闘魚

執行 太樹

 



 年度末を迎える3月の中頃、1通の葉書が送られてきた。差出人を見ると、ある女性の名前が書かれていた。彼女は、私の勤め先であるこの学校の卒業生だった。個展の案内だった。

 彼女が卒業したのは、今から3年前だった。真面目で大人しい女子生徒だった。気持ちが繊細で、少し落ち込みやすいところがあり、休みがちなところがあった。しかしそれでも、いつも真面目に勉強に取り組んでいた。友達とも仲良くしていた。

 彼女のことで、1つ印象に残っていることがあった。彼女は、授業が終わると、いつも仲の良い友達数人と廊下で待ち合わせしていた。そしてみんなが集まると、揃って学校の外に向かっていた。しかし、正門の所で彼女は、いつも友達と別れて、みんなとは反対の方向に帰っていた。駅のある方とは逆の方向に。私は不思議に思った。それでも、彼女たちの友人関係で気になるようなことはなかった。単に、寄り道して帰っているだけかもしれない。私は、そのことを彼女には尋ねなかった。

 個展の場所はすぐにわかった。小さなアトリエのような構造の部屋だった。中を覗くと、部屋の壁に数々の絵画が飾られていた。そして、数人の観客に埋もれるように、その部屋の奥の隅で1人、女性が座っているのが見えた。彼女だった。

 私は引き戸を開け、中に入った。彼女は開いた扉に気付き、入口の方を見た。そして、私の存在を確認すると、観客の隙間を縫って入口の方に向かってきた。

「先生、お久しぶりです」

 彼女はそう言った。高校生だった頃よりも、しっかりして見えた。部屋の壁には、彼女の絵画が所狭しと飾られていた。彼女の絵を見るのは初めてだった。

 飾られている作品は、ほとんどが生き物の絵だった。鳥や猫、魚やトカゲ、そのどれもが、生き生きと描かれていた。細かい部分まで繊細に描かれており、まるで生きているようであった。才能が垣間見えた。

「生き物って、何と言うか、本当に綺麗なんです。細かく見れば見るほど美しくて、魅力的で・・・・・・。この世界に生きるもの全ての美しさを、できるだけ鮮明に描きたいんです」

 彼女は言った。

 彼女はそれぞれの作品について1つ1つ、丁寧に説明してくれた。すべての絵に、彼女の思いがあった。そのような中で、部屋の片隅にひときわ目を引く、1つの絵画があった。それは、大きな絵画だった。人の背丈ぐらいはあろうかという作品だった。大きなその絵画には、1匹の綺麗な熱帯魚が描かれていた。「闘魚」と名付けられていた。

「この魚は、名前をベタといって、とても綺麗な熱帯魚なんです。でも、見た目と違って、とても気性が荒いんです。他の魚と出会ったら、命がけで闘うんです。だから、闘魚というらしいんです」

 彼女は、そう説明した。そして、彼女は続けた。

「高校生の頃、この魚の美しさに惹かれたんです。これは私にとって思い出の作品なんです」

 

 私は、絵が好きだった。小さい頃から、絵を描くことが好きだった。寂しい気持ちになると、よく自分の部屋で1人、絵を描いていた。絵を描くことは、私にとって呼吸をすることと同じだった。

 高校の頃、私は、進路のことで悩んでいた。周りのみんながしたいことを見つけていく中、自分はしたいことが見つからなかった。私は焦っていた。みんなが遠くへ行ってしまうような気がした。私は1人になりたかった。みんなと距離を置きたくなった。

 ある日私は、みんなとは違う道を使って帰った。その帰り道、とある店の前を通った。その店の前には、1匹の熱帯魚が飾られていた。私は歩みを止めた。よく見ると、それは闘魚だった。鮮やかな青色の体、水中になびくなだらかなヒレ、優雅に泳ぐ姿。なんとも上品で、とても美しかった。私は、時間を忘れて、闘魚に見とれていた。

 私はその店の中に入った。中には、世界中の色んな生き物が展示されていた。世界中には、こんなにも個性あふれる生き物がいることに驚いた。まるで、世界中を旅しているみたいだった。自分の生きている世界が、なんて小さいものだったんだと思った。その日から私は、毎日この店に通った。いつしか私は、この世界に存在している生き物全ての美しさを描きたいと思った。


 彼女は、今年で大学4回生になるという。4月からは、就職活動が始まる。

「絵に関する会社に・・・・・・とは、いかなくて。実は今、生物に関する研究をしているんです。将来は生き物に関わる仕事に就きたいんです」

 これからは、あまり絵を描けないかもしれないな・・・・・・。彼女は闘魚の絵を眺めながら、少し寂しそうに、そうつぶやいた。そしてしばらくして、でも・・・・・・と彼女は続けた。

「絵を描くことは、やめたくないんです。絵を描くことで、今まで色々救われたから・・・・・・。絵を描くことは、私の生きがいなんです」

 彼女は、自分に向かって話しているようにも見えた。


 今日はわざわざ来てくださって、ありがとうございました。彼女は、個展を後にした私にそう声をかけた。彼女は笑っていた。彼女の人生は、これからである。


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闘魚 執行 太樹 @shigyo-taiki

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