メガロドンを待ちわびて

真狩海斗

🦈

 🦈【プロローグ】

 雪が舞う北の海で、一匹のサメの死骸が見つかった。漆黒に塗りつぶされた海上に揺蕩う骸は、"死"を具現化したように寒々とした空虚な白となっていた。

 容赦なく荒れ狂う波に揉まれ、数多の岩礁に削られたその巨体には無数の傷が痛ましく刻まれていた。屍の腹部は縦に大きく引き裂かれ、溢れ出す臓物を押しとどめることができない。飛び出る臓器はいずれも色を失い、プラプラと繋がる細い腸が羽虫の魂のように頼りなく揺れていた。夥しい血と、腸から漏れた糞便の混じった悪臭が周囲に広がり、海全体に死を色濃く伝えていた。


 目撃者によれば、サメはクジラに一騎打ちを挑んだそうだ。大柄なサメとはいえ、クジラが相手では格が違う。

 サメは命を燃やし切るように猛烈に攻め続けた。頭を打たれれば鼻先を囓り、尾ビレに弾かれればヒレを抉る。眼球を潰され、骨を砕かれ、ヒレを千切られても、サメは攻撃を止めなかった。何かを証明するかのような、何かを取り戻そうとするような、凄まじい猛攻だったという。

 互いの血で血を洗う壮絶な死闘の末、サメは斃れた。しかし、勝者にも歓喜はなかった。苦悶に喘ぐクジラの咆哮は、遠い遠い海まで響き、海面に不穏な波を立てていた。


 サメの頭部には、生来のものであろう痣があった。大きな十字の痣。

 聖なる刻印のようにも、全てを否定するバツ印のようにも映った。


 🦈【現在】

 あれから1年が経った。

 ボクは、ブラドの居ない海を泳ぎ続ける。

 ボクも少し大きくなったけど、海はまだ恐ろしく、1人では心細い。ブラドならどうしただろう。ブラドなら。ブラドがいれば。

 今でも、泳ぐ先にブラドの幻を見てしまう。あの圧倒的な海の王者を。

 

 海面が眩しい。太陽の光につられ、ボクは上昇する。

 水泡がフワフワと浮かび、陽光を反射する。泡は燦々と、彩り豊かに煌めき、ボクとブラドの蒼い日々を儚く映し出す。

 水泡が一粒弾けるたびに、ボクの脳裏にあの頃の思い出が鮮烈に蘇り、そして、消えた。

 

 一際大きな泡が限界まで膨らみ、パンと割れる。


 🦈【過去】

 あの日、ボクは初対面のサメに因縁をつけられていた。小突かれ、叩かれ、凄まれた。

 気が弱く、目立つ外見のボクは格好の的で、そうした面倒は毎日のことだった。

 ただ、その日のサメの執着は異常で、ボクも死を覚悟していた。


 意識が薄れゆく中、ボクの視界に大きなバツ印が飛び込んだ。ああ、ボクの運命を否定しにきたんだ。そう思った。

 しかし、十字が罰を与えたのは、ボクではなかった。

 十字の痣は徐々に近づき、輪郭をはっきりさせると、巨大なサメの一部となった。それがブラドを見た最初だった。

 ブラドは口を大きく開けた。真っ赤な口の中では、殺意をたぎらせた牙が整然と並んでいた。その牙の一つ一つが、ボクをいたぶるサメに突き刺さった。一瞬で喉笛を噛みちぎり、屠り殺した。断末魔の悲鳴を上げる暇もなく、サメは沈んでいった。ブラドは見おろし、吐き捨てた。


「弱いものイジメしてんじゃねぇよ。みっともねぇなあ。お前も気ぃつけて帰れよ」


 一瞬で凶悪サメを倒す戦闘力。荒っぽい口調。ぶっきらぼうな態度。全てが格好良すぎた。気づけばボクは、去りゆく彼に声をかけていた。


「あの…弟子にしてください!!」


「はぁ!?」

 

 🦈【過去】

「お前、名前は?」

 ブラドがしゃがれた声で尋ねた。


 ボクに名前はなかった。親も兄弟もいなかった。「おい」とか「お前」と呼ばれ、暴力を浴びる日々。

 ボクが黙り込むと、ブラドはヒレで頭を掻いていた。嫌われたかもしれない。涙で視界が歪んだ。ブラドが口を開いた。


「じゃあ、俺が名付けてやる。これから、お前はシロだ」


「シロ?」


「最初にお前を見たときに、その体の白が印象的だった。だから、シロ。

 シンプルでいいだろ?」


 シロ…。シロ。シロ!!

 初めてもらった名前だ。何度も心の中で繰り返した。喜びを抑えられず、無意識に尾ビレが揺れていた。


 はしゃぐボクを見て、ブラドはクックッと笑った。


「喜んでくれるのはいいが。

 俺は足手まといはすぐに捨てるぞ?弱い奴は要らないんだ」


 🦈【過去】

 ブラドと一緒に過ごしてすぐにわかった。ブラドは本当に強い。

 売られた喧嘩は片っ端から買い漁った。戦闘の愉悦を味わうと、相手に死でお返ししていた。

 相手が巨大なイカでも、サメ軍団でも、圧倒的に勝利していた。

 どの魚も、ブラドの名を聞くだけで震え上がった。


「ブラドは、どうしてそんなに強いの?

 どこまで強くなるの?」


 ボクの質問に、ブラドが「うーん」と眉を顰めた。考えるときのブラドの癖だ。口元は返り血で赤く染まっていた。


「生まれつきだな。あまり考えたことはない。

 ただ、目指す先はある」


「目指す先?」


「"メガロドン"って知ってるか?」


「メガロドン……?」


「何百万年も前にいたバカデカいサメさ。

 俺にとっての神様みたいなもんだな。

 本当に凄いんだぜ!

 クジラどもを餌にする程デカかったって話だ。格好いいよな」


「凄い!あのクジラを」

 信じられない話だった。でも、ブラドがいうなら本当なんだろう。


「だからよ。メガロドンが俺の目指す先さ」


「うん。ブラドならきっとなれるよ」


 絶対になれると確信していた。ブラドは最強なんだ。


 🦈【過去】

 メガロドン以外にも、ブラドは色んな話をしてくれた。

 ウニは食べることができて意外と旨いこと。

 カニは脱皮して大きくなっていること。

 海底に沈んだ都市のこと。


 ボクはブラドの話を聞くのが大好きだった。物知りで、ボクの知らない世界をたくさん教えてくれる。

 いつか、色んな海をブラドと泳ぐのが夢だった。


 ある日、話し終えたブラドが、照れ臭そうにポツリと漏らした。


「俺は、弱い奴はいつだって捨ててきたんだ。弱い奴に価値はないし、邪魔だからな。

 でも、なぜだろうな。

 シロといるのは不思議と嫌じゃないんだ」


 たまらなく嬉しかった。そして、改めて決意した。ボクも強くなるんだ。最強のブラドの側に、いつまでも居られるように。


 🦈【過去】

「ごめん。遅くなって」


 ボクは、息も絶え絶えに謝った。

 ボクはブラドと違い、泳ぎが下手だった。すぐ苦しくなってしまうのだ。

 役立たず。このままでは、ブラドに捨てられる。焦りから、無自覚のうちに下唇を強く噛んでいた。


「ブラドは、すごい速さで泳ぎ続けられるし、血の匂いで獲物を見つけることだってできるのに。ブラドみたいになりたいのに」


「まあ、俺が泳ぎ続けられるのは体質みたいなもんだ。気にすんな。

 泳ぎを止めると、逆にしんどい。

 それより……」


「それより?」


「シロは、俺と尾ビレの形が違うだろ?

 俺の真似をするのをやめたらどうだ。

 つまり、横じゃなくて、縦に振る」


「縦?」


 ブラドが頷いた。

 試しに尾ビレを縦に振ってみた。慣れない動きに、身体はバランスを崩した。


 泳ごうとすると、自然とブラドの姿が頭に浮かんだ。いつも後ろで見ていたブラドの姿は強く逞しく、うっとりするほどに堂々としていた。ボクの一生の憧れだった。


 目を瞑り、何度も、何度も、尾ビレを縦に振った。脳内ではブラドが僕の前を泳ぎ続けていた。しかし、それは徐々に薄くなり、やがて、消えた。

 突如、ボクの全身に爆発的な圧がかかった。皮膚がピンと張り、端々がブルブルと震えた。肉体が前方に猛烈な勢いで引っ張られたのだ。


 何が起きたんだ。必死で辺りを見回した。ボクと衝突したのか。小魚の群れが死骸となって浮かんでいた。

 振り返ると、遠く向こうにブラドの姿が見えた。とても小さくなっていた。


「凄い!一瞬でこんなに遠くまで来たよ!」


 ブラドは教えるのも上手かった。凄い。

 速く泳げるようになったら、ボクは足手まといじゃなくなるだろうか。ブラドも喜んでくれただろうか。


 ブラドがヒレを振り返してくれた。その表情は、よく見えなかった。


 🦈【過去】

 ボクは速く泳げるようになった。

 それから随分と経つのに、ブラドはまだボクに合わせて泳ぐ速度を落としてくれていた。

 そんな気遣い無用だった。せっかく速くなったのに、これじゃあ役立たずのままだ。ブラドを安心させないと。


 ボクは「よし」と呟くと、本気で尾ビレを振った。急加速し、一瞬でブラドを追い抜いた。


 ボクは、後方のブラドに笑顔を向けた。

「ほら見て、ブラド。ボクはもう速く泳げるよ」

 だから、ブラドも遠慮しなくて大丈夫だよ。そう伝えたつもりだった。


 ブラドは長く沈黙し、ゆっくりと口を開いた。腹を抉られ、重い異物を捻じ込まれたときのような不自然に明るい声だった。

「そうだな。シロは凄いな」


 🦈【過去】

 いつしかブラドは、考え込むことが増えた。眉間に皺が寄るからすぐにわかるのだ。暫くボンヤリしたあとで、ボクに尋ねた。


「俺はシロと一緒にいて良いのか?」


「それはブラド次第じゃないの?」

 どういう意図だったのだろう。ボクの様な役立たずを見捨てないのはブラドの気まぐれじゃないか。

 ブラドは「そうだな」と短く返すと、また思索に耽った。


🦈【過去】

 ある日、ブラドが唐突に告げた。

「南のサメ連中に喧嘩を売られていただろう?あの喧嘩買うことにした」


「危ないよ!ボクも行く!いっしょに戦う」


 ブラドは首を横に振った。何日も前から決めていたのだろう。語気の強さに、決心の固さが現れていた。


「俺が1人で行く。お前の中でだけは最強であり続けたいんだ」


 何を言っているのかわからなかった。ブラドはいつだって最強なのに。


 🦈【過去】

 結局、ブラドは1人で向かった。ブラドは「安心しろ」と言ったけど、ボクは落ち着かなかった。


 南のサメ連中は数が多い。ブラドは最強だけど、最近はボンヤリしていた。運が悪ければ深手を負うかもしれない。


 今のボクなら一緒に戦えるのに。これじゃあ役立たずのまんまだ。


「ブラド。待ってて」


 ボクは尾ビレを力いっぱい振り、ブラドめがけて一直線に進んだ。


 🦈【過去】

 ようやく見つけたブラドは、苦戦していた。

 ブラド1匹に対し、南のサメ連中は20を優に超えている。サメは基本的に群れない筈なのに。


「ブラド!」


 ボクは叫ぶと、ブラドを襲うサメに突進した。


 ブラドは、ボクを救ってくれた。ずっと守ってくれた。

 目立つ外見をしたボクを。

 息が続かず、泳ぎ続けられないボクを。

 尾ビレが縦でなく、横向きのボクを。

 黒と白の2色のボクを。

 今度は、ボクがブラドを守る番だ。


 ボクとぶつかると、サメの骨は嫌な音を立てて砕けた。悲鳴もあげずサメは沈んでいった。


 ブラドは信じられないものを見たように、目を大きく見開いていた。


「来たのか」


「ごめん。遅くなって」


 ボクは謝罪を口にした。誇らしくもあった。


 🦈【過去】

 南のサメ連中の死骸が山となっていた。


「全員やっつけたね」


 ブラドから返事はなかった。自分で噛んだのだろう。ブラドの下唇から、血が滴り落ちていた。


「なぜ来た?」


「ボクも強くなったから。ブラドを助けようと」


「そんなこと、俺が頼んだか?」


 海底の火山が動くような、静けさと怒りの混じる声だった。


「ブラドみたいになりたかったから。

 ブラドみたいに最強になりたかったんだ。

 ブラドが言ったんだよ?弱い奴は邪魔だって。

 だから……だからボクは強くなったんだ!」


 ブラドへの憧れをすべてぶつけた。認めてもらえただろうか。


 ブラドは狂ったように笑った。


「ハッハッ…そうだよな。弱い奴は邪魔だよな。わかるよ。

 シロは、最強だ。

 だから、俺がシロと一緒に居続けるために……。

 俺が最強に戻らないといけないんだ」


 ブラドは強く言い切ると、ボクに背を向け、激しく尾ビレを揺らして去っていった。


「ブラド!」


 声をかけたが、ボクは一歩も動けなかった。なぜだろう。追いつけるスピードではあった。でも、絶対に追いついてはいけない予感がした。


 それがブラドを見た最後だった。


 🦈【現在】

 十字の痣のサメの死骸を見たとき、すぐにわかった。アレはブラドだ。

 でも、ブラドは死んでいない。


 カニは脱皮して大きくなる。

 ブラドも脱皮しただけだ。

 いつかメガロドンになって戻ってくる。


 メガロドンになったブラドに、どうやって見つけてもらおう。

 ブラドは血の臭いを察知するのが得意だった。血が必要だ。

 メガロドンなら、沢山の血が必要なんだろうな。


 そして、再会したブラドの足手まといにならないために、ボクはもっと強くなるんだ。

 最近では"冥界の魔物"と呼ばれることも増えた。でも、これじゃあブラドにはまだまだ及ばない。


 今日もボクは無数の死骸で埋め尽くされた真っ赤な血の海を泳ぐ。メガロドンを待ちわびて。

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