第38話 異世界編 瓦解【憤怒】

私が生まれた時そこにはひどく怯える少年の姿がありました。彼の服はボロ雑巾のように破れ、くしゃくしゃになった頭は長年使い古されたモップのように散らばっていました。
肉食動物に捕食され、死を覚悟した子鹿のような目は一切の希望を捨て去って見えます。
 頚椎に喰らい付かれたまま中空を見上げ、破れた喉元から鳴る笛の音を大地の歌とする。
そんな景色が、弱肉強食のサバンナではなく、子供達の学舎で現実に起こっていたのです。
ありとあらゆる憎悪を向けられた心は、目の前にいる捕食者が、決して関わってはいけない存在であることを警告していました。



 私達の愛し子。憤怒にかられ、破壊衝動に突き動かされた穢れ子。
愛し子は少年の髪の毛を引っ掴むと、鋭い拳を頭目掛けて振り下ろしました。
ガンっと鼓膜をつんざく衝撃が走ります。
ふいに少年がよろめき、愛し子はすかさず少年の腹目掛けて、続け様に膝で重たい一撃をくらわせました。
胃から込み上げる熱と、口中に広がる鉄の匂い。滲む涙だけでは決して許されることはありません。怒らせた自分が悪い。今、目の前にいる獣に情はありません。彼は紛れもなく獲物を破壊し尽くすまで止まらないのです。
助かりたいのであれば逃げるしか道はありません。
 


 愛し子の憎悪に満ちた眼。幼い頃、その愛らしいクリっとしたまん丸二重は、まるで女の子みたいだと皆に愛されました。
ですが、今の彼は本当に視線だけで人を殺すことが出来てしまうんじゃないかと思うぐらいに、呪いに満ちた邪悪な眼をしています。
あぁ。たまらない。人が憎しみに歪む姿。怒りに震える神経。燃えたぎる鼓動。
そこでは一切の言葉を必要とせず、打ち付け、叩き付け、引き裂き、赤く破り捨てる。
人間の最も原始的な本能。力で捩じ伏せ、蹂躙し、支配する喜び。他者の生死ですらも自らの手の内にあると実感出来る瞬間。
力こそが全て。力無き者は塵と化すだけ。
最も自然な生態系の在り方ではないですか。



 そう。自然であることは本来素晴らしいはずなのに、何故貴方達人間は自然に生きることを辞めてしまったのでしょうか?
本能の赴くままに生きれば、幸福などという幻想に振り回されずに済むというのに。
自己という欲求に、偽りの仮面を被る必要などなくなるというのに。
縛られ、諭され、押さえ付けられても尚それを人間性と呼ぶのですか?
貴方達の本性は元来獣ではありませんか。
権力を有する者達程、獣に成り下がるのは明白。奪い、所有し、支配し、時に命すらも弄ぶ。もはや貴方達人間には神聖さの欠片などないに等しいのです。
見てご覧なさい?自らを聖なる使命を持つ者、選ばれし者だと嘯く連中でさえも、その実やっていることと言えば自らの承認欲求を満たし、搾取し、他者を支配する喜びに酔いしれ、批判者を格下に見て糾弾するばかりではありませんか。
あぁ聖なる憤怒。彼の方を思い出す。貴方達には決して抗えないお方。貴方達の本質に屈むお方。


 私の名前はイゴル。三姉妹の三女。最も年若い私は姉妹の中で最も邪悪で最も力の強い魔女。何故ならば姉さん達とは違い、私の栄養源は人間達の醜い感情だけではなく、穢れた魂そのものを喰らうからなのです。
焦がしバター、焦がし玉葱、焦がしニンニク。
貴方達も好きでしょ?
同じように醜い感情に味付けされた人間の魂を、憤怒の業火で炭になるまで憎悪を込めて焼き続けると、何とも芳醇な阿鼻叫喚がアクセントとなって最高の舌触りになるのです。
醜悪なものほど美味であることは、貴方達人間もご存知でしょ?
美しいだけのものは実にすぐ飽きてしまうもの。面白味もなく、感動も長続きせず、興奮もしない。ただただ退屈なだけなのです。




 私の住む恨みの大地に是非いらっしゃいな。
感動に満ち溢れ、激しく興奮し、貴方を決して退屈させることはないでしょう。
お姉様から聞いたでしょ?貴方達が欲深い穢れ人であると?ならば恨みの大地に来て下されば、生というものが何なのかを思い出せる良い機会かもしれませんよ?
とはいえ、それも炎に焼かれ死に行く時に観る後悔に他なりませんが。
ですがそれもまた人間らしいというもの。
失って初めて気付くのが小利口な猿に相応しいのではないですか?


 少し長話が過ぎましたね。そろそろ私達の愛し子が降って来ますわ。
憤怒に駆られ、底なしの支配欲に穢された私達の愛し子。
さぁ時を進めましょう。チクタクチクタク…チクタクチクタク。あの子の片足が、我等の大地に今こそ踏み込む。チクタクチクタク。

来たれ…破滅の子。


【続く】

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