第4話

『明日なんて来なければいい』


 ずっと前、まだ小学校に上がったばかりの頃だっただろうか。家に晶子おばさんと一緒に遊びに来ていた裕が、唐突にぽつりと呟いた。

 世間話をしにきただけだったし、もう夕方に差し掛かっていたから、晶子おばさんが帰る支度をしているのを見て思わず言ってしまった、そんな拗ねた顔をしていたのを思い出す。


『どうして?』

『だって、毎日どれだけ早起きしても、おとうさんとおかあさんは帰ってこない。おばちゃんが毎日おいしいごはん作ってくれるし、ここに来れば美織と遊べるけど、それは別の話じゃん。だったら、明日なんて来ないほうがいいよ』


 裕の両親は、小学校に入学する二年ほど前に交通事故で亡くなった。後ろから煽ってきた暴走車のせいでハンドルを誤った車を避けきれず、トンネルの入り口に衝突した、完全に巻き込まれた不運な事故だった。


 きっと当時の彼は、眠って起きたらまた誰かいなくなっているんじゃないかと、毎日不安を抱えていたはずだ。


 そこまで考えられなかった私は、彼になんて答えたんだっけ?


 ◇


 懐かしい夢で目が覚めた私は、時計の針が朝の八時を指していてドキッとした。

 本来であれば出かける準備をして、電車に乗らなければならない。一人暮らしのアパートから駅までは自転車で十五分はかかるのだ。

 遅刻だけはと、バッと状態を起こして部屋を見渡す。そしてクローゼットの前にかかった制服を見て溜息をついた。


 そうだった、昨日から五年前に戻っていたんだ……。


 制服に着替えてリビングに降りていくと、炊き立ての白米をよそう母と新聞を読みながら煎茶をすする父の姿をみて安堵する。


「あら、おはよう。早かったわね」

「あ……う、うん」

「美織の分も準備するから、座って待ってて」


 そう言って母が父の前に食事を並べると、慌ただしくキッチンに戻る。

 久しぶりに過ごす実家が五年前になるなんて、誰が想像できただろう。それでも相変わらず母はバタバタしているし、父は興味なさそうな顔をしている。


「今日から自由登校じゃなかったのか?」


 新聞から目を向けたまま、父が問う。


「うん。卒業式まではそうだよ」

「でも制服を着ているってことは、行くんでしょ?」

「行くよ。図書室で勉強してくる」


 本来であれば登校しなくてもよいとは言われているし、裕のこともあってずっと家に引きこもっていた。

 裕の未来を変えるには、以前と同じ行動をしてはいけない。

 確か私が引きこもっていた自由登校の期間、裕は毎日学校に行っている――と晶子おばさんがお茶詩に来たときに話していた――から、受験が一足早く終わっている身とはいえ、学校に行けば会える確率は愕然と上がる。


 となれば、さっそく行動開始だ。朝食を終え、懐かしいバッグに参考書を詰め込んで家を出る。


 少し歩いた先に、見慣れた制服姿の裕がいた。後ろ姿が見えただけでもホッとした。

 コンクリートを蹴る靴音で気付いたのか、イヤフォンをしていた裕が片耳を外して振り返った。


「……やっぱり美織か。おはよ」

「おはよう……え、気付いていたの?」

「お前が歩くとき、音が特徴的すぎるから」


 裕曰く、スリッパでも履いているのかと思うほど、パタパタと聞こえるらしい。

 確かにローファーは少し大きいかもしれないけど、あと一ヵ月ちょっとなのに新しい物を買うのは気が引ける。


「お前、受験が終わったのに登校するの? 引っ越しの準備は?」

「まだ大丈夫だよ。最悪、向こうでも揃えられるし。それよりもできる限り勉強は固めておいたほうがいいかなって」

「うっわ真面目……そんな優等生な奴とは思わなかった」


 裕は朝に弱くて、エンジンがかかるのにある程度時間が必要らしい。人と話していればかかってくるけど、とは聞いていたがここまで辛辣な言葉が並ぶとは……。


「べ、別に悪いことじゃないもの。大学で専攻してゼミまで入ったのに何も成果なしだったし!」

?」

「せ、成果なしだと不利かもしれないでしょ? 就職とか!」


 危ない……未だ自分が高校生に戻っていることが馴染んでいなくて、思わず口が滑ってしまった。勘の鋭い裕のことだ、過去形ではっきり言ってしまえば怪しまれるに決まっている。

 現に今も訝しげに眉をひそめられたが、何事もなかったかのように開き直った。


「そういう裕だって学校行くんでしょ?」

「入試が近いからな。塾も行ってないし、家にいるとおばさんたちの世間話に巻き込まれると集中できない」

「確かに……」

「それに、学校に行っていたほうが気を遣わせずに済むし、美織がいるなら勉強聞けるから一石二鳥だろ」


 ニッと口元を緩ませて言う裕に、思わず胸が高鳴った気がした。

 こんなに話したのは久しぶりだった。もちろん、私が五年間も離れていたこともあると思うけど、高校生の頃はお互いに部活があったから一緒に登校することはなかった。

 それに加えて、体格も声も大きく変わったのに、不意に見せるあどけなさがあの頃を思い出させようとする。懐かしさよりも新鮮に映ったのは、私が今まで避けていたからだろうか。

 学校に着くと、そのまま図書室に行こうとする私を裕が引き留めた。


「どこ行くんだよ? 教室はこっちだろ?」

「教室は入試が近い人が多いでしょ? 先生もいるし、私は図書室でもいいかなって」


 今日のところは裕が登校していることがわかっただけでも十分収穫だ。教室はクラスメイトが多く、賑やかだろうから、少しでも静かな場所で今後について考えようかなと思っていた。


「……俺も一緒にいい?」

「え?」


 思わず裕の顔を見ると、なぜか申し訳なさそうな表情をしていた。そういえば小学生の頃はよくこんな顔をしていたな、とふいに思ってしまった。


「――い」

「裕、おっはよー!」


 言いかけた言葉を遮って、裕の後ろから一人の女の子が声をかけてきた。

 緩く巻かれた栗色のロングヘアにナチュラルメイク、すらっとしたスタイルからは、年上に思えてしまうほど綺麗な子だった。

 裕も驚いたようで、左腕を掴まれて「うわっ」と慌てた様子で目を開いた。


かわ? なんで……」

「先生に呼ばれたの。終わったら速攻で帰るけど! ……あれ? 確か裕と同じクラスの子だよね?」


 川瀬と呼ばれた彼女が、今度は私に興味を移した。思わず身震いしてしまったが、彼女には怖がらせてしまったと勘違いさせてしまった。


「ああ、ごめんね。びっくりしたね」

「えっと……」


 履いている上履きからして同じ三年生だろう。どこのクラスか思い出せるかと思ったが、こんなにフレンドリーな人と関わった記憶は思い出すまでもなく無い。


「こんなところに突っ立っていないで、二人とも教室行かないの?」

「あ、私は図書室に行こうとしてて……」

「そう? じゃあ裕、行こう」

「お、おい引っ張るな! あと名前で呼ぶなって何度言ったら……」

「いいじゃん、減るもんじゃないしー」


 裕の左腕をぐいぐいと引っ張りながら、川瀬さんは教室のあるほうへ向かっていく。かなり強引な人だなぁと思いながら見送っていると、裕が「美織!」と若干やけになりながら呼ぶ。


「あとでそっち行くから! 先帰るなよ!」


 あまりにも突飛すぎて言葉が出ない。その代わりに首を何度か頷くと、満足そうに笑って川瀬さんのほうへ向き直った。


 でも、嬉しいと思ったのは一瞬だけだった。


 二人が並んで歩く姿が、彼が告白された日の放課後の記憶と被ったから。

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