第24話 日常編揺らぎ【決別】

 それはいつものようにベランダで煙草をくゆらせながら、寒空に思慕を傾けている時だった。普段は自分しか用のないベランダに突然誰かが出て来た。
娘二人は学校へ行っている時間。この家に残っているのは自分を含め二人だけだった。
恵には目を向けずともそれが誰であるかは分かったが、彼女は動じることがなかった。
こうなることも時間の問題だったし、自分は何もやましいことなどしていない。




『ちょっと…話しええか?』


 それがどういう意味であるかは分かっていた。むしろ好幸と会うようになってからは、分からせようとしていた節さえある。
既に私の気持ちは貴方には向いていません…と。
ガラケーに付けたぺこちゃんのストラップが、満面の笑みで二人の会話を見守っている。
そのぺこちゃんが抱えているのは小さな地球。恵はそれを宇宙のペコちゃんと呼んでいた。
運命を抱えたペコちゃん。

 テーブルの上で組んだ両手を固く握りしめ、こちらを見据える旦那。
浅黒い手の甲には浮き出た血管が走っている。
昔は自分をストーカー男から救い出してくれた
暖かく大きな手に思えたが、今となってはカリカリに痩せ細り冷たさしか感じない。
恵はテーブルの下に手を隠し、俯いたまま目を合わせないでいる。その構図は、進路指導室に呼ばれた不良生徒と体育教師を彷彿とさせた。

 こちらの言い分には決して耳を貸さない大人。自分達の尺度でものを言い、偏見にまみれた常識でねじ伏せようとする正義。
一見物分かりの良さそうな教師であっても根本は変わらない。



『お前の気持ちは分かるんやけどなぁ…』



 気持ちが分かるなら、何故解決する為に自ら行動に移さない?問題が起きてから動き出すそれは、警察さながらの胡散臭さを感じる。




『それでいいの?』旦那が口火を切る。


 抽象的過ぎる問いかけ。それでも恵には核心をついた問いかけだった。
それと同時に旦那の発したその一言には色んな意味が含まれている。
妻としてそれでいいのか?
母親としてそれでいいのか?
人としてそれでいいのか?

女は責任転嫁をするのが上手い。その為なら自身の記憶でさえ捏造することさえいとわない。けれど男も差して変わらない。
自分が妻に対してどんなモラハラじみた態度や言葉を浴びせ続けていたかも忘れて、話し合いになると突然理論立てて諭してくる。
被告を問い詰める検事にでもなったつもりなのだろうか?
殺人を犯した人間と、その殺人犯を作り上げた毒親。裁かれるべきは被告に他ならないが、それで毒親のしてきたことが帳消しということにはならないし、毒親が罪を犯した我が子を問い詰めるなどという奇妙な裁判など存在しない。

 それに強いて言うなら、恵は何もやましいことはしていない。
妻としても旦那のモラハラに耐えながら家事と仕事を両立して来た。
母親としても忙しい合間を縫って、娘達の塾の送迎から学校行事に至るまで欠かしたことはない。
人としてどうかなんてものこそ、謂れのない事実だった。

テーブルの下で組んだ左手に、右手の爪が深く食い込む。


『じゃあどうすればいいんですか?私の何が間違っているんですか?』


 睨みつけるように旦那を見る。敬語は相手に丁寧な印象を与えるだけではない。時には突き放すような軽蔑にもなる。


『最近よく外出してるみたいやけど、何処かで誰かと会ってるんか?ベランダでも最近ずっと電話してるよな?相手は男か?』


『そうですよ。男友達です。貴方にもいますよね?沢山女友達が。』


 検事が被告に、被告が弁護人に次々と入れ替わる奇妙な裁判が始まる。これは離婚調停に他ならない。


『それは今関係ないやろ。』


『貴方は女友達が沢山いて、よく飲みにも出掛けてますよね?それと私が男友達と出掛けることの何が違うんですか?貴方は良くて私が駄目な理由は何ですか?私は彼とはまだ寝ていませんし。』


 旦那は背もたれに寄りかかると、両手をテーブルの下に隠し俯いた。
もはや体育教師でも、検事でもなく死刑宣告をされた未成年のように弱々しく見える。

 恵は旦那を一瞥すると『はあっ…』と溜息をつきながら席を立ち、テーブルの上のガラケーを乱暴に取り上げた。
その拍子に何かが床に転がる音がした。
旦那がいち早くそれを拾おうとしたが、恵は掠め取るように先に拾った。繋いでいた宇宙が切れていた。
長年使い続けて擦り減った糸が、ふとした拍子に切れてしまっただけのこと。
夫婦の縁なんてそんなものだ。
運命が切れて前へと転がり、私が先に拾う。
私が先に拾わなければ意味がないと感じたからこそ、旦那には拾わせたくなかった。
宇宙はまたも恵に啓示を与え、恵は初めて直感を信頼した。
そして同時に自分は間違ってはいなかったのだと確信する。
恵の中で何かがはじけた瞬間だった。


 その日何年ぶりかに夕食は魚料理だった。
それに文句を言う人間は一人もいなかった。

 

 好幸はつい数時間前に、メールで恵に想いを告げたばかりだった。
勿論今すぐ付き合うという意味ではない。恵の離婚が成立するようなことがあるなら、そこからの結婚を前提としたお付き合いという意味だ。勿論それすらも叶わず、家庭を続ける意志があるのなら二度と会わないとも告げた。
あれだけ女遊びをしてやると意気込んだものの結局はそんな度胸もなく、ただただ純粋に恵のことを想い続けていたのだ。一方で、恵からの返事は消極的にも思えた。
それは好幸に対して恋愛感情がないとかいうわけではない。結婚というものに対しての悲観的な意見ばかりが目立っていたからだった。
他人同士がこの先何十年と一緒に暮らすということがどういうことか。
人間は倦厭けんえんの生き物であるということ。
男は釣った魚に餌をやらないし、女は餌のある方へ泳いで行く生き物だということ。
読み進めれば読み進める程に、ふるいにかけられている気分だった。


しかし、ある一行の言葉がその全てを台無しにしていた。


【どれだけ初めは好き同士でも、一緒に暮らしていれば腹減ったり。】


 腹減ったり………?


 腹が立ったりではなく、腹減ったり?


少なくともこのメールから分かったことは、恵が結婚という形にこだわっていない事。
食いしん坊だという事だった。別に振られたわけじゃない。そもそも一緒に出掛けたのも数回程度だったし、恋愛経験の乏しい男が見切り発車したようなものだ。
別にこれでさよならというわけではない。
それに次も一緒に出掛ける約束をしている。好幸は一抹の不安を残しながらも、彼女は運命の人だから大丈夫だ…と運命の保証に縋り付いた。頭では理解したつもりでも、信じる心を持たない人間にはそうするしかなかったのだ。

 不意に好幸のガラケーが振動する。内心恵から『もう会わないでおこう』と別れのメールが来たのではないかと肝を冷やしたが、メールの内容は好幸が想像だにしていなかったものだった。


『別れることになった。』


 やはり彼女は運命の人だと思った。


【続く】

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