第12話 異世界編【旅立ち】

 甘い花の香りが鼻腔を撫でる。アングレカムが僕のことを虫と勘違いして、生命の存続をかけて奏でる歌。
僕は小さな虫に生まれ変わる。アングレカムの想いに応える為に。


それを良い香りだとか、あまり好みでないとか…花は人間の為に香りを歌うわけではないのだから当たり前だ。


花にとっては人間よりも、蜜蜂や蝶のような昆虫こそが、僕のような存在こそが、思慕を傾ける恋人なのだ。生命を紡ぐ恋人なのだ。


 昨日のヘカテの話のように、良し悪しを決めるのは人間のエゴでしかない。
それはそれだし、これはこれ。よそはよそ、うちはうち。ヘカテはヘカテでしかない。



この先、僕が僕を生きて行く中で、いろんな人にあれこれ言われたり、勝手にイメージを決められてしまうのは嫌だと思ったし、恐いことだと思うと、正直げんなりする。

 息苦しさが、太陽光に揺れる海面に手を伸ばす。あと少し、あと少し。
 心が沈んで行く、海面が遠のいて行く。引きずり込まれる暗闇に、僕は抗う術もなく海面にただ手を伸ばす。小さな、頼りない手を…伸ばす。

 呼吸の一つ一つが、小さな水泡となって僕から離れて行く。幸せ、喜び、愛。
僕を浮き上がらせ、海面に、陽の光に導く為の空気達が、僕から抜けて行く。

意識が落ちて行く…深く…深く…落ちて行く…そのさなか僕は見知らぬ誰かを見た気がした。その誰かはずっと涙を溢していた。
やがて僕はその誰かよりも深く落ちてしまった。


 目を覚ますと、黒のワンピースにドングリのネックレスをつけたグレースが、僕の小さな手をしっかりと握りしめたまま、僕の胸を枕にして眠っていた。
夢の匂いは、アングレカムの香りではなく、グレースの香りだった。
僕は虫にならずに済んだし、グレースの香りは、僕の為にあるような気さえしていた。

 

 今、僕が枕から頭を持ち上げるとグレースも自然に、僕の胸枕から頭を持ち上げることになる。気持ち良さそうに眠りについているのだから、それは可哀想だと思い僕は動かないでいた。
本当は繋いだ手が嬉しくて、離したくないだけだった。

 しばらくの間、白い天井をただただ眺めていた。グレースの寝息が緩慢なリズムを刻む。
すぅすぅ…すぅすぅと、まだ冬になりきれない、秋の終わりの金木犀のように、ほんの僅かに温かい寝息が甘い香りを運んでくる。グレースから香る甘い匂いが、香水の類ではなく、ドングリの首飾りから漂っていると気付いたのはこの時だった。


よく見ると、ドングリの帽子には、小さなコルクのような栓がついており、そこから甘い香りが漂っていたのだ。
何の香りかは分からないが、グレースの香りであることに間違いはない。


 すぅすぅ…すぅすぅ。心地良い微風に撫でられ、また瞼が世界を閉じてしまいそうになる。


『おはよ。』


 突然、眼前に現れたロイヤルブルーのギョロッとした瞳にびっくりして、僕は飛び起きてしまった。すると、グレースも一緒に飛び起きてしまった。正解には飛び起こされてしまったのだ。


『もぉぉぉ。気持ちよく寝てたのにぃ。』

 グレースが唸る。


 額から眉毛、瞼、まつ毛、瞳、涙袋、頬の順に、縦に横断した一本のレイライン。
何とも可愛い遺跡群を繋ぐ神秘の直線が、グレースの表情を面白おかしいものにした。


『トア!びっくりしたじゃないか!突然顔を出さないでよ!』


『もぉぉ。びっくりしたじゃない!突然起きないでよ!』


僕はトアに、グレースは僕に文句を言った。


『ごめんよ。驚かせるつもりはなかったんだ。』


『ごめんね。飛び起きるつもりはなかったんだ。』


 トアは僕に謝る。
僕はグレースに謝る。
グレースはあくびをしながら不機嫌になる。
 これがヒエラルキーというものだ。
最後に勝つのは決まって女の子である方が平和的解決となるのだ。三人の会話が混線する中、一番最初にチューニングをしたのは、ヒエラルキーの一番下、トアだった。


『昨日約束したように、今から君の名前を、三人、時に四人、二人の時もあるし、一人になることもあるかもしれないけど、とにかく皆で探しに行こう。旅は長い。まずは、用意しておいた服を着るといい。』


 そう言うとトアは大切そうに抱えていた衣服と靴を、衣服はベッドの上に、靴はベッドの足元に置いた。


『それに着替えたら早速ここを出て街へ行こう。私はグレースと一緒に部屋の外で待っているからね。落ち着いて着替えるんだよ。落ち着いてね?』


 そう言うと、トアはいまだぶつぶつ文句を言っているグレースを連れて部屋を出た。

僕はトアの用意してくれた衣服を広げてみた。上着は何の変哲もない真っ白の清潔な、長袖のTシャツ。
ズボンは、腰回りはキュッと締まっているのに、足首にかけてぷうっと膨らんだような、童話アラジンの主人公が履くような奇妙なズボンだった。色は黒で、何故か左足にだけグルグルの模様が入っていた。

 とりあえず着替えてみたものの、部屋に鏡がなかったので、似合っているのかが分からなかったが、僕にとって服は着るものでしかなかったから、全く気にならなかった。

ベッド上で着替えを済ませ、部屋を出て行こうと、ベッドから両足を投げ出し、靴を履き、足底を地面につけ、立ちあがろうとした瞬間、僕は産まれたての子鹿のように、ふらついてしまった。



ずっと横になっていた僕にとって、地面はもはや、海の上のサーフボードだった。
両手を慎重に床につけて、お尻を持ち上げるように両膝を伸ばす。
次は、両膝を信じるように、両手を床から引き離し、バランスを保ちながら慎重に上体を引き上げる。
ここは海の上、僕はサーフボードの上で立とうとしている。時折押し寄せる小さな波が、僕を大地から引き離そうと必死だ。それでもやるしかない。



上体を完全に起こせそうになると、次は前から突き飛ばされたように、後ろに倒れ込みそうになる。
倒れまいと、両手をプロペラみたいに必死で後方に回転させ、バランスを取る。
すると今度はまた前方に、ぐいっと上体が傾き倒れそうになるので、急いで両手を逆回転させてバランスを取る。
綱渡りで、高所から落ちそうになる仕草、それを何の変哲もない地面でやっているのだから、今の僕はさぞ滑稽だろうと思った。
そう思うとグレースには絶対に見られたくないと思った。


『きゃはははは!何してるの⁉︎まるで綱渡りしているみたいよ!』


 グレースと目が合った瞬間に、僕はどてんと尻餅をついて座り込んだ。
僕が尻餅をついた音を聞いて、トアが心配して部屋に入って来た。
お腹を抱えて笑い転げるグレースを尻目に、トアが僕の元に歩み寄る。


『大丈夫かい?ここは海の上ではないよ。ただの地面だと信じてごらん。』


 そう言うと、トアは手を差し伸べて僕を引っ張り上げるようにして立たせた。
僕もトアにそう言われると、問題なく立てるような気がしたので、ここは海ではないから大丈夫。ただの地面だから難なく立てる。


そう自分に言い聞かせた。
するとさっきまで産まれたての子鹿だった僕は、普通の人間に戻った。


『本当だ!普通に立てるよ!』


『君は普通に歩けるし、普通に走ることも出来る。君が出来ると信じることは全て出来るし、出来ないと信じることは全て出来ない。当たり前のことなんだよ?』


 でも現実的に考えて、何でも思い通りになるわけじゃない。むしろ思い通りにならないのが人生だ。大人達はよく言っていた。そんな記憶がある。我慢することが大切。苦労は買ってでもしなさい。それが常識だ。それが社会だ、人生は苦しいもの、あらゆる型にはめようとしてくる。
トアの言っていることを大人達に言ったらきっと馬鹿にされるか、変な宗教みたいに言われてしまう。


『さぁ、行こうか?』
『いきましょ!』


 さっきまでのワクワクが、ほんの少し減ってしまったけれど、ここを出て街に行けるのは本当に嬉しかった。


 真っ白の部屋を出ると、廊下もやっぱり真っ白だった。けれど廊下には等間隔で窓が付いていて、窓から差し込む日差しが、僕達の足元に自然のスポットライトを演出していた。
窓の外は、こちら側から見渡す限り、沢山の木々が建物を取り囲むようにして、生え揃っている。この建物が森の中にあることは間違いないようだ。


時折、鳥の囀りや、何かわからない獣の吠えるような声も聞こえる。
緑に溶ける日差しが、枝葉の隙間から光の粒子を降らせるように踊っている。


 僕達三人は、こつこつ命の歩みを響かせながら、大理石の廊下を進み、一番奥にある何の変哲もない、飾りっ気のないドアを開けた。そこは、10畳ぐらいの広さの部屋で、僕が目覚めた部屋のように、一面が真っ白な部屋だった。強いて言うなら明らかに場違いなものが、部屋の中央に備え付けられていた。


『これって…ゴンドラ?』


 ボディはくすんだ赤と、青ざめた青のストライプ模様。広さは大人8人は乗れそうな大きさ。ゴンドラから伸びたケーブルの先は、部屋の南側に空いた大きな穴の下方、吸い込まれそうな虚無の先へ続いている。


『街に行く…のよね?』 


 グレースが不安に声を詰まらせる。


『そうだよ。このゴンドラに乗って、街へ降りて行くんだ。』


『そっか!ここはきっと山の上だから、ゴンドラで山から降りて街に向かうんだね?』


『少し違うかな。まぁ行ってみれば分かるよ。さぁ行こうか!』


 この時の僕達はまだ知る由もない。
この世界では、一切の常識が通用しない。
そしてそんな世界を支配しているのは

 恐ろしい魔女達であることを。


【続く】

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