彼女は弥勒菩薩ならぬ魅力菩薩なのだ

仲瀬 充

彼女は弥勒菩薩ならぬ魅力菩薩なのだ

 独身限定の社内合コンでも営業部は大所帯だからけっこうな人数だ。乾杯から30分を過ぎると少しずつ酔いが回ってきて座が賑やかになった。門田貴志たかしは真正面の遠藤美沙希にざっくばらんな口をきいた。

「美沙希ちゃんはかわいそうだね」

「かわいそう? 私が?」

美沙希は営業部のプリンセスと言われている。

「だって美人は窮屈だろう?」

美沙希はあごに人差し指を当てると唇をすぼませて首をかしげた。女性のこういうしぐさはいかにもという感じがして貴志は苦手だ。

「いつも注目されてありのままの自分を出せないんじゃないかと思ってね」

「それなら門田さんがそれを引き出してあげなくちゃ」

「そうよ美沙希、門田さんに責任を取ってもらうのよ」

美沙希がプリンセスなら貴志はプリンスの立ち位置だ。美男美女二人の交際を知っている取り巻き連中がはやし立てたところで席がえタイム。席がえで横に迫口さこぐち珠緒たまおがきたのは貴志にとって好都合だった。美沙希たちと話しながらも珠緒が気になっていたのだ。美人どころか10人並みとも言えない容姿なのだが振る舞いが完璧だった。男子社員にビールを注いだり料理を取り分けるのにわざとらしさが全くない。話を振られてもそつなく受け答えしてさりげなく話を他の者に回す。他人の視線や時間をつなぎとめず風のようにその場その場をすり抜けていく。だからなのか周囲の人間は彼女の存在に気をとめていないようだ。男子社員たちとしばらく話した後で貴志は小声で話しかけた。

「迫口さんはまるで風みたいだね」

珠緒は目を見開いたが細い目なのでそれほど丸くはならない。

「何でもお見通しなんですね。美沙希さんだけでなく私のことも」

「当たったの?」

「私、吹かない風になりたいんです」

「え~。宴もたけなわではございますが、」

の悪いことに当番幹事が立ち上がってお開きを宣言した。


「門田、2次会は?」

「すまん、今日は却下きゃっか

幹事に断りを入れて貴志は急ぎ足で会場を後にし、自分より早く出た珠緒に追いついた。

「迫口さん、もう一軒付き合ってくれないか」

珠緒は腕時計を見た。

「お茶なら1時間くらいは」

誘った貴志が驚いた。美人でもないくせにとまでは思わないが自分の誘いに条件を付けられたのは初めてだ。喫茶店に入ると珠緒は貴志の思惑を察したかのように言った。

「門田さん、疲れてるんじゃないですか?」

「けっこう飲みはしたけどね、どうして?」

「私みたいなブスに声をかけてくださったので」

ストレートな物言いだが自虐的にも嫌味にも聞こえないのは不思議だ。

「私みたいな人間は疲れてるときの話相手にうってつけみたいですね。構えなくていいからのご自分を出せるみたいで」

貴志は美沙希の顔を思い浮かべながら確かにそうだと思った。するとまたそれを察したように珠緒が言った。

「美沙希さんみたいなきれいな人とデートすると緊張しません?」

「最初のうちはそうだったけどね」

「じゃ噂どおり婚約ずみなんですか?」

「まだそんな告白はしてないよ」

「どうしてですか?」

「どうしてかなあ、好きには違いないんだけどいまいち踏み切れない」

珠緒は腕時計に目をやって残った紅茶を飲んだ。

「男の人は自分らしくありたいってこだわる人多いみたいですね。門田さんが自分を捨てて一歩を踏み出すことができないのは美沙希さんよりご自分が大事なんじゃありません?」


 10月も下旬に入ると夕方は肌寒い。退社しての帰り道、貴志が交差点で信号待ちをしていると風が強く吹きつけてきた。反射的に顔を背けると反対側の歩道に珠緒が立っているのが目に入った。冷たい風に首をすくめているが口角は少し上がっている。と言ってもそれはモナリザよりもかすかな微笑みだった。そんな珠緒と目が合うと貴志は磁石に引き付けられるように珠緒側の歩道に移った。

「帰るところなら付き合ってくれないか。今日は疲れてないよ」

行きつけのバーのカウンターに並んで座ると珠緒が言った。

「お疲れじゃないならどういう風の吹き回しですか?」

「そう、その風。先週のコンパで吹かない風になりたいって言ったよね。それがずっと気にかかっててさ」

「偶然ですね、私も信号待ちしてたとき風のことを考えてました」

珠緒は貴志と同じハイボールのグラスに口をつけた。そして前を見たまま話を続けた。

「春のそよ風みたいな人間になりたい、ずっとそう願ってました。でもいつの間にか人から背を向けられる北風になってたんです。自分は器量が悪いというひがみや卑屈さは口に出さなくても周りに伝わるんですね。さっきのように肌寒い風が吹けばいじけていた昔の自分を抱きしめてあげたいような気持ちになるんです」

そう言って交差点に立っていた時と同じ微笑を浮かべて貴志を見た。

「寒々しい自分に気づいてから私は私であることをやめました。吹かない風になろうと思ったんです」

合コンのときに感じたのはそれだと貴志は覚った。あの場でも珠緒は存在ではなく気配になっていた。


 貴志はこのところ自分の変調を感じている。美沙希と付き合い始めたころは仕事中に時々チラ見したものだった。彼女の西洋的な横顔は白く冷たい大理石でできた彫像のようだ。誰かが用件で呼びかけると無表情で振り向く。その顔は相手のほうが媚びた笑顔を作らざるを得ないほどに凛々しく美しい。それに対して珠緒はいつも口元にかすかな笑みをたたえている。貴志は高校の修学旅行で京都の寺社巡りをしたことを思い出した。珠緒の微笑はアルカイックスマイルそのものだ。細い目と相まって京都広隆寺の弥勒菩薩みろくぼさつ像を思わせる。そんな彼女を前にすると貴志は自分の全てを解放したくなる誘惑にかられる。ブスには気をつかわずにすむ、彼女自身が言ったそんな世俗的な打算とは似て非なる魅力だ。言うなれば彼女は弥勒菩薩ならぬ魅力菩薩なのだ。自分でも得体のしれない感情に衝き動かされて貴志は珠緒を再び先日のバーに誘った。

「今日はマティーニをいただいていいですか?」

「へえ、渋いね」

バーテンが差し出したカクテルグラスに口をつけると珠緒は目を閉じた。

「ああ本当に美味しい」

「カクテル詳しいの?」

「いいえ、初めて飲みました。ある作家の本にカクテルで一番美味しいのはマティーニだって書いてあったので」

バーテンが嬉しそうな顔をして珠緒を見た。

「山口ひとみの『酒呑みの自己弁護』じゃありませんか?」

「そうだったかも。自信ありません」

「じゃ僕も今日はマティーニでいこう」

グラスに添えられたオリーブの実は食べるべきかどうか。そんな話題も交えながら3人でカクテル談議が弾んだ。新しい客が入って来たところでバーテンは貴志たちの前を離れた。

「あの、門田さん。私よりも、」

「うん?」

「美沙希さんを誘ったほうがよかったんじゃないですか? 告白もまだなら」

「告白は向こうからしてきたよ。じれったくなったみたいで」

「それでお返事は?」

「き ゃ っ か」

「え?」

短い返事さえも舌がもつれそうになって貴志は自分の酔いを自覚した。

「却下、つまりノーってこと。僕は大学は法学部だったんだけど好きな言葉が二つあるんだ」

「却下と?」

「もう一つは『しかるべく』、裁判所の判断にお任せしますとか同意しますとかって意味だけど古文みたいでカッコイイだろ? 司法試験に受かってたら今頃は検事になってたかも。法廷で裁判官が『検察官、ご意見は?』、そしたら僕が重々しい声で『しかるべく』 ああ、いいなあ」

「そんなことよりも美沙希さんとの、」

「すんだことはもういいんだ。そろそろ出ようか」


 店を出ると貴志は少しふらついた。

「マティーニは足を取られるな。酔ったみたいだ」

「大丈夫ですか?」

「飲みすぎてちょっと気分が悪い。今夜泊めてくれない? 近いなら」

大胆な発言に自分でも驚いたが気分としては信頼する人間に甘えるような気楽さだった。

「私のところですか? そんな遠くはないですけど」

「なら頼むよ、変なことしないから」

「変なことって?」

「おならとか歯ぎしり」

「ふふ。してもいいですよ」

まさかのOKだった。川沿いの道を歩いて着いた珠緒の住まいはマンションとは名ばかりで実態はアパートだった。キッチンに続く8畳のワンルームは畳敷きでベッドはない。クローゼットもなくふすまで開け閉めする押し入れから珠緒は布団を二組ふたくみ出して並べて敷いた。二組とも明るい花柄の掛け布団ということは母親や女友だちが泊まりに来たりするのだろう。貴志は上着を脱ぎネクタイを外して布団に入った。珠緒は洗面所でパジャマに着替えたあと部屋の電気を消した。布団に入る前にいつもそうするのか、窓のカーテンを開けた。外は河川敷の公園なので覗かれる心配はないようだ。

「寒くないですか? 毛布もう一枚ありますけど」

「いや大丈夫。それより明日ちゃんと起きれるかな」

「明日は会社の創立記念日でお休みですよ」

「そうだった、やっぱり酔ってるな」

「しあわせです」

「え、何が?」

「天井があります」

「天井?」

「今日も1日が無事に終わって屋根の下で寝られます。窓から星も見えます」

美沙希には無くて珠緒が身にまとっているものに貴志は思い至った。それは「ゆかしさ」という名のベールだった。貴志は珠緒がいとおしく思えて布団から腕を出した。

「手をつないで寝ようか」

「却下」

珠緒の返事は早かった。

「心がつながってれば十分じゃありませんか」

間もなく貴志の耳に珠緒の寝息が聞こえてきた。


 11月末の小春日和の日曜日、貴志はトーストと野菜サラダでブランチをすませた。コーヒーを飲みながら珠緒のことを思い浮かべて貴志はハッとした。本屋に行こうか映画を観ようか、映画は今なにをやってるんだろう。これまで休みの日はそんなふうに頭を巡らしていた。それが今日は珠緒と過ごしたいと思っている。貴志は確信した。もうこれは恋に違いない。これまで何度か告白を受けてそれなりの数の恋愛を経験してきた。交際に発展して遊ぶのは楽しかったがそれは一緒にいる時間だけのことだった。しかし今回の珠緒は違う。会社から帰っても今日のように休みの日でも彼女のことが気にかかる。部屋に泊めてもらってからはなおさらそうだ。思えばこれまでの恋愛は自分から告白したことはなかった。貴志はコーヒーを飲み干して立ち上がった。1時間後、珠緒の携帯が鳴った。

「門田だけど、出て来れない? 今、君のマンションのそばの公園にいるんだ」

「公園のどの辺りですか?」

「君の部屋から見えるとこ」

珠緒がレースのカーテンを開けたのが見えると貴志はベンチに座ったまま手を振った。少ししてジーンズ姿の珠緒がスニーカーを履いてやってきた。

「どうしたんですか?」

そう言って貴志の横に腰を下ろした。

「思い切って来ちゃったんだ。君に僕の嫁さんになってもらいたくてね」

「酔ってます?」

貴志の脇には缶ビールがある。

「缶ビール1本で酔いはしないよ」

「でもどうして急にそんなこと」

「このベンチが勇気をくれたんだ」

貴志は座っているベンチの座面に手のひらを当てた。

「このベンチは君の分身ってことはないかな。よく座るんじゃない?」

「公園はよく散歩しますからちょくちょく腰かけたりはします」

「君の部屋をここから見上げて泊めてもらったことなんか思い出しながらビールを飲んでたんだ。でも、まだ自分を捨てきれないのかな、あの夜、手もつないでもらえなかったし告白する勇気が出なかった。諦めて帰りかけたんだけど……」

貴志はをとってこみ上げる感傷を押さえた。

「君を思いながらベンチに座ってたついさっきまでの時間がもう思い出になってしまったようで切なくてベンチを振り返ったんだ。そしたら、思い出にしたくなければ戻って来なさいってベンチが語りかけてきた気がして……まわりくどいね」

突然貴志が顔をこわばらせて立ち上がった。勢いにつられて珠緒も腰を上げた。貴志は息を大きく吸いこんで珠緒の真正面に立った。

「今度は却下しないでほしい」

そして右手を差し出した。

「手をつないでずっと一緒に生きていこう」

珠緒は貴志の手を握ると微笑しながらも重々しい声を作って言った。

「しかるべく」

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彼女は弥勒菩薩ならぬ魅力菩薩なのだ 仲瀬 充 @imutake73

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