正義の勇者
激しく揺れる洞窟内。ギルバートの叫びが落石の音にかき消されていく。ルークはノアに覆い被さったまま地震が収まるのを待った。石が体を打つ痛みに目を瞑りひたすら耐える。
目蓋の向こうには、洞窟の発する緑色の光。それは忌むべき邪神の魔力を感じさせるが、何故かどこか愛おしく……ノアに似ている、とルークは思った。
一見すると地味な彼女の黒い瞳。太陽に照らされた時、その奥に淡い緑色が不思議に輝くことを、一体何人が気付いているだろうか。誰も気付いていなければいい。世界中から隠しておきたい、自分だけの物にしておきたいあの色。ルークは胸元の温もりを抱きしめる。
出会った時、ルークにとってノアは有象無象。その他大勢の内の一人でしかなかった。妙に肝が据わり、やけに丈夫で、少し変わっているだけの一人。旅の共に治癒士を欲していたルークは、仲間になりたいというノアを受け入れた。ノアは謙遜するがその治癒術の腕は実践で充分役立つものだ。ノアにそれを教えたという兄は、さぞ優秀な師だったのだろう。
……役に立つから傍に置いていただけ。それだけだった彼女が、いつからこんなにも特別になってしまったのか。それはルーク自身にもはっきりとは分からない。きっと明確なきっかけなどなく、ただジワジワと、彼女という存在が自分の中に浸食していったのだ。
(ノア……)
緑の光が、よく晴れた日の木漏れ日のように、優しく揺れる。それはルークを穏やかな追想に誘った。
――まだマラカ洞窟から遠く離れた、大きな街での昼下がり。ルーク達は別行動をとっていた。武具の調整に訪れた武器屋を出たところで、旅に付き纏ってくるレイラに絡まれ、どうにか撒いたルーク。ギルバートとノアとの待ち合わせまでにはまだ少し時間がある。暇潰しが苦手なルークがどう過ごすか思案していると、ノアに遭遇した。
その日はよく晴れた日で、暑さにやられたのか少し具合悪そうにしているノアを、ルークは目に付いた店に連れて行った。そこは軽い飲食物を提供している小さな喫茶店。客はルーク達以外誰もおらず、店主の老婦人はカウンターの奥で猫を撫でていた。二つしかない席はどちらも窓に面していたが、外に植えられた木が日除けになっており、少し涼しい。柔らかく心地よい木漏れ日がテーブルに光の珠を描いていた。
二人は店主に勧められるまま氷菓なるものを注文した。ガラスの器の上に、削られた氷を山盛りにして、その上からやけに色鮮やかで甘い汁をかけたもの。城下町で子供が食べているのを見たことはあったが、ルーク自身は初めてだった。派手な見た目にも臆さず口にするノアに倣い、ルークも探り探り味わう。それは暑い日にはピッタリの美味な菓子だったが、時々頭にキーンと響いた。眉間に皺を寄せこめかみを押さえるルークを見て、同じポーズのノアは楽しそうにした。
『何だかこうしてると平和ですね。……全部夢で、邪神なんて居なかったみたい』
ノアは旅の途中で弱音を漏らすことは無かった。だからそれは現実逃避をしているのとは違う。平和な世界を垣間見て、身の振り方に戸惑っているように見えた。平和だったらノアはどう生きるのだろう? ルークは自分らしくないその疑問を口にすべきか悩む。先に問いかけたのはノアだった。
『あの、ルークさん。邪神を退治し終えたら、ルークさんは何がしたいですか?』
『……国に帰り、己がすべき事をするだけだ』
『すべきこと?』
『女神レセネの教えに準じ、帝国の為に剣を振るう。平和を脅かすものは邪神だけではないからな』
『はあ、ルークさんらしいですね。すべきことの他に、したいことはないんですか?』
『どういう意味だ?』
『例えばギルは、この戦いが終わったら……英雄の名誉を振り翳して美女を侍らせ酒池肉林! とか言ってましたよ』
ぐっ、とルークは喉を詰まらせた。咽る彼にノアは慌てて水を差し出す。
『大丈夫ですか?』
『あ、あいつは子供に何を教えているんだ』
『酒池肉林って言葉に“そういう意味”は無いらしいですけどね。あと僕は子供じゃないですってば。ルークさんと三つしか変わらないんですよ』
テーブルの上、コップの形に丸く残った水の跡を指でなぞるノアは、まだあどけない少年に見えた。しかしノアの持つ独特な穏やかさと静けさは、達観した大人に見せることもある。
『ノア、お前は何がしたいんだ? 復讐を終えた後は』
『えっと……何しよう』
『人に訊いておきながら答えられないのか』
『思い付いたら、ルークさんに一番に教えますね』
ノアは小さく笑み窓の外に目をやった。遠い瞳は早速、自身の答えを探しているのかもしれない。木漏れ日に透き通り、昼下がりに溶ける黒髪。ルークがじっと見ていると、ノアはポカンと気の抜けた顔で『なんですか?』と首を傾げた。ルークは眩しそうに目を細め……吹き出す。ちらりと見えたノアの舌が氷菓の色に染まっていたからだ。平和を凝縮したみたいなノアに思わず気が緩む。
『お前っ……舌の色が凄いことになってるぞ』
『へっ? なん……』
ノアは驚きで目を丸くした後――食い入るようにルークを見つめた。ルークは不思議に思ったが、そう言えばノアの前で笑ったのは初めてかもしれないと気付く。そもそも最後に笑ったのはいつだったか。
『あ! ルークさんだって。舌が真っ青!』
陽だまりみたいに、穏やかで暖かいノア。いつからかノアが戦場で傷付く度、ルークは激しい痛みを覚えるようになった。
力ある者には弱き者を守る義務がある。
ルークは物心付いた頃より、厳格な父からそう教えられて育ってきた。女神の教えに忠実に。正義を貫き、帝国を守ることが宿命。ルークは自分の事を剣そのものだと思っている。正義に反するものを排し民を守る道具。……その道具を、身を挺して守るノア。傷だらけになりながらルークを案じ、無事だと分かると安堵に顔を緩ませる、弱く強い者。
半年前に怪我をしたノアを手当てした時、ノアの隠された性別に気付いたルークは――心臓が止まりそうだった。
自分より遥かに小さな体の非力な少女。それなのに、躊躇なく自分の為に命を投げ出すノア。彼女の儚さ、いじらしさに、ルークの蓋をしていた感情が溢れる。恐らくはずっと前から芽生えていたそれが、一種の正当性を得て、表に引きずり出されてしまった。
ルークは人々ではなく……“ノア”を守りたいと思ってしまった。
大衆に紛れていた彼女が、たった一人の特別になる。丸い輪郭、笑うと出来るえくぼ。考え事をする時に鼻の頭を撫でる癖。懸命に低い声で話すが、驚いた時に出てくる少女の声。一人の時に遠くを見つめている瞳。その瞳に自分が映ると苦しかった。幸福だった。彼女が、愛おしかった。
どうすればノアは、無茶をしなくなる?
どうすればノアに、頼ってもらえる?
どうすればノアを、守れる?
ルークは初めて自分自身の感情で、強さを求めるようになった。
いよいよマラカ洞窟手前の町に着くというある晩、ルークは夢を見る。それはまだ見ぬ洞窟でノアが命を落とす夢。鮮明なその悪夢は女神が見せる予知夢か、単なる妄想か。どちらにしろその夢にルークは囚われた。
だから彼女を手放したのだ。団を追い出したのだ。自分の傍に居ては、自分を守るために彼女が死んでしまうと思ったから。
優しく美しい夢が終わり、悲しい現実が目を覚ます。いつの間にか洞窟の揺れは収まっていた。ルークが目を開けると、そこには冷たく自分を見下ろしている少女が居る。
「ノア……」
「貴様は随分とこの娘に執着があるようだな。個に懸想するとは、人間は孤独で愚かなものだ」
ノアのものではない言葉にルークは絶望する。ギルバートと対峙した時、一瞬だけ彼女が自我を取り戻したように見えたが、あれは夢だったのだろうか? ルークは勇者の矜持も捨て邪神に懇願する。
「彼女を……ノアを返してくれ」
「返すだと? 笑わせるな。この娘はお前のものでも――この娘のものでもない。これは元々我のものだったのだ。持ち主の元に返って来た。それだけのこと」
「何を訳の分からない事を言って……ぐっ、」
声を荒げるルークの喉を、少女の手が掴む。少女は苦しみに歪むルークの顔を見て口角を吊り上げた。
「驕るな、人間。お前達に知る権利などない」
「……ノア」
「まだその名で呼ぶか。そんなにこの娘の傍に居たいなら、我の器の一つに迎えてやっても良かったのだが……お前からはあの忌々しい女神の気を感じる。女神の息のかかった人間は要らぬ」
少女はルークを乱暴に突き飛ばす。壁に背中を打ち付け呻くルークの首横に、スッと冷たい剣が添えられた。
「ここで死んでもらおう、人間の勇者よ」
明確な殺意、憎悪。ルークの頭の中で“戦え! 戦え! ”と誰かが叫ぶ。それは父か、皇帝か、自分が守ってきた民達か……女神か。腰の剣が疼くものの、ルークがそれを手に取ることは無かった。
『ルークさんは何がしたいですか?』
あの日のノアの問い。何がしたいのかはまだ分からない。だが少なくとも、今剣を取った先にそれが見つかることは無いと思った。ルークはもう一度夢を見ようと目を閉じる。
……死の瞬間の時間が遅く感じられるとは、よく聞く話だ。しかしそれにしても、あまりに長い。いつまでも訪れない衝撃。不思議に思ったルークが目を開けると、少女の瞳から一筋の涙が流れていた。それもまた見たことの無い彼女の表情だが、一目でノア本人だと分かり、ルークは息を呑む。
ノアはルークから剣を引くと、祈るように胸の前で掲げた。祭事を思わせる神聖な光景に、動けず見入るルークの前で、ノアは長い刀身を素手で掴み刃先を自らの胸に向ける。ルークはようやく彼女の行動の意味に気付いた。
「ノア、やめろ、剣を捨てろ!」
「ルークさん、ごめんなさい。僕、とんでもないことを」
「落ち着け、お前は操られていただけだ。何も悪くない!」
「違うんです。僕は……」
ノアは何か言いかけ、目を伏せる。苦しいだけの真実など話す必要はないだろう。知られたくもない。
気を抜けばもう一度ルークに剣を向けそうなその手を、ノアは必死に抑え付ける。せめぎ合う二つの精神。自分の中に居るもう一人の自分。そいつから彼を守らなければならない。
「僕が生きていたらあなたに危険が及びます。そんな顔しないで。大丈夫ですよ……死ぬ覚悟なら、とっくに出来てますから」
弱々しいその笑顔に、赤が散る。頼りない体がぐらりと傾く。彼女の体が地面に落ちる前に、ルークの腕が受け止めた。
「ノア……ノア! しっかりしろ! 死ぬな!」
「……ルーク、さ、」
ノアはルークの顔を見て、三月前に怪我をした自分を叱責した、あの厳しい表情の訳をようやく理解した。あの時彼は、ノアの弱さに失望していたのではない。ただ心配し悲しんでくれていたのだ。その真相は死にゆくノアの心を穏やかにしてくれた。ノアは幸福な気持ちに包まれ、命を終える。
「ノア、駄目だ、目を開けてくれ、ノア!」
ルークの叫びが洞窟に木霊した。
昨晩まで普通に、自分の傍で過ごしていた少女。もう目が合うことも、声を聞くことさえ叶わない。こんなことなら突き離して傷付けなければよかった。仲間に黙って、勇者の務めを放棄して、彼女を連れてどこへでも行ってしまえばよかった。――ルークは兜を脱ぎ、残る温もりに縋るよう顔を埋める。……その時、彼の目の前に淡い光が輝いた。
ノアの胸の傷口から、緑色の光の線が現れる。一本、また一本。それは刺さっていた剣を押し退け、ルークに向かって伸びてきた。その光の触手が何であるかをルークはよく知っている。この旅で嫌と言う程目にしてきたのだ。他生物に寄生し、命を吸い糧とする、恐ろしく悍ましい邪神の姿。
しかしノアの体から出てくるそれには嫌な気がしない。ルークは抵抗することなく、それに包まれる。光の中はあの昼下がりの続きのように眩しかった。
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