第27話 日常編揺らぎ【神秘の扉】

 恵の泣いている声を聞いたのはそれが初めてだった。
電話口で鼻をぐずつかせながら泣いている恵に、好幸は何を語りかけるでもなくただ耳を傾けていた。
沈黙の間、好幸は自室の壁に貼られたビジュアル系バンドのポスターを眺めていた。
それは好幸の兄がこの部屋を出る時に残していったものだった。

男が女みたいな化粧をして歌うことの何がカッコいいのか理解出来なかった。愛だとか永遠だとか、ありきたりな歌詞が陳腐に思えて、日本のロックなんて洋楽の紛い物でしかないと馬鹿にしていた。趣味の悪い兄だと思った。
あまり話したことのない兄、あまり一緒に遊んだ記憶もない兄。ほんの少し怖くて近寄り難かった兄。


 好幸が小学校低学年だった頃、実家の寿司屋で玩具の取り合いで兄と大喧嘩をしたことがあった。好幸は兄の髪の毛を引っ掴み、空いた方の手で腕を殴り続けた。
だが、兄は5つ年上。力でかなうわけもなく、好幸はこっぴどく返り討ちに合う。案の定好幸は大泣きをするのだが、母親に叱られたのは兄の方だった。お兄ちゃんでしょ。優しくしてあげなさい。
帰り道の車の中、助手席で兄が項垂れて寂しそうに壊れてしまった玩具を触る姿に、幼いながらも好幸は胸が痛んだ。
本当は兄は悪くなかったのに、自分がわがままを言って兄の玩具を奪おうとしたのに、誤解され、責められ、結果悪者にされて泣いていた。


 恵の泣いている姿と、あの頃の兄の姿はきっと同じなんだろうと思った。
自分の素直な気持ちを伝えたのに、伝わらなかった。ただ理解して欲しかっただけなのに、理解してもらえなかった。破れかけたポスター。セロテープで補強された箇所に滲む想いが、あの時のように息苦しくさせた。


『ちゃんとな…話聞いてくれへん…息子が浮気でもしたんか、違うならなんで離婚になんかなるんや。我慢が足りへんのやないか…妻としてちゃんとやっていたんかって。あの人ら全然私の話聞いてくれへん…』


 好幸は返す言葉を見つけることが出来なかった。見つけてはいけないと思った。


『何言うても頭ごなしに否定されるから…もう勘弁して下さいって言って出て来た…もう無理やねん。』


 自分達の幸せを壊されたくなくて、自分達の大切にするものを守ろうとする。
その為なら、人の気持ちがどうであるかなんて関係ない。世間的に社会的にどうなのかを照らし合わせて、型にはめて、人の想いに、人の幸せに蓋をする。

正しさがないと正しくなれない悲しい人達。
基準がないと良いも悪いも分からない人達。
そんな人達に傷つけてられるのはいつも素直になる人。


『気をつけて帰っておいで。』


 それが唯一恵にかけてやれた言葉だった。それから2週間後、恵は正式に離婚をした。
娘二人に離婚の話を切り出した際、次女は事の重大さを理解しきれていないのか、それ程重く受け止めていないようで。


『そうなん。ええんちゃう。』と言っただけだった。




 長女のしほは対照的にその場で泣き崩れ、もう一度話し合うべきだと懇願したが、恵の決意が固いととると、暫く涙をこぼし続けた。
けれど、数十分後にはけろっとした表情で恵に『アイス買って来ていい?』と聞くと、お小遣いを貰い、近くのスーパーへアイスを買いに走った。繊細で有るが故の逃避。心が壊れてしまわない為の逃避だった。


 恵の母親に至っては『そんなひどいこと言うような人らと家族でおる必要はない。』と恵を庇うような発言はしたものの、幼い頃からの家庭不和を鑑みれば、それを優しさと受け取る余裕がこの時の恵にはなかった。

 ママ友の何人かにも離婚の報告をしたが、皆一様に『仲良さそうやったのに何で?』と二人に離婚の兆候など微塵もなかったかのように、心配するでもなく、これまでの夫婦生活についてを井戸端会議のネタでも探すように根掘り葉掘り聞いてきた。

 旦那は離婚届を提出した日から二週間程は一緒に暮らしていたが、ほどなくして一人暮らしをする為に家を出た。
その際に趣味でもあったアクアリウムの水槽等は、維持費のこと等を考慮して全て旦那が引き取ることになった。


 ほんの少しだけ家族の形が変わりはしても、それぞれがそれぞれの暮らしに戻るのは一瞬のようにも思えた。
あの薄っぺらな紙切れ一枚で決まってしまう人生に、はじめこそやり切れなさを感じていた恵だが、今ではその軽さが本当だったのではないか?とさえ思えていた。

 旦那の出て行った後の家のベランダ。
悲しい時。辛い時に逃げ込んでいたベランダが、今では安息の地となっている。
夕焼けが空を真っ赤に染め上げ、流れる雲が少しずつ形を変えながら見る者に想像力を与える時、恵の前に神秘的な景色が広がって見えた。


 それは互いに向かい合うように額を突き合わせる天使と龍のようだった。
恵は徐に携帯を構えると、その奇跡を写真に納めた。


向かい合う天使と龍の中心には、まるで愛を思わせるような美しい浅紅色が縦に伸びており、それはまるで大地と宇宙を繋ぐようにして続いていた。


 神秘の扉が開かれた瞬間だった。


【続く】

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