科の創路さんはA組、指揮科の私はJ組だ。

 「リツちゃん顔が暗いねぇ。隈も酷いし。ちゃんと寝た方がいいよ」

 「私の勝手でしょう。いちいち口を出さないでください。あと嫌いって言いましたよね」

 「話しかけんなとは言われてないでしょ」

 「不愉快なので話しかけないでください」

 「やーだねっ」

 ダメだ、話が通じない。無視しよう。そう決断した私は鞄からオーケストラのスコアを取り出した。

 「あ、スコアだ。すごい書き込んである。これ何?」

 すると、創路さんが覗き込んできた。邪魔だ。

 「ちょっと、頭退けて。見えないです」

 「これ何ってばぁ」

 「……ホルストの『木星』です。課題曲の」

 「何それ。知らないかも」

 私は思わず目を剥いた。

 「はぁ!? 知らないって、あなたそれでもクラシック弾いてるって言えるんですか!?」

 「そ、そんなに? いや、オケの曲って専門外だし……」

 向こうから聞いてきたのに、なぜか創路さんは引き気味だ。私は頭を抱えた。

 「いいですか? ホルストの組曲『惑星』の最も有名な曲、それが『木星』なんです。特にアダマンテ・マエストーソの中間部はイギリスの愛国歌にもなっているくらい世に知られています。ハ長調から始まり、変ホ長調からもう一度中間部が奏でられる時にはロ長調になる。この三度の転調が信じられないほど滑らかにつながるように作られている手腕はさすがホルストだわ。特にさっきも言った中間部は誰もが知る名フレーズ。ここをいかに美しく、そしてここに繋がるメロディをいかに中間部を際立たせるために使えるかは指揮者の実力が如実に表れるところよ。『惑星』は初演時には高く評価されたけれど、同世代の名曲に埋もれてしまっていたの。それを蘇らせたのがあのカラヤンよ。カラヤンの影響力は凄まじいもので、あっという間にこの曲は近代管弦楽曲の大人気曲にまでのしあがったわ。そもそもホルストはこの組曲を作るにあたってギリシャ神話をモチーフにしていて、木星は快楽とか歓喜を────」

 「分かった分かった! ストップ! もう充分理解したから!」

 私は熱中し過ぎて、いつの間にか椅子から立ち上がり教室中に聞こえるような大声で語っていた。クラスの全員が白けた目で私を見ていた。顔が熱かった。きっと真っ赤になっているに違いなかった。「し、失礼しました」と、私は席に座り直した。

 創路さんは苦笑しながら頭を掻いた。

 「えーっと、好きなの? その指揮者。カラヤンだっけ?」

 「……好き嫌いじゃありません。指揮を勉強するなら、否応なく意識せざるを得ないのがカラヤンよ」

 「じゃあ、好きな指揮者は?」

 「……ユーリ・シモノフ」

 「へぇ。ちょっと調べよ」

 スマホを弄り始めた創路さんを無理矢理意識の外に追いやって、私はスコアに目を落とす。昨日のあの惨劇のようなオーケストラを思い出す。どうやったら自分の思う通りに弾かせられるのか分からない。音楽理論は学んだけれど、オーケストラの運営まで学ぶ時間は無かった。

 「ねぇ、空矢」

 声がかかった。また邪魔をされた。誰だ。声のした方に目を向けると、そこには長谷部さんが立っていた。腕を汲んで、不機嫌そうに指を二の腕にトントン叩きつけていた。

 「ちょっと話あんだけど」

 長谷部さんは「なんであんたがいんのよ」と創路さんを非難のまなざしで見た。創路さんは「友達のとこにいるだけだけど」と肩を竦めるだけだった。

 「なんですか、長谷部さん」

 私がそう尋ねると、長谷部さんは私の机にバン! と手を叩きつけた。

 「昨日のあれ取り消してよ。あんたのせいでアタシは評価ガタ落ちなんだよ。一回も演奏できずにクビにされた間抜けってさぁ!」

 「だから自業自得って言ってますよね」

 「はぁ!? あんた、学長の娘だからって調子乗んないで! もうここはあんたの思い通りになるヴァイオリン科じゃないの! いっちょ前にオーケストラ語るなら、もうちょっと人との関わり方考えたら!? あの事故だって、それこそ自業自得なんじゃ────」

 「あのさぁ」

 突然、創路さんが私を庇うように前に立った。

 「そこら辺にしときなって。今すっごいダサいから。あたし友達のダサいとこ見たくないって」

 「はっ、はぁ!? ユキだっておかしいと思わないの!? こいつ、オケで散々威張り散らしてるくせにちっとも良くならないんだよ! 全部こいつのせいなの!」

 長谷部さんは私を憎々し気に睨んだ。創路さんの背中で、その視線に晒された私は気づけば肩を小さく縮こまらせていた。

 「ねぇ、空矢。こないだの練習、最悪の出来だったらしいな! オケのみんなが言ってるんだ! あんたのせいだって!」

 私は顔を歪ませて目を伏せた。長谷部さんはやっと私にダメージを与えられた暗い喜びなのか、さらに言葉を重ねてきた。

 「あんたに指揮なんて無理なんじゃない!? ヴァイオリンが弾けなくなったからってお情けで指揮科に転科してもらってよかったねぇ! 親の七光りのくせに! あんたなんか────」

 「おい!」

 創路さんが叫んだ。そして、驚くべきことに────長谷部さんの胸倉を掴んで壁に押しやった。

 「それでもチェリストか、お前!?」

美人が凄むと恐ろしい、とはまさにこのことか。整った顔面いっぱいに表現させた怒りが眼前まで迫って、長谷部さんは罵倒を喉の奥に飲み下した。

 「音楽家が音楽以外でモノ語ってんじゃねぇよ! それがダせぇって分かんねーのか!」

 「な、なんだよ!」

 長谷部さんは負けじと創路さんの手を払った。

 「なんでユキ、あいつの肩持つの!? だっておかしいじゃん! 遅刻しただけでクビなんて! 友達なら一緒に抗議してよ!」

 「友達だから言ってんでしょ。ダせー真似やめろ。自分が一番惨めになるから」

 創路さんは私を指さした。

 「カナがやるべきことは、自分のやったこと棚に上げて、リツちゃんに酷いこと言って傷つけることじゃないよ」

 「た、棚に上げてるわけじゃない! 事実を────」

 「事実? カナに関係ないじゃん、それ。それよりもっと練習して上手くなって、カナをクビにしたリツちゃんにギャフンて言わせることなんじゃないの? あの時クビにした私が間違ってました、もう一度オケに入ってくださいって頭下げさせることなんじゃないの!?」

 「うっ……」

 創路さんの言い分を正しいと思ったのか、長谷部さんは次の言葉を見失った。とうとう何も言えなくなり、降参したように大きく息を吐いた。

 「……分かったよ。たしかに、ユキの言う通り、かも」

 「頭は冷えた? じゃあしっかり練習してきな。一日二十時間ねー」

 「死ぬわそんなん! ……じゃあ、ね」

 一瞬私の方をちらりと見て、長谷部さんは何かを言いかけた。しかしそれを飲み込んで、肩を落としながら教室から出て行った。

 創路さんは気まずそうな笑みを浮かべながら私に向き直った。

 「あー、ごめんね。リツちゃん。友達が失礼しました。あの子も悪い奴じゃないんだけど、熱くなりやすくてさ……」

 「……なんで私を庇ったんですか」

 拗ねたような言い方になってしまった。私は創路さんを見上げた。

 「私を庇っても、なんのメリットも無いのに……」

 「うーん、昨日勝手にピアノ弾いたけどこれで許してね、みたいな?」

 冗談めかして創路さんは言った。私は呆れた。

 「それなら、調律してもらったから……それでおあいこです」

 「いいからいいから。気にしないで。色々と、さ」

 「気にしてるように、見えますか?」

 「めっちゃ涙目だよ」

 隠せていたと思っていたのに。私は慌てて目を拭うと、制服の袖に大きな染みができた。

 「やっぱ、そこまで貫き通せるものが無いとダメだと思うね、あたしは。音楽なんて我を通してこそ、じゃない?」

 「……そんなの全然違います。楽譜に書いてあることを忠実に再現するんです。作曲者の意図を読むんです」

 「そっか。まぁ人それぞれだよねー」

 始業のチャイムが鳴った。創路さんはリツの席から離れた。

 「そろそろ行くね。あ、オケの発表会観に行きたいんだけど。三週間後だっけ?」

 「……お好きにどうぞ。あと」

 私は創路さんを呼び止める。

 「『木星』はピアノ版がありますよ。やはり知っていなければダメだと思います」

 創路さんはそれを聞くと「あちゃー」と気まずそうに頭を掻き、逃げるように教室を出た。

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