第11話 異世界編【ヘカテ】
翌朝なのか、翌昼なのか、翌夕なのか、もしかしたらあれから10分程度しか経っていないかもしれないけれど、僕は再び目を覚ました。 相変わらず全身はビキビキ痛んでいたが、昨日かさっきか分からない時に比べたら幾らかマシだった。 何よりも窓がないというだけで、暮らしがどれだけ不便なことかを痛感した。 仮に時計があったとしても、窓がないと、外に出てみない限りは本当に時間通りか分からないだろうし、何なら今が午前1時半だ…とか、午後6時40分30秒だ…なんて時計に表示されていたところで、外が時間通りの景色であるかなんて分からない。あくまでも時間という概念でしかないのだから、実態などないのだ。 そう考えると、やっぱり暮らしに窓は大切だなぁと思った。
時間を信用する為には窓が必要不可欠なのだ。
ベッドサイドには小型のサイドテーブルと、その上にはガラス細工の青い花瓶がある。 オーシャンブルーから顔を覗かせた少女のように、可憐なアングレカムがこちらに微笑みかけていた。 誰かの持って来てくれたお見舞い品だ。
何故花の名前が分かったのか?それは花瓶の脇に【アングレカムの花】と書いたプレートがが貼り付けてあったからだ。なんとも丁寧なお見舞いだろうかと感心した。 勿論それだけではない、丁寧な見舞い客が持って来てくれたのは花瓶に生けられたアングレカムの他にも、ベッド正面の壁には僕の目線に丁度合うようにして、何処かの誰かさんが書いたであろう三点の絵画が飾られていた。
一枚目は一番左。沢山の女の人が、一人の女の人を囲んで、議論をしているような絵画だ。作者も題名も分からない。ほんの少し丁寧さに欠ける見舞品だ。
二枚目は真ん中。梟と馬と裸の女の人と、何だか分からない顔が描かれた絵画だ。 これも作者も題名も分からない。やはり丁寧さに欠ける見舞品だ。
三枚目は一番右。緑色の花瓶がぽつんと置いてあるだけの絵画だ。勿論作者も題名も分からない。言うまでもなく丁寧さに欠ける見舞品だ。
どれも真っ白な壁に比べたら、素晴らしい絵画だということが分かったが、僕は個人的には真ん中の絵画が好きだと思った。 女の人が裸だからではない。勿論女の人の裸は綺麗だと思ったけれど、それだけで好きになることはない。何となく気に入ったのだ。
ふいに昨日のグレースと同じ、香水の香りが鼻腔を撫でる。
『グレース⁉︎』
絵画に夢中になるあまり、グレースが木製の椅子に腰掛けていたことにも気付かなかった。 ドアの開く音も、椅子に腰掛ける音も僕には聞こえていなかった。
『裸の女の人が好きなの?』
裸の女の人の絵画には夢中になっていたが、裸の女の人が好きなわけではない。
なのにグレースに指摘されると急に恥ずかしくなって、僕は急いで反論した。
『そっ⁉︎そういうわけじゃないよ!』
顔を紅潮させながら俯く。 まだほんの少し裸の女の人の姿が、印象に残っていたので、グレースの方に視線を映すと、グレースの裸を想像してしまいそうになった。 そのせいで裸の女の人の絵画も、グレースのことも見ることが出来なくなってしまったまま、汚れひとつないシーツに視線を落とした。
『おばかさんね。好きなら好きでいいじゃない!周りの目を気にして好きを好きと言えないことの方が、裸の女の人を好きになるよりも、ずっと恥ずかしいことなのよ!』
『正論なんだけど、正しくはないんだ。』
『何?』
僕の声があまりに小さ過ぎて、グレースには届いていなかった。 けれど、グレースは構わずに次の話題に入った。
『ところで、花瓶の花やあの裸の女の人の絵画は誰が持って来てくれたの?』
グレースはわざと僕をからかっているのだと思ったが、恥ずかしさの方が勝っていたので、怒る気にはならなかった。
『僕が目を覚ましたら、もうそこにあったんだ。きっとトアが持って来てくれたんだと思う。』
『トア?あぁ!モイそっくりな人ね!』
『うん。何もこっそり来なくてもいいのに。トアには会いたかったな…』
『私も会いたかったよ。』
ドアの前にトアが立っていた。 トアがドアの前に立っていたのだ。
『わぁ⁉︎本当にモイそっくり!髪の色も瞳の色もモイと全く同じよ!強いて言うなら髪の長さがモイよりは短いわ!それ以外は本当に瓜二つね!』
モイにも会ってみたいけど、トアにまた会えて嬉しくなった。
『トア!君なんでしょ?花瓶の花にはだ…壁の絵画を持って来てくれたのは!』
『そうとも言えるし、そうではないとも言える。何にしても君が望んだからね。昨日はよく眠れたかい?』
そうとも言えるし、そうではないとも言える…の意味はよく分からなかったけれど、昨日はよく眠れたので、僕は『うん!』とだけ答えた。
『よかった。でもまだ名前は思い出せないようだね?』
『うん…』
次のうん…は先程のうん!とは違い、素直に喜べないうん…だった。
『悲しくなる必要はないよ。名前が無いというのは、ある意味では自由なんだよ?君は君…のままでもいいし、誰にでもなることが出来る。それに君が名前を思い出せないのには必ず理由がある。思い出せない理由があるなら、それは思い出す理由にもなるのだから、心配しなくてもいいんだよ。』
『そうよ!だったら私が、仮の名前をつけてあげましょうか?そうねぇ…ファムニュなんてどうかしら?』
『変わった名前だね。それってどういう意味なの?』
『裸の女よ!』
きっとグレースは何でもないフリをして、僕のことをからかっているけれど、本当のところは、ヤキモチを妬いているのではないかと思えてきた。 僕が絵画の女の人ばかりを見つめていたから、きっとヤキモチを妬いているのだ。 グレースが部屋に入って来たのにも気付かないくらい、絵画の女の人に夢中になっていたから。 さすがの僕もそうしつこく言われたら、黙っているわけにはいかない。
グレースのことは嫌いではないけれど、グレースのいけずは嫌いだ。ヤキモチは少しだけ嬉しいけれど。 とにかく僕は今、ほんの少し嬉しくなりながら怒っている。その気持ちを素直にグレースにぶつけてやった。
『僕を好きなくせに!』
『ええ。貴方は好きよ!』
僕は目を丸くひん剥いて驚いた。 そして沢山嬉しくなりながら、沢山恥ずかしくもなって、また俯いてしまった。 胸の内がゾワゾワする。ギシギシよりは心地良かったが、ゾワゾワのせいでグレースを抱き寄せてハグしたくなった。 きっとこれはあの絵のせいだ。 裸の女の人の魔法か呪いにかかったせいだ。あの女の人は魔女で、絵画を見る人間に、情欲を掻き立てる魔法か呪いをかけてしまうのだ。 そもそも僕が、絵画の価値も分からない素人が、あの絵画に興味を示すこと自体おかしい。 きっとあの絵を見たその瞬間に、何かの魔法か呪いにかかってしまったのだ。
『ヘカテの魔法、もしくは呪いにかけられてしまったようだね?』
トアがまるで僕の心の内を読んだかのように話し始めた。
『あれはね。ヘカテという女神なんだよ。いや、今は亡霊の女神かな。彼女はね、元々はギリシャ神話の豊穣を司る女神だったんだ。それが時の流れと共に、魔女達の崇拝の対象となってしまって、今では魔術を司る女神として恐れられる存在となった。ちなみに彼女のヘカテという名前にはね、古代ギリシャ語で【意思】という意味が込められているんだ。』
トアの話を聞いていると、何故だかヘカテが可哀想に思えて来た。 彼女は彼女でしかないのに、見る人達によって女神様にされたり、魔術を使う恐い神様にされたり、裸の女の人なんて、一番最悪だ。 改めて見ると、絵画の中のヘカテは、体育座りで、何処か物憂げな表情をしている。 可哀想なヘカテ。
そう思うと絵画を見ても恥ずかしくなかったし、グレースも僕と同じようにして何処か切なげにヘカテを見つめていた。
『ヘカテの名前が、意思という意味なのも感慨深いとは思わないかい?』
トアがヘカテを見つめたまま、言葉だけをこちらに向ける。 今や三人共ヘカテに釘付けになっていた。
『ヘカテはヘカテでしかないのに、ある人には豊穣の女神、ある人には亡霊の女神に見えてしまう。本人が望む望まないに関わらずね。 人は見たいように見るものだからね。ある人には美しくても、ある人には醜い。崇拝したり、蔑んだり…でもやっぱりヘカテはヘカテでしかないんだ。』
絵画を見つめるトアの表情は僕からは見えない。でも僕には見えていた。一筋の光が、ロイヤルブルーを伝う様にして、白と同化した瞬間が。
『だからね。君達には何があっても君達であって欲しいと思うんだ。』
僕は自分勝手に恥ずかしくなって、グレースにいけずをされたと思い込んで、何にも悪くないヘカテの呪いのせいだなんて…全部自分のせいじゃないか。全部自分が招いたことじゃないか。魔法も呪いも、僕が僕にかけたんだ。ほんの些細なことなのに、それがまるで人生を狂わせた出来事への自責の念であるかのように、心に深く鋭い痛みが走る。
『大丈夫よ!貴方は一人じゃないわ!』
グレースが僕の小さな手を、同じように小さな手で優しく握りしめてくれた。 そして、小さな手と小さな手を包んだ小さな手を、トアの白くて大きな手が、優しく包み込んだ。
『明日ここを出て、一緒に本当の名前を探しに行こう。』
【続く】
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