神様と指切り

芦花公園

 思ったより何倍も、何倍も険しい道だった。彼はいつもスーツに革靴で、しかも、ひょろひょろとしている。あの人が登れるのだから、たいしたことはないと思っていた。百聞は一見に如かずとは、こういう時に使う言葉なのかもしれない。私は嫌だな、嫌だな、と思いながら、なんとか自分を奮い立たせる。

 お百度参りだって、こんぴらさんだって、きっと、道が険しくて、辛い思いをして達成するところに意味があるのだ。

 それでも嫌な気持ちは消えない。整備されていない山道はところどころ石が転がっていて、気を抜くと転んだり、足を捻ったりしてしまいそうだ。

 何より一番嫌なのは、道が険しいことではないかもしれない。誰もいないことだ。

 人の気配がない。今にも、動物とか、それよりもっと怖いものが、奥が見えないほど生い茂っている木々の向こうから飛び出してきそうだ。

 聞こえるのは、ぜえぜえ、はあはあという、私の醜い呼吸音だけ。

 私は泣きそうになりながら、山道を登っていく。

『ずーっと登ってくと、大きい、人が十人くらい座れるんやないかっちゅうくらいの平たい石があるんやけどな、その先にあるんよ』

 視界に、それらしきものが入って、私は安心する。

 もう少し、あの先だ。そして、深呼吸をして、目がある一点に吸い寄せられる。

 小さな人が座っている。白いTシャツに、紺色のハーフパンツ。かなり小さな男の子だ。小学生とか、下手したら幼稚園生くらいかもしれない。

 こんなところにも子供は住んでいるのか、と考えて、自分で少し失礼かも、と反省する。私だって、東京とか大阪とかの大都会に住んでいる人から見たら、「こんなところに住んでいるのか」だろう。

 私は石のところまで最後の力を振り絞って登り、

「こんにちは」

 と男の子に声をかける。

 男の子が振り向く。

 息を呑んだ。

 目が美しい。目の前にいる男の子は、私と同じ人間だろう。多分、同じ日本人の。

 でも、なんだか、とんでもない目の色をしている。黒の中に、青とか黄色とか、複雑な色が混じり込んでいて、もしかして、そういうふうに目の色が変わる病気があるのだろうか?

 病気だとしたら、じっと見詰めたりして、私はまた、失礼なことをしているかもしれない。

 私は誤魔化すように、

「天気がええわね」

 と言ってみる。

「夜は雨が降るけん」

 男の子は短く言った。なんだか言い方が、老人のようで少し笑ってしまう。

「ほうなんや。おばさん、天気予報見んかったけん」

「天気の話をしにきたわけやないろう」

「えっ」

 心臓がばくばく言っている。男の子は、恐ろしい色の瞳を私から逸らさない。

「女の人、この先にあるもんを使いに来たんとちがう」

 私は頷いた。そうするしかなかった。

 私の直感は間違っていなかったのだ。

 

 山をたった一人で登って来たさっきの気持ちを思い出す。動物や、それよりもっと怖いもの——この子は……。

「使いに来ちゅうがやろ」

 私はもう一度頷いた。そのとおりだ。私は、使いに来たのだ。

 男の子は、笑顔を見せる。可愛い顔。すごく可愛い。でも、怖い。得体が知れない。

 彼に気を付けろと言われていた。余計なことをするな、そういうものには手を出すな、何も分からないのだから、と。

 その通りだ。私は、間違っていたのかもしれない。でも、どうしても、やらなくてはいけないと思った。誰に止められても、絶対。

「女の人、ちいと俺と遊んでくれんかね」

 この子は、神様かそれに近いものだ、と確信している。こんなに小さいのに、こんな場所に一人でいて、私を待っているみたいに。私が何をやろうとしているのか、何をやるのか、分かっている。

 私が今、お願いを聞いて欲しい、絶対にそうしようと考えている、神様。

 私は頷いた。頷くほかない。神様が遊ぼうと言っているのだから、なんでも。

「ほんな怖がらんでもえいがやない」

「怖がって、ません」

「ほうか」

 男の子はどこからともなく、カードを五枚出した。最近流行っているカードゲームだろうか? とも思ったけれど、どうも違うようだ。男の子はそれを、等間隔に並べた。

「女の人、一枚選んで」

「一枚……」

「深く考えんでえい。さっと一枚」

 深く考えているわけではない。未だに、目の前のあなたが怖いのだ。そんなことは、とても口に出せない。きっと、バレてしまっているだろうけど。

 私は震える手で、右から二番目のカードを指さした。

「裏返して」

 言われた通り裏返す。

 真っ白だった。何も書いていない。

 私はちらちらと、男の子の顔色を窺う。男の子は目をきらきらとさせたまま、深く溜息をついた。冷汗が流れる。何か失礼があったのではないか。無作法があったのではないか。いや、それよりも——何か、間違ったものを選んだのではないか。

「間違ってはおらん」

 私の心を読んで男の子は言う。

「まだ、もう一回じゃ」

 男の子はカードを地面に払落し、また別のカードを五枚並べる。

 何がまだなのか、そんなことを考えている暇はない。男の子は私を急かすように、石の上を指で叩く。

 私は一番右のカードを指さす。そして、裏返す。

 ぎょっとした。異様なものが描いてある。これは、臓器だ。人間の臓器。肺。

「ああ……」

 男の子は呻くように言う。不安が加速する。何か私が言う前に、

「女の人」

「はいっ」

 素っ頓狂な声が出る。私なんかに、何を言おうというんだろう。

「考え直しては、もらえんじゃろうか」

「えっ」

「今、やろうと思ってること。願っていること。女の人が、もう決めているのは分かる。大事なことやちいうんも、分かる。でも、考え直してはもらえんじゃろうか」

 私は頷くべきだ。

 でも、できない。

「それは、神様に……失礼ということですか」

 確かに、私の願いは、我儘なものだ。世界平和とか、そんな素晴らしいことではない。でも、とても大切な願いだ。

「失礼ではない。なんも失礼なことはない。どこにもほんなもんはない」

「じゃあ、お願いします。私は」

「失礼やなくて、無理、なんよ」

「無理……」

「ああ、無理なんよ」

 私は首を横に振る。何度も、何度も。

 そんなわけはないからだ。半端な覚悟できたわけではない。けれど、そんなに大層なこととも思えない。どうして、こんな願い如き、無理なんてことがあるのか。

「無理ってことは、ないでしょう。ねえ? 説明してください、どうして無理なん? どういうことですか」

「ほじゃけん、女の人の旦那さんは、その」

「そんなことっ」

 私は大声で遮る。そんなこと、あるわけがない。なんでそんなことが分かるのか。だって、いつもと同じだ。確かに、帰ってきてすぐ倒れるように眠ってしまったり、ケガをして帰ってきたりすることだってあるけれど、危険な仕事だというのは分かるけれど、でも、いつも、帰って来た。

「無理じゃけん……」

 男の子は小さな声で言った。感じていた威圧感や、恐れがなくなっていく。目を伏せて黙っている彼は、顔がきれいなだけの少年に見える。

 だから、きっと嘘なのだ。騙された、とは思わない。彼は遊んで欲しいと言っていた。だから、私は遊びに付き合った。それだけのことだ。子供の遊び。

「遊びと違いますよ」

 刃物のような鋭さの言葉だった。顔がかあっと熱くなる。

「大人をからかったらいかんよ! 私やって、真剣に」

「ほじゃけん、真剣にやっちょるがです」

 男の子の前に、また、カードが五枚並んでいる。

「もう一度、もう一度やってみるけん。選んでください」

 指先がぶるぶる震える。恐怖からではない。

 指先に、地球が乗っていたら、どう思うだろうか。自分がほんの少しでも間違った動きをしたら、傾いて、どこかで大洪水が起こって、滅びてしまう。

 私はそんな気分だった。選べない。何も、選んではいけない。

「お願いします……もう一度」

 男の子は消え入りそうな声で言う。

 男の子を怒鳴りつけようとしたことを恥じた。からかっているわけはない。嘘だってついていない。だから、こんな顔をするのだ。

 私は、何度も指を出したり、引っ込めたりして、最終的に、真ん中のカードを裏返した。

 簡素な人の絵が描いてあった。その人は大口を開けて、目からぼろぼろと涙を流している。

 うう、と男の子が呻いた。両手の指先を合わせて、何度も何度も振っている。

「私の、願い事は」

「もうし、わけない……」

「私の願い事は……ただ、夫が、無事に帰ってほしい、いうだけなんよ……なんで」

 すらすらと、はっきりと伝えたい。それでも、あふれる涙が、それを邪魔する。

「なんで……なんで、それだけのことが、できんの……」

 なんで、なんで、と私は泣き喚く。男の子は、黙って、悲しそうにそれを見る。どちらが子供か分からない。でも、そんなこと、気にしていられない。分からない。小さいことじゃないか。あの人が、家に帰ってきて、一緒にご飯を食べて、眠る、それだけのことだ。

「あの、場所の仕組み……知っちょりますか」

 男の子は、私が入ろうとしていた場所を指さした。

 夫は、「願いの大穴」と呼んでいた。岩に開いた、ちょうど人がひとり入れるくらいの穴だ。

 私は「知ってます」と言った。この穴の中で真剣に祈れば、神様に聞き入れてもらえる。実際に、願い事が叶った人が沢山いるらしい。

 私の気持ちは真剣なものだ。

 一週間前に、夫は言った。

「大きい仕事が入ったけん、しばらく家を空けるわ」と。

 いつになく真剣な顔だった。

 ただ、私は夫のこういう顔を見たのは初めてではなかったから、大変なんだな、と思っただけだった。

 夫は代々続く拝み屋の一族の一人だ。でも、それはあくまで伝統芸能みたいなものだと思っていた。そもそも、最初に彼と出会ったのは、電気屋で、炊飯器を買おうとしたときだ。店員だった彼は、私のために、熱心に説明してくれた。折れそうなくらい細身で目つきは鋭かったし、色眼鏡をかけていて少し怖い印象だった。でも、だからこそ、その丁寧な対応とのギャップで、本当はすごく優しい人なのかもしれない、と思った。

「タイプやったけん、丁寧に説明したんよ」

 付き合ってから照れ臭そうにそう言われたときは、純粋に嬉しかった。

 私は、電気屋の優しい店員と結婚したのだ。拝み屋と結婚したわけではない。

 彼は、拝み屋のことは隠しておきたいようだった。事実、ずっと隠されていた。初めて彼の実家に挨拶しに行った時、彼は、

「ウチは山岳信仰やけん」とだけ言った。

 美しい花笠も、白装束も、なるほど、そういう伝統を大切にしているおうちなのだな、と思った。彼のご両親もご兄弟も、ごく普通の方々だった。

 二十九歳のとき——なぜ覚えているかというと、その日は、私の誕生日だった。そのとき、私は彼が、伝統芸能としてではなく、本格的に目に見えない恐ろしいものと対峙していることを知った。

 夜七時にケーキを買って帰ってくる予定だった彼は、九時を回っても帰って来なかった。職場に電話をしても、とっくに退社したと言われた。私は、とても腹が立って、彼の実家に電話をした。それで、感情のままに、浮気をしているとか、そんな感じの暴言を吐いた。

「もう少し、待ってやってください。必ず帰る、言うとりますけん」

 絞り出すようなお義母さんの言葉を、何よ言い訳して、としか思わなかった。本当にあの時のことは後悔している。お義母さんは、後日謝った私に、「私たちが言わんかったから悪いんよ」と言ってくれたけれど。

 日付が変わって、空が白くなってから帰宅した彼は、ぼろぼろだった。服は鋏で切れ目を入れたような穴がいくつもあって、メガネはなくしていた。顔に殴られたような痣もあったし、鼻血が出ていた。

「救急車、呼ばなきゃ!」

「いらん」

 彼は玄関に倒れて、そして、私に手招きをした。私が膝をついて顔を寄せると、

「誕生日、おめでとう」

 そう言って、何かを握らせた。真珠でできた花を模したイヤリングだった。

 彼はそのまま寝てしまって、色々な感情がまぜこぜになった私は大泣きした。いくら泣いても彼は起きなかった。

 まる一日寝て、起きて、それから彼は、土下座して謝って、私に事情を説明した。

 世の中には、本当に、科学では説明できないことがあること。そういうことに困らされた人々のために、彼は、彼の一族は拝み屋をしている。滅多にないことだが、今回のように、命の危険があることもやる。

 私は不思議と、疑う気持ちが起きなかった。

 昔から、少しだけ「見える」タイプだったからかもしれない。いや、そうではない。

 私は、彼のことを疑わなかった。彼が嘘を吐くとは思えなかったのだ。浮気を疑ったくせに何を言っているのかと思われるかもしれないが、真剣に、丁寧に話す彼の言葉は、間違いなく真実だと思った。

 そして、素晴らしい仕事だと思った。

 愛している人が危険な目に遭うのは嫌だけれど、困っている人のために戦うなんてまるでスーパーヒーローだ。私はそこから、拝み屋である彼のことも応援しよう、そういう気持ちになった。

 今回だって、大変な仕事だけれど、もしかしたら、ボロ雑巾のようになって帰ってくるかもしれないけれど、一晩寝て、それから好物のカツカレーを食べれば、また元気になる。日常に戻る。絶対にそうなのだ。

「美紀子は関わらんでいいけん。美紀子がおらんくなったら、俺は狂ってしまう。なんも関わらんで、楽しく過ごしとって欲しい」

 彼はいつもそう言っていた。願いの大穴の話も、たしか私が、元同級生からそういうパワースポットの話を聞いて、「私も行ってみようかしら」と言ったら、「あそこは本物やけ、行ってはいかん」と言われた。「本物のとこは、なんかしら取られてしまうけん」そういうふうに。

 私は、今回、彼が真剣な顔をして出かけたから、お気に入りのジッポさえ置いて行ったから、頼ろうと考えた。本物ならば、叶えてくれるだろうと。彼が、何事もなく、無事で帰ってくることを。

「本当に……無理なん? 贅沢は言わんよ。ケガが、ちょぴっと軽くなるとか、そんな……」

「命がなくなる」

 男の子は、はっきりと言った。錯乱した私でも、分かるくらい、シンプルな言葉で。

「それは……」

「死ぬ」

 体の力が抜けて、上体を起こしていられなくなる。倒れ込む。石は冷たくて、体の芯まで冷える。

「申し訳ない、ことやけど……」

 男の子はぶつぶつと何かを言っている。

 彼と同じだ。私は、彼を信じたように、男の子のことも、信じる。嘘を言っていない。

 命がなくなる。

 死ぬ。

 あの、鋭い目も、すっと通った鼻も、いつも少し右端だけ上がっている口も、細い体も、繊細な指も、くしゃくしゃの髪も、少し嗄れた甘い声も、夜に分けてくれる暖かさも、全部、全部、なくなる。

 私は、何と言ったっけ。

 彼が、家を出る時、行ってらっしゃいと、手を振って、それだけだった。なんで、それだけのことしかできなかったのか。どうして。なんで。

 私は自分で自分の頬を触る。汗で、べたついているのに、冷たくて気持ちが悪い。水仕事のせいで、指先もガサガサで。彼は私の丸い顔を、可愛いと言ってよく撫でた。いい年をして子供もいなくて、恋人みたいな夫婦だと言われていた。私は彼のことが好きだった。彼も、きっと。

 彼の言葉を思い出す。

 色々な言葉を、たくさんたくさん。

 涙で視界が歪む。歪んだ視界の先に、あの大穴が映る。

 彼は言っていた。あそこは本物。本物なのに、どうしてお願いを聞いてくれないのか。こんな些細な、ずっと一緒にいたいというだけの——

 そこで、やっと気付いた。お願いを聞いてもらえないのは、当たり前だ。

 私は、お願いを聞いてもらうのに必要なことをしていないのだ。

 私は体を起こした。

「もう一度やってください」

 男の子は驚いたように私の顔を見る。

「お願い。どうしても、諦められないんよ。お願いします」

 何度もお願いします、と言うと、男の子は苦しそうな顔をして、五枚のカードを並べた。

「女の人」

「お願いします」

 彼の言葉を遮って私は左端のカードを裏返して言った。

「私の命をあげるので、あの人を無事に帰してください」

「ああああっ」

 男の子が叫ぶのと、私の口から血が噴き出したのは同時だった。同時だから、何もできないだろうと思った。少しだけ、得意な気持ちですらあった。

 私はもう一度、ゆっくりと倒れ込む。さっきから何も変わっていないのに、なぜだか暖かい。

 それは、願いが叶ったということの証明かもしれない。

 彼は言った。

 

 私は間違っていたのだ。軽い気持ちだったと言わざるを得ない。タダで願いを叶えてもらおうなんて、烏滸がましい。神社だって、賽銭を入れるのに。

 人の命は平等だ。だから、私の命で、彼の命は補える。

「ちがうっ」

 男の子は叫ぶように言った。

「ちがう、同じやない、ほういうのとちがう、あんたの命を渡しても、無理なんや! 足らんのや! いかんいかん、いかん、どがいしたら」

 男の子は、必死で何かを唱えている。おんころころせんだり——そんな感じの、かわいらしい呪文を、かわいらしい声で。

 ふと、右手を見る。私はこんな状態なのに、カードを握っている。

 猿の絵だ。金色の猿が描かれている。

「ねえ」

 私は男の子に話しかける。

「でも、私、死んでしまうわけでしょう」

 男の子はきらきらした目から、ぼろぼろと涙を流している。頷けばいいのに、優しい子だ。

「ほやったら、私の命のぶん、どうにかならんと、それは、おかしいですよねえ」

 男の子の顔が、ぼやける。あんなに美しい瞳も、段々見えなくなってしまう。耳だって聞こえない。男の子が何を言っているのか知らない。でも、口は動くから、止まってしまうまで、話し続ける。

「ねえ、あなた、私の命の分、どうにかしてね、約束やけん」

 私は信じている。あの人のことを。神様を。

「約束やけんね」

 







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