私の素敵な呆然

やみくも

第一章「恋する怨念」

第1話

「私、そこで電話してくる」

 通ってきた道を指差しながらそう言った。向こうには、電話ボックス。無言で頷くと、彼女はタッタと向こう側へ走っていった。そして飛び降りた。

 崖から飛び降りた。

「あ」

 っと唱えても、返事は返ってこない。

 呆然とその場に立ち尽くした。


「私の素敵な呆然」


 水場にやってきた小鳥が囀るような笑い声がする。

「……だね」

 シャワーの音でよく聞こえない。じきに温かいものが頭を包み込んで、知恵熱のように、少しぼんやりする。

 指が髪をかき分けた。細い指だった。水を吸った前髪が後頭部へ垂れて、顕になったろう生え際にシャワーが当てられ、そこを手で押さえられる。音が止む。

「お湯加減、よろしいですか?」

 「可愛い声」としみじみ思いながら一言、「はい」と答えた。「ふふっ」という鼻に抜けるような笑い声が返ってくる。それに思わずニヤッとしてしまって、目以外は隠れていないんだと思い出して、恥ずかしくなった。

 右の方から左の方へ順番にギュッとシャワーを押し付けられて、その度に頭がぼんやりしていく。耳に指が触れると、ちょっとくすぐったい。

 シャワーの音が遠ざかっていく。ノズルをキュッキュッとしてる音が聞こえて、今度はシャンプーをかき混ぜる音が聞こえた。胸が少し高揚した。パブロフの犬みたいだった。それがバレないよう、胸をさりげなく左手で抑える。

 指が毛先をくるくると回し始めた。泡の弾ける音がする。もみあげと襟足に泡をつけると、そのまま髪の毛の中に指を入れた。

 ゆっくりと、それでいて結構強く頭皮と髪をがしゃがしゃされる。その感覚が好きだ。

 ずっと「この感覚を何かに例えられないか」と考えていたけど、正解が見つかったかもしれない。

 「水の中で剥かれる茹で卵」。話したら笑われるだろうか。

 どうでもいいことを考えているうちに、指が髪から離れていった。ノズルを開ける音が聞こえる。程なくしてシャワーでがしゃがしゃと洗われた。泡が落ちていくのがわかって、左手に伝わる心拍音が増した。

「洗い残しないですかー?」

 明るい、ポッピングシャワーみたいな声がする。気付かれないよう、私は息を飲んだ。心臓の高鳴りは最高だった。

「あの……」

「はい」

「あの……左の耳の上の方、もう一回やってもらってもいいですか?」

「いいですよー」

 気さくな返事が返ってきて、私の鼓動はひとまず落ち着いた。でもすぐに「洗い残しが酷いみたいなクレームになっていないか」とか、色んな感情が湧いてきて、それでも左耳の上は気持ち良くて、シャワーの音がして、指が耳に当たって、くすぐったくって、「この時間を少しでも長く味わいたくてこんなことを言ったんです」と素直に吐露できればどれだけ楽だろうと思った。

「もう大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫です!」

「ふふっ。良かった」

 指が離れていく。今度はタオルでがしがしされて、目の上に乗った紙が捲られた。明るくてよく見えない。

 目を凝らしていると、右端から夕陽さんがちょこんと飛び出して、肩でくるくる巻いた茶髪が揺れた。

 覗き込まれる。笑顔だった。

 私はどんな顔をしていいかわからなくて、歯を食いしばってまた目を瞑った。それを見て夕陽さんは笑って、「上げますよー」と椅子を起こした。

 まだ頭はぼんやりしている。けどここで座っていると迷惑になってしまうので立ち上がった。

「こっち」

 夕陽さんが道を先導する。すらっと長いその背中についていく。すらっと長いと言っても、夕陽さんの身長は163cmの私よりずいぶん低いので、多分体型の問題だ。青いショルダースカートが似合っていた。

 なんて改まって言うと、とても恥ずかしい。

 一人で悶えながら椅子について、夕陽さんがこっち向きに回転させてくれたので座った。鏡には耳が半分見えるくらいの黒髪に黒い半袖の女。私。

 まじまじ見ていると、またひょっこり夕陽さんが現れた。

「いつもみたいな感じにしてみたよ」

「ありがとうございます!」

「ドライヤーかけるね」

「はい」

 もみあげを触りながら、角度を変えたりしながら鏡を見る。ドライヤーが終わった。

「どう?」

「良い感じです」

「うん。似合ってるよね、ショートとパンツコーデ」

「えっ……!」

 「早まるな、早まるな」と頭の中で念じて、軽く深呼吸をする。

「そう……ですか?」

「うん。めっちゃ似合ってる!」

 夕陽さんはグッと親指を立てた。

 そうそう、こんな距離感だ。早とちりしてはいけない。この距離感を守るのが何より大事なのだから。

「そういえば、なんて言ってたんですか?」

「ん? いつ?」

「シャンプーする前の時に『なんとかだねー』って。よく聞こえなくて」

「ああ」

 夕陽さんが首を傾げる。

「多分、『栞ちゃんは髪綺麗だねー』って言ったと思う」

 そう言って、夕陽さんが微笑む。

 私はもう完全にやられていた。

 私は夕陽さんが好きだ。

 その好きは女の子同士だから一生叶わない。言ったら嫌われてしまう。そんなことくらい分かっている。

 それでも、私は夕陽さんが好きだ。

「ほんまに言ってますか」

 口を覆いながらもごもご喋ると夕陽さんはニヤッとして私の方を指差した。

「出てるよ、関西弁」

「え? ほんまに?」

「それそれ!」

「あ、ほんまや……ほんとだ……」

 慌ててながら訂正する。

「別に悪いことじゃないんだよ? 標準語だって、京都にいたら方言みたいなものだし」

「そんなん良いんです。私は夕陽さんみたいになりたいし、私から『方言出てたら直して欲しい』って言ったんですから」

 憧れみたいなものだった。京都で生まれ育った私は、幼い頃からこの美容室に通って夕陽さんと接して、「この人の言葉がいいな」って漠然と思っていたのだ。

 「じゃあいいけど」と夕陽さんが笑う。眩しい。

「じゃあ、お会計しようか」

「あ、先に荷物だけ持ってきてくれたら。渡したいものがあるので」

「えー今月も? ありがとう!」

「全然です!」

 夕陽さんはたったっと走って、私のトートバッグを持ってきた。底から重みのある箱を取り出す。

「えっと、こんなんにしてみました」

「開けてもいい?」

「どうぞ」

 手渡す。夕陽さんが白い箱を上へ抜いて開けて、目を輝かせる。子供がクリスマスプレゼントを貰う時のような、少し幼さを感じる表情だ。この瞬間が何より嬉しかった。

「わー! ネックレス!」

「ゴールドだと髪の色と混ざっちゃうかなと思って、シルバーにしてみました。どう……ですか?」

「絶対合う!」

 夕陽さんは箱からネックレスを取り出して喉あたりに当て、少し胸を張ってこっちを見た。

「どう? 似合う?」

「めちゃめちゃ似合っとる……」

 あまりにもキラキラしているものだから、私はもう顔全てを手で覆いながら天を仰いでいた。

 カチャカチャという音が聞こえる。多分箱にしまった音だろう。夕陽さんが否定しないから悪いことをしてるわけじゃないと思うけど、他の美容師さんもいる中でいつまでもネックレスにはしゃいでいるわけにはいかない。そういうところに夕陽さんのプロ根性を感じて、それがまた好きなのだった。

「じゃ、今度こそお会計だね」

「はい!」

 トートから財布を取り出して、水槽や観葉植物で彩られたレジの方へ向かった。

「カット料金が高校生で4,000円、指名料込みで締めて5,000円になります! 学生証出せる?」

「すぐ出ます!」

 ちょっとテンパりながらも学生証と千円札5枚を取り出してお会計を済ませた。

「ご利用ありがとうございました」

 出口への階段を上がる最中、夕陽さんが会釈した。私も会釈し返す。すると、手を振ってくれた。私が階段を上がりきって姿が見えなくなるまでずっと。

 美容室の少し重い扉を開ける。がちゃんという音と、鈴の音が鳴る。それを背後に聞きながら、「ああ、今日もいい日だったなあ」と胸をいっぱいにして、息を吐いた。

 まだ張り詰めている体とぽわぽわしている頭を引きずるみたいにして、私は家に帰った。

 骨抜きになった体を引きずることすら、幸せでしょうがなかった。

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