定食屋『春菊』へ、ようこそ!

苔虫

定食屋『春菊』 ~前編~


 その男は、歩いていた。

 明かりの少ない夜道を、ゆっくりと歩いていた。


 まるで亡霊のように歩く男の名は、渡辺わたなべ 幸治こうじ

 どこにでもいる、ただのサラリーマン……だった。


「いきなり、クビって言われても……納得は出来ないよな……」


 いきなり社長室に呼ばれたかと思ったら、会社の機密情報を外部に漏らしただろと言われ、反論する余地を与えられないまま、解雇を告げられた時のことを思い出しながら、幸治は自嘲気味な笑みを浮かべる。


「まぁ、きっとの仕業だろうね……」


 教育係として指導していた一人の部下の事を思い出しながら、幸治は大きなため息をつく。


「しかし、いきなり職を失ったと思ったら、家族まで失うなんてな……」


 乾ききった笑みと共に思い出されるのは、数時間前のこと。


——————


『こちらにサインをして提出しておいてください』

『それと娘は私が育てるので、貴方は今後、関わらないでください』


——————


 リビングに置かれたメモと、離婚届。

 妻の欄は既に書き込まれており、後は自分が埋めて提出すれば、すぐにでも離婚できる状態だった。


「仕事ばかりしていた付けが回ってきたのだろうな」


 ご丁寧なことに家にあった貯金は全て持ち出されており、荷物も自身の物以外はほとんどなくなっていた。

 かなり前から準備されているにもかかわらず、実行されるまで気づけなかった自分は何と間抜けだろうかと笑いながら、幸治は夜道を歩き続ける。


———当たり前の日常だと思っていた。


 会社に行って、仕事をする。

 家に帰って、家族と他愛のない話で盛り上がる。

 それが『当たり前』だと思っていた。


———けど、違った。


「この世界に、『当たり前』はないんだな……」


———この世界は『特別』で出来ていたんだ。


 失って初めて認識した『当たり前』の『特別』を噛みしめながら、幸治はその足を動かし続ける。


 ただ、ひたすらに。


 先の見えなくなった道を、幸治は歩き続ける。


「死んだ方が楽になれるかな……」


 この先の未来に光がないと確信しているが故に漏れ出た呟き。当然、辺りには誰もおらず、その呟きを拾う者はいなかった。


 そんな時だった。


「……あれ? こんなお店、あったかな……?」


 いつの間にか、商店街に足を踏み入れていた幸治の目に映るのは、看板を掲げた定食屋。


 何度も通ってきた商店街に佇む、知らない定食屋。


「せっかくだし、寄って行こうかな……」


 普段であれば気にせず通り過ぎていたであろうが、今日だけは違った。


 このお店を見た時、心を奪われた気がして、気づいた時には定食屋の方へと足を運んでいた。


 そして、幸治は『春菊』と書かれた看板を掲げた定食屋の扉を、ゆっくりと開くのだった。


—————————


「いらっしゃいませ! 一名様でしょうか?」

「あ、はい……」

「では、こちらの席に!」


 十代半ばであろう少女に案内され、幸治はカウンター席に腰を下ろす。


「ご注文はお決まりでしょうか?」

「あ、えっと、じゃあ……生ビールを一つ」

「かしこまりました!」


 正直、今は何を食べても喉を通る気はせず、とりあえず飲み物だけを頼んだ幸治は、店内を見渡す。


 すぐ目の前では、店主らしき若い男が料理に勤しみ、奥のテーブル席では、仕事終わりの集まりなのか、楽しそうに食事をする数人の男女。

 年齢がバラバラなところを見るに、先輩後輩といった人間関係が上手くいっているのだろうな、と思っていると……


「お待たせしました! 生ビールです!」

「あ、どうも……」


 元気いっぱいな声と共に、目の前に満杯の一歩手前まで注がれたジョッキが置かれる。

 とりあえず、飲むか……とジョッキを手に取り、乾いた喉を潤していく。


「ぷはぁあ~」

「いい飲みっぷりですね~!」

「え……?」


 久しぶり飲んだことをあって思わず大きな声を出すと、いつの間にか横に座っていた少女に声をかけられ、幸治は目を点にする。


「あ! すみません! 気にせずどうぞ!」

「あ、あのお仕事はいいの……?」


 娘と同い年ぐらいであろう少女の目の前で、気にせず酒を飲むことなど出来るはずもなく、幸治は方向転換のためにも問いかける。


「大丈夫です! このお店、大して繁盛していないので!」

「そ、そっか……」

「それよりも、お兄さん。何か辛いことでもあったの?」

「ッ……!」


 なんとも反応しづらい答えに曖昧な笑みを浮かべていると、突然、投げかけられた少女の問いかけに、幸治は目を見開く。


「ど、どうして……そう思ったのかな?」

「見れば分かりますよ~」

「そっか……」


 ここは定食屋なのだから、自分ような人間も見てきたのだろうな、と一人思っていると……


「私で良ければ、話を聞かせてくれませんか?」

「え?」

「いや、その……誰かに吐き出せば、すぐに楽になれるかなって……」

「……」


 指をもじもじとさせながら呟く少女。

 その姿に幸治は話してもいいかもしれない、と思ってしまった。


 こんな少女に大人の愚痴を聞かせるのもどうかと考えたが、彼女の言う通り、誰かに話すことで少しは楽になれるかもしれないと思い、幸治は今日あった全ての事を話していった。


 会社をクビになったこと。

 家族に捨てられたこと。


 少女は聞き上手で、幸治は今回の騒動が起きた原因と思われる事も気づけば話していた。


 そして、全てを話し終えると少女は……


「ムキッ―――! なんですか、それ! 幸治さん、絶対に悪くないのに!」

「あははっ、そこまで怒ってくれるとはね……」

「当然ですよ!」


 頬を膨らませ、ぷりぷりと怒るので、幸治は笑みを浮かべる。


「店主! この人にサービスを!」

「はいよ~」

「えっ、そんな! 大丈夫ですよ!」


 少女の言葉に、店主の男は「任せろ」と言わんばかりに新たな料理を作り始めるので、幸治は慌てて止めに入る。


「いいんです! 幸治さんはこれぐらいのサービスを受けるべきです!」

「で、でも……」

「お客さんよー、こういう時は素直に甘えておいた方が何かと得だぜ?」

「そ、そういうことでしたら……お、お願いします」


 しかし、少女だけでなく店主にも気にするなと言われれば断れるわけもなく、幸治は申し訳なそうな顔で二人の厚意を受け取る。


「ほい、ウチの看板料理『春菊のおひたし』だ。召し上がれ」

「あ、ありがとうございます」


 数分もしない内に目の前に置かれた料理に、幸治は箸を伸ばす。


 そして、口に含んだ瞬間———


「ッ!」


 ———あまりの美味しさに幸治は無言で目を見開く。


 おひたしは小学校で習う料理であり、誰でも簡単に出来る料理だ。


 にもかかわらず、今、口にしたおひたしは想像を超えるほどの味であり、幸治は思わず店主の男を見る。


「どうだ? 美味いだろ?」

「は、はい……おひたしがここまで美味しくなるとは……」

「常連にも人気でな、よければまた食べに来てくれ」


 「勿論、その時はお代を貰うがな」と笑顔で言われ、幸治も思わず笑みを返す。


「お! そのおひたし、美味いよな!」

「え、あ、はい……美味しいです」

「だよな! 俺達も初めてここに来た時は驚いたぜ!」


 すると、突然、奥のテーブル席で食事をしていた一人が幸治の隣に座り、肩をバシバシッと力強く叩く。


「どうだ、兄ちゃん? 俺達と一緒に飯でも食おうぜ!」

「え、でも、他の方の迷惑になるのでは……」

「大丈夫大丈夫! 俺達も!」


 男性の言葉に幸治は首を傾げる。


「同じ、ですか?」

「そうそう! ここに初めて来るのは、決まって兄ちゃんみたいな奴なんだよ!」

「私みたいな人……」

「俺もあそこにいる連中も兄ちゃんと同じように、一回は人生はどん底に叩き落とされたんだが、坊主や嬢ちゃんのおかげで今では元気に生きているんだぜ!」


 男性の言葉に、幸治は二人の方へ視線を移す。


「俺は仕事を斡旋しただけだ。あと、坊主は止めろ」

「私も話を聞いただけだし、嬢ちゃん呼びは禁止したよね?」


 口では悪態を付きながらも、その顔は笑っており、気心知れた仲なのだと窺えた。


「幸治さん! せっかくだし、話してみたらどう?」

「そうだな、このガキに話すだけじゃ気持ちは晴れないだろうしな」

「ガキって言うな!」


 少女が店主に食いかかるもあっさりと躱されるのを横目に、幸治は勢いそのままにテーブル席の方へと連れていかれる。


「おっ、何だ? 新しいメンバーか?」

「いいね~最近はおじさんばかりで物足りなかったからね~」

「俺はまだおじさんじゃないぞ!」

「いやいや、アンタはおじさんでしょ?」


 一気に盛り上がる集まりに、幸治は戸惑うも、話していく内に緊張も解け、自然と話すことが出来ていた。

 聞けば、先ほど男性が言っていた通り、ここに集まっているのは何かしら不幸に見舞われており、そんな時にこの店を訪れたのだと言う。


「そんな偶然があるんですね……」

「偶然かは分からないが、俺達みたな奴ほどここに引き寄せられるのかもな」


 そう話し込んでいる内に、話題は幸治の今後について変わっていき……


「兄ちゃん、ウチで働くつもりはあるか?」

「え……?」


 最初に声をかけてくれた男の提案に、幸治は思わずそちらへ視線を集中させる。


「いや、話を聞く限り、兄ちゃんは事務処理に長けているからな。ウチの会社としては、ぜひとも欲しい人材なんだよ」

「なるほど……」

「勿論、兄ちゃんが元の職場に戻りたいならば話は別だが……」

「え、そんな事が出来るのですか?」


 幸治の疑問に、男は「おうよっ!」と力強く頷く。


「あの二人に任せれば、大抵の事は上手くいくからな!」

「定食屋で働いているだけとは思えない程、ツテがあるからね~」

「す、凄いですね……」


 周りの言葉に驚きながら、幸治は考える。


 ―――仮に元いた会社にいて、自分は前のように働けるだろうか

 ―――周りの人間を思わず疑ってしまうのではないだろうか

 ———そもそも、あの職場に自分は戻りたいのだろうか


 様々な要素を鑑みた結果、幸治の出した答えは……


「私で良ければ、ぜひ働かせてください」

「元の職場に戻らないのか?」

「はい。誘っていただきましたし、私も何か新しい事に挑戦したいと思っていたので、皆様が良ければ」

「反対する者などおらんぞ!」


 そう言うと、男は幸治に手を差し出す。


「これから、共に頑張ろう!」

「はい!」


 幸治は力強く答え、その手を握る。


「んじゃ、また来るぜ!」

「今日は本当にありがとうございました!」

「いえいえ! 今後もぜひいらしてください!」


 その後、何杯か追加で酒を飲んだ幸治達は会計を済ませ、店を出ていった。


 遠ざかっていく後ろ姿をある程度、眺め終えた少女は「営業中」と書かれた札を「準備中」に変える。


 店内に戻ると、店主である男が片づけを始めていた。


「札は変えてきたか?」

「うん! それで、どうするの?」


 少女の問いかけに対し、店主の男は「決まっているだろ?」と笑みを浮かべる。


「ぶっ壊すぞ」

「りょうかい!」


 凶悪な笑みと共に告げられた言葉に、少女は元気いっぱいに答えるのだった。

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