おかあさんと呼んでいいですか ~記憶を失った少女は無自覚の絶対力で世界を守る~
碧科縁
第1部 第1章
1 こんなところで、なんで? (シャーリン)
「シャル……シャル?」
何度も呼ぶ声にしぶしぶ目をあける。椅子に横になって考えごとをするうちに、うとうとしてしまったらしい。
「……ん?」
大きく開かれた天窓から勢いよく流れる雲が見える。昨日のどしゃ降りとは打って変わり、この上なくいい天気。
爽やかな風が頬を心地よく撫で、晩秋のちょっぴり甘い香りが鼻の奥をくすぐる。下でチャッチャッと奏でるリズミカルでやさしい水音に包まれ、また眠りに引き込まれそう。
「ねえ、シャル、起きている?」
ペトラと会ったら何をしようか。あの森を訪ねるのは明日がいいとカレンに言われた。
なら今日は仕事をさっさと片づけて、それから食事処。どこに行こうか……おなかがすいてきた。
「シャル、何かおかしい……」
国都に着いてからの計画に思いを馳せていたシャーリンは、首を捻り後ろが見えるまで体をずりっと動かした。椅子の背のすき間からカレンに目をやる。
「レセシグが使われているの」
その言葉が頭の奥までしみ渡るのに間があった。
体を戻し抜けるような青空に焦点を合わせようとする。白い雲に奥行きが加わるほどに、意識もはっきりしてきた。
あらためて見れば、目を閉じ背筋を伸ばしたカレンの両手は、そろえた膝の上でしっかりと組まれている。難しい顔つきだし緊張が伝わってきた。
作用力の考査を受けたときとまるで同じだと気づいた瞬間、頭の中でカチッと音がしたように思う。
さっと起き上がって寝ていた椅子を飛び越えると、カレンの隣にすとんと座った。一瞬くらっとする。
あたりの景色に変わったところや動くものがないかを確認しながら、小声で話しかける。
「こんなとこに、遮へいを張ったやつがいるってこと? どこ?」
実際は感知に耳を使うわけではないから、声を落とす必要もないのだけれど。
「うーん、それがはっきりしないの。この先の左のほうかしら。そんなに遠くないわ」
船か……そういえば、人員の輸送があってクリスも忙しい、とペトラが言っていた。それって今日だっけ? 訓練かな。
「ほかのシグは感じないけれど、何か嫌な予感がする」
驚いて横を向くと、カレンの褐色の目とまともに向き合ってしまった。
ちょっと顔をしかめたカレンは、両手で瞳と同じ色の髪をかき上げた。両方の中指にはめられた銀色の指輪が、日の光を反射して一瞬輝く。
なるほどね。
シャーリンの知る限り、カレンの感知力はずば抜けている。ひとつもちにはありえないほど。普通の遮へいなど問題にならない。
ならば相手はできるやつで用心している。それにレセシグを使うのは、そばにいる作用者を隠すため。
そういえば、カレンはどこで習練を積んだのだろう?
立ち会いの感知者も彼女の力には驚いていた。ふたつもちではないかと勘繰られたのは記憶に新しい。
一緒に暮らすうちに、カレンの力は持って生まれたものというより、鍛錬の結果だと思うようになった。
習練所にはかよっていたが、我流で習得したところもある自分とは何となく違う。
医術者によれば、彼女のほうがわたしよりほんの少しだけ若いらしい。親友というよりは、一年前に突然できた妹のような存在。
彼女はロイスに来る前の記憶がまったくない。初めて会った時は会話すらまともにできなかったのに、今では、ものの扱いも話し方もさほど違和感がない。すごいと思う。
不可解な言動は多々あったけれど、不思議とそれが自然に思える。すっかり慣らされてしまった。
彼女の家族はどこに行ったのだろうか。何とか捜して無事なことを教えてあげたい。心配しているに違いないから。
ちらっと盗み見ると、カレンの頭は下がり長い髪が横顔を覆っていた。
シャーリンは立ち上がって椅子をよいしょとまたいだ。まっすぐ歩き窓に顔を押し当てる。いったいここはどこ?
船はまだ低い太陽に向かって進んでいるため、遠くは霞がかったようにぼやけてはっきりしない。両手を目の上にかざす。
川の右側は前方に向かって緩やかな丘につながる。植物はほとんどなく上までよく見えた。気になるものはない。
左に目をやると、まばらな木の向こうに濃い褐色の斜面が現れた。
そうだ、ここはもうリセンの近くだ。かなり寝ていたってことか。
確か村の手前で川は左に大きく曲がるはず。
身を乗り出し操舵室との間の仕切り窓を開いた。
「ダン、この先に作用者がいる。遮へいを張ってるらしい」
何やら熱心に話し込んでいたダンとウィルが同時に振り向いた。しばらく見つめ合う。
「軍の川艇、
「わからないみたい。遠いからかも」
「遮へい者というのが気になりますな。移動中に何をしているのでしょうか。ウィル、もう少し左に寄せたほうがいい。
眉間に深いしわが刻まれたダンの顔を見ながら考える。前線に向かう人たちだろうか。
北から押し寄せる大群が出現して以来、戦争はおろか小競り合いすらなくなった。どの国もそれどころではない。大勢が前線で防御する。それだけで手一杯。
壁に殺到してあたり一帯が爆発的に燃え上がる。動映で見た光景が目に浮かび、少し体が震えた。
しかし、それは遥か北方の話……。
考えてみれば、移送中に訓練はないか。
だとしたら軍ではない? そもそも船ではないかも。
川の湾曲部が近づく。左側なら丘の上が怪しいが、木でよく見えない。
あの向こう側は崖に岩場が多い。待ち伏せにはもってこいよね。
いやいや、こんな田舎で事件など起こるわけがない。
それでもカレンの考えが、これまでもたいてい、わたしより正しかったのを思い出したとたん、背筋がゾクッとした。頭を振ってその感触を追い出す。
川が崖に突き当たるところを指差した。
「船でないとしたら、あの曲がった先で待ち構えているのかも」
「どうしてそんなことを?」
ウィルはシャーリンとダンを交互に見た。
「その作用者だけど、ただ訓練をしてるだけじゃないんですか?」
「こんな場所でか?」
ダンは肩をすくめると、背伸びをしながら手を額にかざした。
「どうしますか?」
ウィルは操舵かんに手をかけ、前を向いたまま問いかけた。
崖がどんどん近づいてくる。
減速して様子を見るか、それとも、少し戻って支流を通るか。
「ここで回れる?」
「もちろんできます、シャーリンさま」
ウィルは手を前に振った。
「ほら、このあたりの川幅はすごく広いし、かなり深いんです」
正面に、岩場の一つひとつがはっきりと見えてきた。
「それじゃあ……」
「アシグ! 右の丘の上!」
カレンの大きな声に、三人とも体をビクッと震わせた。反射的に皆が言われたほうを見上げたが、人影はまったく見えない。
アシグ……攻撃者……えっ?
曲がった先……左じゃないの? それとも別の人?
「活動レベルが上がった」
「それって、攻撃してくるってこと?」
何が起ころうとしているのか、まったく把握できない。
すぐにカレンのあえぎが聞こえた。
「しまった。向こうにもいる。感知がばれた」
こんなところで、なんで?
一気にパニックが沸き上がるのを感じる。左右の川岸をあてもなく探した。なぜか体がふわっとする。
ダンの怒鳴り声がやけに遠く聞こえる。
「ウィル、全速だ!」
「シャル、防御して! 攻撃される!」
上ずった声が頭に響いて我に返った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます