第3話

「――起きろって。 おーい?」


 懐かしい声が聞こえる。一気に低くなった声色は優しくて、心地よい音だと思った。

 でもごめん、もう少し寝かせて。新幹線の中で週末に提出しないといけないレポートを、乗り物酔いを起こしながら完成させたんだから。

 肩を揺する手を払うと、上から溜息が聞こえてきた。


「ったく美織、問題一つも解いてねぇじゃん。数学が得意だからって、さすがに舐めすぎじゃね? 先生に当てられても知らないからな」

「……んぇ?」


 先生? 問題? 数学?


 すごく懐かしい単語が聞こえてきた。顔を上げると目を疑った。

 高校の教室、見知った顔ばかりのクラスメイト。懐かしいブレザーの制服。担任の先生。


 そして隣には、裕の姿が。


「裕……!?」

「うるっさ……お前、授業中だぞ。静かに……って何すんだよ!?」


 黒髪に血色の良い肌、大きく開いた茶色の瞳は両親譲りだと聞いている。バスケ部で培った腕の筋肉は制服の上からでも見てわかるほど。思わず顔や耳を触ったり引っ張ったりしてみるが、確かに触覚がある。温かい体温さえも伝わってくる。


 間違いない。私の知っている安斎裕だった。


「なんで? 本物?」

「本物って……寝ぼけてんの?」


 寝ぼけていたかった。これが夢だと思いたかった。

 本当の裕は今、病院で静かに眠っているのだ。でも実際に触れて感じる体温は、夢にしてはできすぎている。記憶力が乏しい私が、想像だけでここまで再現できるとは思えない。

 夢じゃないならこれは一体……?


「どうして……ふぐっ!?」

「さっきからなんなんだよ……ったく」


 私が考え込んでいると、突然裕が鼻をつまんできた。


「ちょ、はふぁしふぇ(離して)!」

「うっせ! お返しだっての」

「ほらそこぉ! 受験が終わったからって、気ぃ抜いてんじゃねぇぞ!」


 裕といがみ合っていると、教卓から呆れた様子で先生が言う。そのついでに黒板の問題を解くように指名されてしまった。裕にはお咎めがないのは許せないけど。

 これ以上もめたところで意味はないと、諦めて立ち上がり、黒板に書かれた問題を解いていく。高校三年生レベルの数学の応用問題だ。チョークを持つ感覚にも懐かしさを感じながら書き込んでいく。

 ふと、黒板の端に書かれた今日の日付に目が留まった。


「……先生、今日は何年の何月ですか?」

しい、どうした? なんかおかしいぞ? 今日は――」


 首を傾げながらも教えてくれた先生の言葉に、思わず持っていたチョークを落とす。床に白い粉が散らばって、上履きに積もっても気にする余裕なんてない。

 どうやら私は五年前――高校三年生の冬に戻ってきたらしい。



 ひとまず授業をやりすごし、休み時間になった途端に教室を飛び出した私は、校内の懐かしさに浸る間もなく、人気の少ない資料室に駆け込んだ。

 思い出した記憶が正しければ、普段から使う頻度が低い資材しか置いていない場所だから、生徒どころか先生も立ち入りが少ない。ひとりで考えるには充分な場所だ。


「……やっぱり!?」


 埃が被った全身鏡で今の自分を確認する。こげ茶色のセミロングだった髪は黒のショートカットに戻っており、友達から教えてもらい始めたばかりのうっすらメイク。ピンク系で自然に仕上げたネイルは自爪になっている。大学に入ってすぐ、頑張って空けたピアスホールは塞がっているどころか穴があった形跡すらない。頬が少しやせこけているように見えるのは、少し前まで運動部に所属していて食事制限をしていたから。


 間違いない、中途半端に垢抜けしようとしていた、高校三年生の頃の私だ。


 ブレザーのポケットからはみ出しているスマホを取り出して操作する。ロックがかかっていたらどうしようかと思っていたけど、何もかかってなかった。不用心すぎるぞ、私。

 メールから着信、カレンダー機能といったアプリの履歴を片っ端から確認していく。


「部活は引退済み、文化祭も終わってすでに大学は受験して合格をもらっていて……年も越している。ってことは、あとは卒業だけ……?」


 三年生になると卒業式まで一月の後半から二月末まで自由登校になる。今日がその前日だ。

 こんなときでも数学の教科書通りの授業があるかと疑問に思ったけど、確か度重なる学校行事や台風や積雪の災害が影響して数学だけが授業が遅れていたっけ。担任が数学の担当だから、よくぼやいていたのを思い出す。

 一通り確認し終えると、近くの机に仕方なく座った。ここには椅子がないし、あっても壊れて壁に立てかけられているからやむを得ない。


「……どうしよう」


 目を覚ます前――車と衝突寸前で目の前が真っ暗になったのは覚えているけど、その前後の記憶が曖昧だ。おそらく雪で車道との境界線が見えなくなった車と衝突したのだろう。

 そうでなければ、タイムリープや死に戻りなんてファンタジー小説のようなことが起きるはずがない。


 ……本当に起きるとは思ってもみなかったけど。


 でもまだ、異世界に転生じゃなくてよかったかもしれない。

 自分の過去に戻れたということは、未来で後悔していたことをやり直せるチャンスだ。

 たとえ自分の人生が終わっているものだとしても――


 そんなことを考えていた瞬間、突然資料室のドアがバタンッ!と開いた。人が来ない場所だし、あまりにも大きな音だったから驚いて机から立ち上がる。

 ドアのほうを見ると、そこには呆れた様子の裕が立っていた。ブレザーの下はシャツではなく白のパーカーという、制服の定番な着崩し方をした彼は、ドアを丁寧に閉めるとずいっと迫ってくる。


「見つけた。やっぱりここか」

「裕!? どうしてここが……?」


 私がこの資料室に入り浸っていることは誰にも話したことがない。高校在籍中、この場所ではひとりで過ごしていたのだ。裕が知るはずがない。


「結構前から知ってた。何度かここに入っていくの、見たことあるし」

「へぇ!?」

「間抜けな声。さっきもおかしかったし、どうした?」


 目を泳がせる私に、裕は屈んで覗き込むようにして見てくる。そういえば、彼とは高校のときから二十センチも差があるんだった。

 昔から口が悪かったけど、声変わりして低くなった声だとどこか刺さるものがある。確信を突かれているような気がする。

 高校生の裕がここにいて、喋っている――嬉しいはずなのに胸が痛いのは、彼があと二ヵ月もしないうちに姿をくらまし、その五年後に死んでしまうことを知っているからだろうか。


「美織?」

「……近い。離れて」

「は?」


 いくら高校三年生の頃に戻ったところで、精神や記憶は五歳分も上なのだ。いくら家族同然の幼馴染だからって、この近距離は心臓に悪い。

 そんな私の事情など、裕にわかるはずもなく。


「何なのお前。最近俺のこと避けてない?」

「え? 避け……?」

「口が悪いのは元々だって自覚あるけど心当たりがない。俺、お前になんかした? 嫌な思いさせた?」


 眉をひそめて、苦しそうに裕の表情を見て、ようやく思い出した。

 そういえばこの時期は確か、放課後に裕が同級生の女の子に呼び出されて告白されていたのを偶然見てしまった頃だ。それがきっかけでいつもの距離感がわからなくなって……。


 これが家族に抱く想いではないと気付いたときには、普段どうやって接していたのか、急に頭が真っ白になったのだ。


 そっと目を向けると、心配そうに見てくる裕の顔がある。

 幼い頃からずっと傍にいたはずなのに、そんな表情をさせたくないと思ってしまうのは、この先の未来を知っているからだろうか。


「……ごめん、最近ちょっと体調が悪かっただけなの。心配させてごめんね」


 私はそう言うと、裕は「そっか」とホッと胸を撫でおろした。


 ――そう、これでいい。


 裕がいなくなったりしないで、五年後も生きている未来に変えることができるのなら。

 この想いをなかったことにするなんて、安いものだ。

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