湘南幻燈夜話 第一話「昼下がりの魔女たち」

第1話 昼下がりの魔女たち

 久しぶりに江ノ電に乗った。

マッチ箱のような二両編成だ。むかしはたった一両で扉の開閉は手動だった。鎌倉と藤沢を十二分おきに結ぶ単線だ。もうすぐ正午の車内は空いている。主婦や学生の姿はなく、沿線のご隠居らしき老人がぽつりぽつり腰をおろしているだけだ。

今朝方まで雨だった。車窓はすべて押しあげられ、雨のなごりをふくむみずみずしい空気が車内にみちている。風はさわやかに吹きぬけ、目を閉じれば内も外も渾然としてまるで宙を飛ぶような心地だ。

 年にいくどか、いまこのときここにいる幸福を全身で感じるときがある。それはごくふつうの、なんの変哲もない、ありふれた一日の途上に、栞のように挟まれた時間の断片だ。初夏の光満ちる七月の海辺の町でのんびりと電車にゆられている、ただそれだけのいまのように。

 民家の軒先をかすめてのどかにゆられながら長谷駅に着いた。改札を出て踏切をわたる。突きあたりを左に折れるとそこはもう古くからの住宅地だ。右角に、目的の私立病院はある。

 四階建ての総合病院はこじんまりとして親しみやすい。日は高く、わたしの影は白いタイル張りの外壁に黒々と影をうつしている。待合室の青いビニール張りソファにはまだ数人の患者がいた。診療は十一時半で終わりのはずだ。会計か薬を待っているのだろう。大きな観葉植物のうしろにかくれ、しばらく様子をみた。そうするうちにも窓口の職員が患者の名をよぶ。よばれた順にひとり去りふたり去りして、やがて窓口は閉まった。

 待合室に残ったのは五人だった。いちばんうしろのソファで折詰の寿司を食べている老夫婦、自販機で買ったコーラを飲むパジャマ姿の若い男、公衆電話でひそひそ話している背広の男、ソファの真ん中に腰を下ろし、こめかみに指を当ててうつむいている中年女、その五人だ。わたしは頭痛持ちらしい四十代くらいの女をじっと観察した。

(あれだ。まず、まちがいないだろう)

 窓口が閉まってからそれとなく診察券入れをのぞいたが、一枚もなかった。

すくなくともあの女は午後の診療を待つ患者ではない。

(しばらく来なかったが、ここは外れのまずない穴場だ。あの事故のあとだから今日あたりはきっといると思った)

 二日まえになるが、東名高速道で七名が死亡する惨事があった。

トンネル内でつぎつぎ衝突した車は炎上し、百七十台を超す車両が焼失した。世間はまだその話題でもちきりだった。

ラックの週刊誌を手にとり、さりげなく女の左に腰をおろす。女の薬指には金色のやぼくさい結婚指輪があった。たたみ皺の残るいかにも外出専用といった白いレースのブラウスに灰色のブリーツスカートをはき、膝においた白皮のハンドバッグは角が擦れて黒ずんでいる。赤みがかった丸い顔と大きくカールした髪はどうにも田舎くさい。

 この女は、一見どこにでもいるごくふつうの主婦に見える。

しかし、ちがう。じつはとんでもない能力を秘めている、はずなのだ。

この女が当たりならこれを最後の仕事にして、わたしは引退するつもりだ。

女がこめかみをおさえた指のすき間からこちらをうかがうのがわかった。話しかけてほしいのだ。わたしはそ知らぬふりでいる。しだいに女はいらついてきた。とうとうこらえきれなくなって、

「……ああ」

聞こえよがしにため息をついた。

よしよし、もういいだろう、ここらで話しかけるとするか。

「あのう、だいじょうぶですか」

「あ、はい……」

  苦しげにいいながらも口のはしは微妙に巻きあがり、女は満足している。

「さっきから気になっていたんですけど、片頭痛ですか。おつらそうねえ」

「はあ……でも、今日はもうだいぶいいんです」

 バッグから花柄のハンカチを出すと女は乾いた額にそっと当てた。

ふーむ、なかなか、うまい。

「午後の診療を待ってらっしゃるの? 事情を話して早く診てもらえばよかったのに」

「いえ、もう診てもらったんです。帰るまえにちょっと休んでるだけで。薬ももらいましたけど、わたしには効かないんです。ふつうとちがうものですから」

 ふつうとちがうというところで、それまでうつむきかげんだった女の顔が上がった。

「じつは……なんというか……あの……」

 ためらいをよそおい、ひとをじらすのもなかなかのものだ。

「頭痛はいつもいきなりはじまるんですの」

 ここからは立て板に水だった。

「はじまると一週間つづくんです。もう、釘を打ちこまれるようにガンガンするし、ときどきちらっと見えたり……そしたらやはり一週間後でした、あんなものすごい事故が起こって、ああ、前ぶれだったんだってわかるんです。今回は火と車がちらっと……頭痛はそのあともしばらく治らないんです」

「ちょっと! あなた、こないだのトンネル事故が起こるの知ってたの? 車が燃えるのを見たの?」

好奇心いっぱいに身をのりだすと、十日も頭痛にさいなまれ衰弱しきったはずの女の顔にじわりと喜色がにじむ。

輪郭のぼけた唇が舌のさきでうるおされ、得意話を披露する準備はととのったようだ。

「こんなことお話して、どう思われるか……じつは、わたし……」



「と、いうことです」

 わたしは報告した。

 瞑目して聞いていた会長がうすく瞼を開けた。

「明日からご主人は札幌へ出張だそうです。家の用事をすませてからということで、午後二時に小田急の江の島駅で待ちあわせました。それからお連れいたします」

「あなたも同席なさいますな」

「もちろんです。そこまでがわたしの仕事ですから」

「けっこう」

おもむろに巨体をゆすり、会長はいった。

「あなたにはこれが最後の仕事でしたな。大勢のお方をスカウトなさった。その意味でずばぬけた才能をお持ちでした。視力もすっかり回復されたのでしたね」

「はい、ありがとうございます」

 皮肉をいう会長ではないと知っていても厭味に聞こえ、白々しい気持ちになった。

明日の昼下がりに、長谷の病院でスカウトした主婦をここへ案内して基本的な説明がすめば、わたしは一足さきにこのたそがれのような薄明かりの部屋を出ていく。

「ながい間、ご苦労さまでした」

会長は黒光りする机の向こうで一毛のそよぎもない禿頭をさげた。

「こちらこそ、お世話になりました」

 深々と礼をかえしながら、風をはらんだ帆のように白い布をまとった会長の姿を十三年も見てきたのだとそれなり感慨をおぼえた。

「それでは失礼いたします」

「お幸せに」

すみれ色のレンズの奥でうっすら笑いながら、会長はやわらかくささやいた。



あなたはこういう女を病院で見かけたことはないだろうか。

天災や大事故から二日か三日たったころ、苦しげな様子で待合室にすわっている女だ。女は診察を待っているのではない。話しかけられるのを期待しているのだ。他人の病を聞きたがるおせっかいはどこにでもいる。とくに病院の待合室はそういう人間の吹きだまりだ。どうなさいましたと声をかければ、おもむろに聞かせてくれる。地震、山崩れ、航空機事故など大災害や大事故が起きるまえになるとひどく異常な身体症状におそわれ、音が聞こえたり、事故の瞬間が見えたりする、子どものころはわけもわからず泣いて親に訴え、かえってしかられた、成長してからは自分はみんなとちがうのだ、うっかり口にすれば狂人あつかいされかねないと悟ってだれにもいわずにきた、あなたがやさしいのでつい打ちあけてしまったが、という身の上話を。

ぜんぶ、ウソである。

彼女らはごくふつうの家庭の主婦だ。中年になり、夫も子どもも相手にしてくれない。じぶんだけが取り残されて毎日おなじことのくりかえし、つまらない、世間から注目されたい、なにか特別な能力があるといいなあ、ああ、ひととはちがう優越感にひたりたい。

日ごろ家事をしながら夢想しては倦怠からのがれていたが、ある日、惨事の発生をテレビの速報で観たとたん、

(わたし、知ってたわ、そうよ、ずっとまえから!)

とつぜん、じぶんは予知能力があるとまるで的はずれの方角へ大跳躍する。

そうなると、このとくべつな能力をもつじぶんについてだれかに話したい。 そこで家の外に場所をもとめて出かける。

わたしもそうだった。

日本で航空機事故が二日連続して起きた大惨事のあとで、超能力に目ざめた。

 それからというもの午前中はつつがなく家事をこなし、午後になるとあちらこちらの病院の待合室にすわった。そこでわたしは生まれついての予知能力にさいなまれる主婦へと変身した。わたしも予兆として起こる頭痛と予見を小道具にした。

四十二歳のとき、わたしはあの長谷の病院でスカウトされた。

超能力者を自称する演技力の高い女たちを、パートの占い師や霊能者として派遣する組織だった。

わたしは週一回午後二時から四時まで、横浜の関内に出勤した。雑居ビルのうす暗い小部屋で顔にベールをかけ、それらしい名をつけられて悩める子羊たちを相手にした。交通費別で自給五百七十円だった。

わたしは人材スカウトにも身を入れた。大惨事があると近隣の病院だけでなく、公園のベンチ、図書館、デパートの休憩所など、ひとが集い無料で長時間いられる場所へ足をむけた。占い師のパート代のほかによい人材を見つければスカウト料も支払われる。スカウトする側になって知ったのは、超能力者変身願望の女の多さだった。だが、ほとんどは妄想がはげしいだけの大根役者だった。男性をスカウトした経験はわたしにはない。

夫も税務署も知らない小遣いを稼ぎながら変身欲も満たされて五年目の夏、わたし自身に異変が起きた。

あれは横須賀の病院でスカウトした主婦を江の島の会長へ紹介した帰り道だった。

背後から灼熱の日差しにいぶられて長い橋をわたっていたとき、ふと足元に目を落としたわたしは愕然とした。わたしの影は焼けたコンクリにうつっていなかった。周囲を行きかう人々の影はくっきりと黒く橋の上に伸びている。驚愕し、狂った犬のように同じところをぐるぐる回った。わたしの影だけが消えていた。

 踵をかえし、わたしは会長の部屋へ走った。

 会長はいつものように眼鏡をはずし、目を閉じてじっと聞いていた。

 話し終え、わたしは辞意を伝えた。

「もうだめです。罰があたったんだわ、ひとをだましてばかりいたから」

 会長はやおら瞼を開けた。

 そして憔悴したわたしに静かな声で話した。

「影はなくなったのではありません。あなたの視力が弱ったのです」

「そんな! だって、ほかはなんでもよく見えるのに」

「ほんとうのご自分を見る視力が衰えたのです。あなたはこの年月、本来のご自分から目をそらし、超能力者としての虚像に焦点を合わせてきました。あなたは実態を見る目を失ったのです。平凡だが幸せな、ただの主婦の実像に復讐されたのですよ」

わたしはふるえ声でたずねた。

「目は、視力は回復するのでしょうか」

「女性は男性にくらべて治りやすいです」

「なぜ?」

「まあ、男性より営業努力が不足しているからでしょう」

 会長はおだやかにいった。

「あなたを見つけた方は視力を、つまり影をとりもどすのに五年かかりました。あなたはもうすこしかかるかもしれませんね。まあ、八年ほどは」

「八年……」

「変化のない平穏な暮らしに意義をみつけるよう努力なさい。そして平凡を忌みきらう方々をスカウトし、最終的には救済することです。スカウトされるということは、その人たちには虚構が実像になりかけているということですから」

「もし、回復しないとどうなるのでしょう」

「透明な、影のない世界で生きなければなりません」

「いままでに手おくれだったひとはいたのですか」

「ひとりだけ」


会長の部屋の光はおぼろで、影はどこにもない。


― 了 ―

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