#2少年と隙間風
少年は布団に就いた。
暗い路地を少年は歩いている。じめじめとしていて、カビが腕にも生えてきそうな感じがしているようで、とても居心地が悪そうな場所だ。まだ背の低い少年にとって、3階建てのビルは大人にとっての高層ビルくらいの大きさに見える。しかし、深いビルのジャングルの小道に少し興奮気味でもある。
少年は、平たい地面に丸いふっくらとした蓋が少しずれて置かれているを見つけた。それは少し茶色くなっていて、ゴキブリが数匹でてきてもおかしくない見た目をしていた。少年にはためらいもあるが、路地の雰囲気に飲まれた好奇心もあった。蓋を触ってみるが持ち上がりそうにはなく、硬い金属が手に食い込んだだけだった。
少年はぬめりとした土の付いた手をイオンモールで母親が買ってきたジーンズでふき取ると、路地をでて家まで戻ることにする。
少年の家の庭には、花壇の手入れに使われているスコップが置いてある。それは大きいサイズとは言えないが、ずれたマンホールの蓋を浮かせるくらいには十分だった。むしろ大きすぎない方が、子供の手には丁度いい。
少年は西から射すオレンジ色の光に背を向けて、もう一度路地へ向かう。住宅街の道を十五分くらい走ると踏切りがあり、そこを渡ると古いビルが並んでいる通りがある。赤い自動販売機が見えて、その横が入口になっている。
路地に入ると赤いスポーツシューズについた黒い土を飛ばしながら、マンホールへと向かってゆく。
キィーガタンゴロゴロという電車の音がして、排気口から油臭い空気が入ってくる。しかし少年はそれを少し心地よく思っていた。それは鳥の鳴き声や揺れる葉っぱが森林の風景を装飾するように、路地を装飾しているのだ。もちろん動物たちもいて、のうさぎや猿なんかよりもずっと仲良くなれそうなドブネズミたちが走りまわっている。声をかけたり触ろうとはしないが、通り過ぎるときにはにこりと笑う。
少年は膝をついてスコップをマンホールと地面の間に指しこみ、蓋を浮かせてみる。
蓋の隙間から少し冷たい風が流れてくる。それは誰からも相手にされないクラスメイトが、気のいいクラスの人気者に話しかけられたような気持ちを訴えるようなものだった。
隙間風は少年に話しかける。「なんで開けようと思ったの?」
「僕はこの路地が好きなんだよ。いつもはもう少し手前のところで遊んでいるんだけど、今日はもうちょっと奥へ行こうと思ったんだ。そうしたら僕にも開けれそうなマンホールがあって、気になったから」
隙間風はくすっと笑う。「開けてどうしようとしたんだい?」
「何があるのか気になった。それだけだよ」少年は答える。
「マンホールっていうのは、入口なんだ。君のいるところとは全く違うような場所につながるトンネルへのね」
それが一体どんなものなのか、少年は当てをつけることができないでいる。まだ八年しかこの世界にいないのに、他の世界なんて想像できるはずがないのだ。
「それは一体どんなところなの?」
「それを言うことはできないんだ、私は隙間風にすぎないからね。番人みたいなものだけど誰かが気付いて開けないと出てこれないし、作業員はあくまでオモテのトンネルしか見れないんだ。だから話すのは君が初めてだけど、話したらいけない気がするんだ。だってそれじゃあ番人としては失格だからね――」
隙間風はもういなくなっていた。
少年はスコップを踏みながら蓋に手をかけ、大きな声を出しながら蓋をひっくり返した。穴はまっくらだったからか深く感じられ、落ちてしまえば怪我では済まなそうだった。
少年はゆっくりと四角いでっぱりに足をかけて降りてゆく。 赤い靴についた黒い土がヌルヌルして気持ち悪そうで、少し怖がりながらもひとつひとつ足場に足を丁寧にかける。しかしリズミカルにゆっくりと、ゆっくりと降りている。湿った金属の音、程よい暗さに反射する赤がアクセントとなり、下水管へと繋がる穴が路地裏のクラブとなる。
たまに聞こえる自動販売機の音も少年をワクワクさせ、テンポは少しずつ上がる。
カッ、カッ、たん、ガチャコン。
少年はリズムを楽しんだあと一度足を止めて首を上下に動かした。すると日が沈んだせいなのか深いところまで来たせいなのかはわからないが、少年の目には何も反射してこなくなる。そして、ぺちゃんという音とともに少年は底へと辿りついた。
暗闇の中で少年は考える。
隙間風さんの言うところって、もしかして何も見えないこの場所のことなのか。それとも真っ暗の中を進んだ先にそんなところがあるのか。あるいは、このまま僕は真っ暗で臭いこの場所から出られなくなるのか。
ちゃらちゃらと水が流れる音を聞きながら、数十分、考える。
お母さんは今頃心配しているだろうか。今日の夜ご飯は何だろうか。結局隙間風さんは嘘をついていたのか――
「そんなことはないよ」
「隙間風さん?」
「違うよ、よく見てごらんよ」
薄く、緑色と青色で、数日ぶりにも感じられるような光が少年には見えている。
「青と緑のザリガニ?」少年はもう一度はなしかける。
「君にはそう見えているのか。まあいいさ、隙間風が番人なら僕は案内役さ」
「どこに案内されるの?」少年は不思議そうに、少しうれしそうに問いかける。
「素敵なところさ。綺麗な水が流れてる草原が広がっているんだ」
「どうしてこんなところからしか行けないのに、そんな素敵なところにつながっているの?」
「君は質問するのが好きなんだね、いいことだ。いいかい、美人さんでも汚いご飯の食べ方をする人もいるだろう。少し汚らしい見た目をしているのに、優しい人だっているだろう?」
少年は姉といつもお小遣いをくれる親戚のおじさんを思い出しながら、軽く頷いた。
「君が考えているのは少し違うけど、だいたい同じさ。綺麗なものがいつも綺麗ででないのと同じように、汚そうに見えて実はそうじゃないってのはよくあることなんだ」
ザリガニはそう少年に言い聞かせると、ついてくるように指示をする。
少年は青と緑に光る甲羅を見ながらゆっくりゆっくり足を動かし、ザリガニのいう景色を想像するのを楽しんだ。それはあまり旅行に連れて行ってもらえない少年にとって、遊園地に行く前日と同じくらい高揚することだった。
川の横にはちょっとした道があり、周りにはパイプやらがたくさん通っている。そしてまだ二桁にもいかない年齢の子供が歩くようなところではないのがわかる。
おかしな色をしたザリガニと少年が奥へ奥へと進んでいく。日が暮れているためか天井の金網から光が入ってくることもなく、ザリガニの光だけがトンネルを照らしている。水滴の音と、靴が水を踏む音だけが聞こえてくる。一体このトンネルはどこまで続いているのだろうか。
行き止まりにぶつかると、ザリガニは少年に話しかける。
「さあ、扉をあけてごらんなさい」
少年が扉を開けると朝日が射し込み、それは夢から覚めたことを教えていた。
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