名と島

伴美砂都

名と島

 戸嶋さんがわたしのことを嫌いだということを、わたしはうっすら知っている。なぜかというと、きのうわたしが庶務係の城戸さんのところへ行って「テプラのテープがなくなりそうなんです」と注文をお願いしたとき、向かいの席の戸嶋さんが聞こえるか聞こえないかの小さな声で、テプラじゃなくてネームランド、とつぶやいたからだった。城戸さんにはそれは聞こえていなかったようで、あ、ストックもうちょっとあるよ、これがなくなりそうになったら注文するから言って、と親切に答えて、後ろのキャビネットからテープを出してくれた。

 たしかに、それは本当は「ネームランド」だ。本体にも、テープの横にもそう書いてある。調べたら、メーカーがちがうのだそうだ。でもだいたいはテプラと言えば通じるし、まえにほかの人もテプラと呼んでいたような気もする。たぶん、というか絶対、ほかの人がそれをテプラと呼んだところで、戸嶋さんは気にしないだろう。そうやって、ほかの人と同じことをしているはずなのになんでか嫌われてしまうことが、わたしの人生にはしばしばある。

 席に戻るときちらりと伺うと戸嶋さんはもちろんこちらを見ていなくて、きれいに染められた茶色の巻き髪が横顔を隠していた。


 名香なかはま文学館は、しかしこのあたりでは中心市街地といえる名香浜なかはま駅ではなく、そのとなりのとなりの各停しかとまらない駅が最寄りの、地方の小さな文学館だ。地元出身の作家の本や来歴を紹介する常設展と、そのときどきの特集テーマや、各地の文学館での巡回展示を呼んだ企画展をする展示室が一階にあり、二階は図書室になっている。一応県の施設だが運営は財団法人に委託されていて、わたしたち職員はその団体に雇われている。

 事務室には、展示室の横の階段、ふつうにお客さんが使うのと同じ階段を使って二階に上がり、図書室の隣の細い通路の奥の、黒い小さな扉から入る。入り口に近いところには一応カウンターと、打ち合わせ用のテーブルがあって、奥にも応接スペースがひとつある。その隣が館長室。あとはとくに仕切りはなく、平坦な部屋だ。だからか意外と広く感じる。机の塊はふたつあって、ひとつは庶務係と、企画展を担当する学芸一係の島。もうひとつは常設展と図書室の管理を担当する学芸二係の島で、私はこっちだ。会社でもどこでも、机をくっつけた塊のことを、島、と呼ぶのはふしぎだなと思う。でも、言わんとすることはなんとなくわかるし、なんとなくわかるから、そう呼ばれているんだろう。

 出勤したらまず、開館までに展示室をパトロールする。フロアの電気をつけ、床の掃除は業者さんがしてくれるから、ガラスケースが汚れていないかだけ確認して、曇ったりしていれば手の届くところは拭く。上の方は、休館日にこれまた専門の業者さんが入って、大きな脚立を使って掃除してくれる。常設展示室の一角にある、いつも映像を流している機械のスイッチを入れて、いつもどおり流れ始めるか確認する。もう一個、一階のロビーにある、イベント情報なんかを表示するデジタルサイネージのスイッチも入れなければならないのだけれど、こちらは、図書室の電気をつけたりするのとセットで、アルバイトの小西さんか山本さんがしてくれる。

 開館したら、小西さんと山本さんと交代制で受付に座る。私は一応正職員なので、二人より少しだけ時間は少なめで、事務室にいる時間に事務仕事をする。テプラ、じゃないネームランドをよく使うのは、自分の館をはじめ地元のほかの美術館や博物館の図録やパンフレットなどをファイリングするのも二係の仕事だからで、たくさんのファイルの背や表紙にラベルをつけるから、すぐなくなるのだ。


 戸嶋さんは、あいさつもしてくれない。ふたつの机の島は入り口から見るとそれぞれ縦に伸びているようなかたちで、帰るとき、一係の人たちの背後を通る。お先に失礼しますー、と言いながら通るとき、ほかの人たちはパソコンを見ながらでも返事をしてくれるのに、戸嶋さんだけは、たぶん口も動かしていない。

 一係はさすがに企画展示の担当部署だけあって、いつも定時後まで残っている。もちろん常設展にも展示替えはあるのだけれど、二係はまちがいなく一係よりは忙しくなくて、ほぼ定時に帰れる。だから、戸嶋さんがほかの人にも同じようにあいさつをしないのかどうか、知らない。アルバイトの小西さんと山本さんは少し早く帰るからそのときに見ていればわかるよな、といつも思うのに、それぐらいの時間はちょうど閉館の片づけで席を立っているから、いつも見逃す。


 戸嶋さん以外の人には、むしろ好かれているほうだと思う。一係はちょっと微妙だけど戸嶋さん以外には嫌われているまではいかないと思うし、少なくとも二係では係長も小西さんと山本さんも、そして庶務係の係長も城戸さんも、ふつうに親しげに話してくれる。それに、すれ違ったり目が合ったときの感じで、その人がわたしのことを好きか嫌いかは、なんとなくわかる。

 そう思っていたのだけれど、その話をきいた加代はちょっと嫌そうな顔をした。


「もともとそういう人なだけじゃない?」


 名香浜駅の地下街でランチをして、少しだけウインドウショッピングしてからカフェに移動した。加代は大学時代の同級生で、数少ない、いまも二人で遊ぶ友達だ。ちょっとだけ苛立ったような口調だったから、加代にまで嫌われてしまったのかと、ひやっとして黙ってしまった。


「みっこがその人と仲良くなりたいんだったら嫌われてるっぽいとこ直すように努力すればいいし、どうでもいい人なんだったら、ほっとけばよくない?」


 たしかに、そうだよね、と返事をする。そうそう、と加代は頷いて、アイスコーヒーのストローに口をつけた。大学を卒業して二年しか経っていないのに、加代はもう転職を経験している。最初の仕事はすごく大変そうだったし、きっと色々あったのだろう。それに比べれば、わたしなんか卒業してからずっと文学館で、残業もトラブルもほぼ皆無な状態で働いているんだから、まだまだだ。


「人間なんだからどうしても相性あるしさ、みっこは今、ほかの人とはうまくやれてるんだったら、職場なんてそれでいいと思うけど」

「……うん、そうだね」


 大丈夫だよ、と加代は笑う。嫌われてなかったな、とほっとして、もう一度そうだねと言いながらわたしも笑った。


 加代と別れて、電車にゆられながらぼんやり考える。戸嶋さんと仲良くなりたいかどうかと言われると、そういうわけではないような気がした。でも、どうでもいいかというと、そうでもない。YouTubeで怖い話や炎上系の動画をつい見てしまうみたいに、嫌われていると思うとよけい気になってしまうのかもしれない。なんで嫌われているのか、本当に嫌われているのか、どれぐらい嫌われているのか、知りたいような気になってしまう。

 名香浜駅から家に帰るときは、快速でもいい。車窓から、職場のくすみカラーな青色の屋根が見える。周りは喫茶店が一軒、小さい定食屋さんが一軒あるぐらいでほぼ民家だし、館のデザイン的にも浮かないように作られているのか、油断すると見過ごしてしまいそうな屋根だ。敷地内に芝生の敷かれた庭があるので、どちらかというとそっちのほうが目印になるかもしれない。

 土日は交代勤務で、今日も開館している。文学館、というと難しそうなイメージだからか激混みになることはまずないけど、日曜だしそれなりに来館者は多いかも。屋根はすぐ通り過ぎ、景色は流れていった。



 週が明けると新しい企画展の準備が本格化してきたようで、一係はより忙しそうな時期に突入していた。二係は相変わらずだったけれど、企画展に合わせて図書室の特集展示は考えなければならない。図書室はいつも閑散としているが、立派すぎるほどの展示棚があるし、新しい企画展の前に行われる取材や内覧会のときには、えらいひとたちが図書室も回る。展示用のパネルを作るのに時間がかかってしまって、めずらしく少し残業した。

 庶務係長の森田さんが横を通りかかって、酒井さん残ってるの、と声をかけてくれる。


「もう帰りますよ、森田係長も残業ですか?」

「月末だから勤怠管理の事務がね、でももう帰るよ」

「一係の島で残ってるのめずらしいですよねー」

「そうかもね」

「なんか、机のこと島っていうのふしぎじゃないですか?」


 わたしが言うと森田係長は一瞬きょとんとしたあと、たしかにね、と笑った。


「なんか昔からそう言うけどね」

「ですよね、でも島っぽいですよね、だから島って言うんでしょうね」

「そうだねー」


 バックヤードにあるお手洗いに寄ってから帰ろうと一度事務室を出ると、角を曲がった陰になっているところから声が聞こえた。そこは少しくぼんだ人目につかないスポットになっていて、みんな用事で電話したいときなんかはそこを使う。聞こえてきたのは、戸嶋さんの声だった。


「ほんとうるさいし意味わかんないことくちゃくちゃくちゃくちゃ言ってさ、毎回なんか微妙にずれてるし、あれだけの業務量しかないのに残ってる意味もわかんないし」


 あっ、わたしのことだ、と思った。確証はない。そのあとの声は小さくなって聞き取れなかったし、名前を言われたわけでもなかったから。けれど「うるさいし意味わかんないこと」はさっき森田係長に島のことで話していた内容だろうと思ったし、「毎回なんか微妙にずれてる」というのは、きっと図書展示につける解説パネルの内容が、一係が作る展示パネルと微妙にずれているという意味だと思ったし(いつも図書展示のパネルは一係にも確認してもらうが、熱血赤ペン先生ぐらい直されてくる)、「あれだけの業務量しかないのに残ってる」というのは、今日、わたしが残業していることだと思った。「くちゃくちゃ」を二回も言ったのは、それだけ苛立っているという意味だろう。さっき部屋を出たとき席にいなかったのは、戸嶋さんとだれだったっけ。

 しばらく廊下で立ち止まっていると、陰から出てきた戸嶋さんはひとりだった。わたしがにっこりして、できるだけ明るい声で、おつかれさまですー、と言うと、彼女は一瞬だけぎょっとしたような顔をした、ような気がした。


「……おつかれさまです」


 小さな声で言ってスマホの画面をぐっと握るようにロックしながら事務室へ戻って行った。今日は一係は全員出勤していたはずだから、戸嶋さんは電話で、職場の外の人に向かって話していたことになる。加代みたいな友達だろうか、それとも、恋人だろうか。二人っきりで、しっかり目を見て言えばさすがにあいさつしてくれたな、と思いながらお手洗いに向かった。



 城戸さんにもらったテプラのテープがまたラスト一個になったことに気づいたのは、梅雨入りした雨の午後だった。午前中は受付に座っていたけど今日は来館者も少なくて、常連のおじいちゃんが雑談したがるのに少し付き合っただけだ。文学館の常連にはいい人もいるけど、自分の知識をひけらかしたいタイプの人も多い。ほかのお客さんの迷惑になるから特定の人との雑談は控えましょう、と朝礼で通達されたこともあるけど、こっちが切り上げようとしても長々と話してくるんだし、聞いてあげたら満足そうになって帰って行くし、ひまなときはべつにいいんじゃないかな、と思う。口には出さないけど。少しぐらい不満があるのが仕事だしな、とも思うし、それが不満とまでは、わたしは思っていないような気もする。


 外は、室内まで音が聞こえるほど雨が降っているようだった。庶務係のある島へ近づいて行って、城戸さん、すみません、と声をかける。城戸さんは電卓をたたく手を止めて、ほいよ、とこちらを振り向いてくれた。


「あのー、テプラのテープ、またラス一になっちゃいました、発注お願いしてもいいですか?」


 城戸さんが頷いたのと同時に、電話が鳴った。館の代表電話は庶務係の前にある。はい名香の浜文学館です、と電話に出つつ、城戸さんは指でオッケーマークを作ってくれた。


「だからネームランドだって」


 小さな声が聞こえたのはそのときだった。城戸さんは電話の相手に何か頼まれたのか、確認して折り返しますね、と言って電話を切り、書類の入っているキャビネットの方へ行ってしまった。わたしは戸嶋さんのほうを見て、明るい大きな声で言った。


「あ、そうですよねネームランドですよね! まちがえちゃいました、すみませんー!」


 戸嶋さんがバッとこちらを見た。目が合ったので、えへへ、と笑って見せると、彼女はたぶん、ものすごく傷ついたような顔をして、そして、すっと視線を逸らした。



 次の日から戸嶋さんはしばらく休んだ。人がひとり減って、ただでさえ忙しい一係は大変そうだったけれど、学芸員資格をもっている小西さんが受付当番以外は一係専属ということになり、そのあと新しいアルバイトの人が一人来ると、少し落ち着いたようだった。わたしが一係に異動になることはなかったし、なにか手伝いましょうかと二度ほど言ったけれど、やんわり断られた。

 夏が過ぎ、秋が来て、朝礼で館長が、戸嶋さんが十月一日から、同じ財団の経営する、隣の市にある美術館へ移籍するということを告げた。


戸嶋とじまさんはしばらく体調不良でお休みされてましたが、元気に働かれるということなので、安心してくださいね」


 そのとき、わたしは初めて知った。ずっとトシマさんだと思っていた戸嶋さんが、トジマさんだったということに。

 ずっとトシマさんと呼んでしまっていたのに、戸嶋さんは一度も訂正することはなかった。テプラかネームランドかは気にしたのにな、と一瞬思い、でももしかしたら、自分の名前を間違えられていたから、そのことを気にしたのかもしれない。本当のことは、結局、わからないままだ。でも、なんとなくだいたいは、わたしが感じているとおりなんじゃないかな、という気がした。

 わたしが戸嶋さんの名前を間違えていたことを、周りの人、城戸さんすら、教えてはくれなかった。もしかして城戸さんもキドじゃなくてシロトだったりしたらどうしよう、と思って、就職したときもらった職員名簿を掘り出して見た。城戸さんは、キドさんで合っていた。そのことも、戸嶋さんが休み始めるまえの日のことも、わたしは城戸さんに言わなかったし、加代にも言わなかった。

 城戸さんのところへまたテープをもらいに行くと、よく考えたらほとんど二係で使うんだから、箱ごと持って行ってもいいよ、と言われ、受け取った箱にはやっぱりネームランドと書かれている。ネームランドは和訳したら名前と島かな、いや島はランドじゃなくてアイランドだったっけ、と思いながら、自分の島へ戻った。

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