第一話 臨 場


 春の息吹がまだ遠慮がちに街角を撫でる三月の下旬、戸丸町は冬の名残りを纏いながらも、桜の花びらが舞い落ちる季節を静かに待ちわびていた。


 通り抜ける街角の木々は、膨らみかけた蕾を抱え、やがて訪れる春爛漫の兆しに心を弾ませている。そんな穏やかな午後、戸丸町を巡るパトカーの無線から、突如雷鳴がとどろいたように緊迫した声が響いた。


「戸丸谷公園にて、事件発生。『マル被』不明。『マル害』三十代男性。署員、至急現場に急行せよ」


 春の柔らかな空気を切り裂くようなその声は、平穏な日常に一石を投じる。「マル被」は被疑者。「マル害」は被害者のこと。


「了解。こちらB東1の野々村。直ちに急行する」


 野々村鋼太郎、35歳。戸丸東署にある一課の独身刑事で、署内では「こたさん」と親しまれている。彼は、同じ職場で働く百合子と密かに愛を育んでいた。


 彼の相棒、安田純平は30歳の独身。イケメンで仕事熱心だが、少々鈍感なところも。野々村の後輩であり、公私にわたり親しい間柄だ。彼にも、幸子という名の恋人がいる。彼女は公園近くにある聖護幼稚園の責任者だった。


「鈍平、聞いとるか。幸子さんとは仲良くやってるのか?」


「はい。まあ、なんとか……。最近は忙しいからなかなか会えないんですけど」


 こんなやり取りは、警察署内ではできない楽しいものだった。


 突然、野々村は心機一転「急ぐぞ」と気合を入れて身を引き締めた。パトランプを点滅させ、サイレンを鳴らして、戸丸町の日常を背に事件現場へと向かった。

 道すがら、東警察署に連絡を取り、状況を確認する。殺害の可能性が高いが、事故の可能性も否定できない。死因不明の事件が発生していたのだ。


 通報者は、公園近くのそば屋の店員。出前の途中で、偶然にも事件を目撃したという。野々村は安田に向かって言った。


「おい、鈍平。俺らの活躍する『臨場』だ。もっと急げ。他の奴らに先越されるな。昼飯も終わり一服したかったが仕方ねえやろ。故人が『俺の声を聞いてくれ……』と涙を流して待っているんだ」


 事件現場に急行して捜査することを警察言葉で「臨場」という。野々村はどちらかといえば、口も悪く見た目も荒っぽいが、実のところは近ごろ警察ではあまり見かけなくなった涙もろい純情な男だった。


「こたさん、了解。僕は、ニヒルでハードボイルドな野々村さんに憧れています」


「本当かよ。お前はいつも調子いい男だな」


「嘘なんか言いません。僕はコンビが組めて幸せです。先輩のような第六感を持つ先輩も珍しいです。ただ、その髪と髭はきちんとした方が……。百合子さんにも嫌われますよ」


「バカ野郎、余計なこと言うな。早く一人前の刑事になって、幸子さんと結婚しろ」


 野々村は上司の署長たちからは、空気を読めない荒くれ刑事として煙たがられていた。彼の信条は、靴底のすり減りと頭の片隅でひらめく第六感を信じることだ。

 けれど、後輩たちからは鋭いヒラメキを持つ先輩として一目置かれていた。事件が解決するたび、野々村は夜の街で彼らと酒を酌み交わす熱血漢だった。

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