第2話 悲報はいつも突然に

 サウジアラビア、とある郊外の平屋。


 都市を離れれば見渡すかぎりの砂漠が広がるこの国は、今も王政が続き、石油は枯れることなく富をもたらしている。唯一失敗したのは紅海とペルシャ湾沿岸に設置された海水の淡水化工場くらいで、先進国に倣って徐々に庶民の生活水準や教育水準は向上し、今となっては歴史的大国イランを押しのけて中東の盟主の座についていた。


 今野誠こんのまことは、数年前に終了したプロジェクトの技術者としてサウジアラビアにやってきた。プロジェクトが成功し、その成果を携えて帰国すればよかったのだが、なんとなく窮屈な日本に帰りたくない気持ちが勝って、ついにはサウジアラビアに家を買ってしまった。砂漠の真ん中の、レンガで作られた平屋をリフォームし、それなりに快適な暮らしを安価に実現できたのは、この国の有力者にそこそこ貸しがあったからだ。


 誠の一日の始まりは、いつもどおりベッドから落ちて絨毯の上で寝ているところを、出稼ぎお手伝いさんメイドでインド人のメナハに起こされることから始まる。


「誠さん、起きて起きて。はいこっち、ヒーターつけてますよ」

「うあー……」


 低血圧でほとんど動けない誠を、ふくよかな体型のメナハはリビングまで引きずっていく。故郷に職人の夫と四人の子を抱える母であるメナハは、問題児がそのまま大人になったかのような男性くらい易々とあしらう術を心得ている。薄い大理石の板張りのリビングには古い電気ヒーターが熱気を放って鎮座し、その前にある赤い織り絨毯の上に誠を乗せると、ソファにかけていた昼寝用の毛布で体を丸ごと包む。こうしておけば血圧が正常に戻ったら誠はそのうち起き出してくる、とメナハは熟知していた。


「ありがとうメナハさん……スープあっためて」

「はいはい。サラダは?」

「いらない」

「温野菜にしておくから食べてくださいよ」


 蚊の鳴くような誠の抗議の声は届かず、オール電化のキッチンからは朝食の支度の音が床を伝って誠へ届いていた。誠はうーうー唸りながら、火力が強すぎるヒーターへ毛布越しに足を当てる。


 キッチンからメナハが誠へ向けて叫んだ。


「今日はディルガームさんが来る日ですよ。あの人は朝が早いから、誠さんも早めに支度しないと」

「あーいー。努力する」


 毛布の中で手足の指先をノロノロと握ったり閉じたり動かしながら、誠は気のない返事をした。血の巡りが悪い体を恨みつつ、誠はぼうっとキッチンから漂ってくる鶏肉のスープの匂いに鼻を利かせる。


 メナハの故郷インド南部ではとにかく香辛料を多種多様にたっぷりと使うため、誠には刺激が強すぎる。なので昔、無理を言って、香辛料をあまり使わない料理と作ってくれ、とメナハに頼んだところ、「分かりました」とだけ言ってメナハは日本風の鶏がらスープをこしらえた。どうやらネットにレシピがあったらしく、元々の料理上手もあって今ではすっかり誠好みの薄味の食事を作ってくれるようになった。


 朝は芋虫のような誠だが、基本的に生活が困ることはない。こうしてインド人の出稼ぎお手伝いさんである中年女性のメナハが身の回りの世話をしてくれるし、現地の友人のディルガームがしょっちゅう甘いものを持って様子を見にくる。今時サウジアラビアの砂漠はどこでも衛星通信が確立されているから、世界各国の大学の講義に講師として顔を出すこともできた。すぐに飽きてやらなくなったものの、俗世と完全に途切れているわけではない。


 もうすぐ四十を迎える誠だが、すでに隠遁した老人のような生活を送っている。朝に起きて食後には猫や犬と砂漠を散歩し、昼間は室内で読書かネット上の論文を読み漁り、夜は早めにベッドへ潜る。時折やってくる友人と語り明かすことはあっても、酒は一切入らない。それが何よりも気楽だった。日本にいたころはゼミや研究会が終われば飲み会、学会が終われば延長線は居酒屋とばかりに酒ばかり飲まされて、何度潰されたか分からない。絶対に肝臓を守らねば、と欧米に逃げても水代わりにビールを飲まざるをえないシチュエーションが何度あったことか。とにかく、酒のある国では誠は生きづらかった。


 砂漠には水はないが、酒もない。外国人のいる都市部には酒を飲める場所もあるが、現地人がそこを使うことはまずなく、誠のような世捨て人は特に出入りする理由がない。それもまた、現地の友人たちが誠を気に入っている理由でもあるらしかった。


 成人男性であるにもかかわらずひげもなく、酒も飲まず、妻帯もせず、寡婦である女中を雇い、隠遁する。友人がやってくれば歓待し、肌の色の別なく快く別れる。確かに仙人か隠者かとばかりの生活だ。


 しかし、知る筋には今野誠の名は知られている。そして何より、名前よりも有名なあだ名はこうだ。


 『メッカを浮かせた男』。飽き飽きするほど、世界中で唱えられたあだ名だった。


 超高圧水流を操り、表層の建物を固い地盤ごと剥離させた研究者兼技術者。月から垂れ下がる無数の特殊ワイヤーを使って、ムスリムたちの聖地メッカを月へ運んだ立役者、または大罪人として、今野誠は歴史に名を残した。


 本人としてはただ依頼されたから協力してプロジェクトを成功させたに過ぎない。とはいえ命を狙われる危険を考慮し、この国の王族から何度も護衛を派遣されては丁重に断り、最終的に家に引きこもることで周囲を呆れさせつつも折り合わせた。


 毛布に包まった芋虫から、なんとか脱皮した誠は赤い織り絨毯の上に座り込み、小さな飾り窓から外を眺めた。


 まだ地平線の先が白んでいる、晴れた朝の砂漠は寒い。日中は日差しが強くて暑く、外には出ていられない。そして夕方にはまた冷えてきて、夜間は布団と毛布に包まらなければやっていられない。


 誠の傍らに、三匹の猫が集まってきた。ヒーターの点火を察知して、暖まりにきたようだ。白い猫、雉柄の猫、茶虎猫、どれも猫本来のスリムで筋肉質な肢体を持ち、毛足は短い。誠は絨毯を彼らに譲り、毛布を被ったまま起き上がって、食卓へ向かう。


 砂漠は日本の畳文化と同じで、床に座って低いテーブルで食事を摂るスタイルだ。日本から持ってきた素朴なちゃぶ台はアラビアの伝統的な毛織物に囲まれ、なんともエキゾチックな雰囲気の中で異彩を放っている。日本よりもいくらか綿多めの座布団に腰掛け、すでにメナハが用意した朝食の前にやっと誠は辿り着いた。


 どんと盛られたタジン鍋の温野菜を避け、誠が手を伸ばしたのはスープだ。カフェラテボウル一杯の、澄んだ鶏がらスープに羊肉と香草の肉団子が入っていた。大きめのアルミスプーンですくったスープを、息を吹きかけて冷ましながら、誠はゆっくりと食事を始める。


「んまんま、美味しい」


 どでかい陶器のティーポットと耐熱ガラスのコップを持ってきたメナハが、誠のその言葉を聞いて上機嫌に鼻歌を歌う。彼女からすれば、誠は手のかかる子どもでしかないのだろう。誠もその扱いにまったく異論はない。下手に真っ当な大人扱いされると逆に困るし、そもそも誠は自分が立派な大人であるなどと思ったことはなかった。それは大学院に進んだころ、自分も周囲も教授さえも皆自分自身をそう思っていると知って、その見解にとても納得していた。一人で生きられないダメ男と元カノにこっぴどく罵られても、そのとおりですとしか答えようがなかったからでもある。


 しっかり血抜きして臭みを取った肉団子を小口で食べ、ふと誠はあることを思い出した。


「メナハさん、そろそろ故郷に帰る? もう長いこと帰省してなかったよね」


 キッチンから顔を出したメナハが苦笑していた。


「ええまあ、帰ってもいいんですけれど、誠さんが前みたいに倒れてたら心配だから」

「少しの間ならディルガームに面倒見てもらうよ」

「あの人は自分にも誠さんにも甘いからダメですよ」


 メナハの言い分があまりにも正論すぎて、誠は唸る。


 去年、メナハの次女が上級学校に入学すると聞き、一時帰省を了承して、その間の誠の生活はディルガームに頼んだのだが、一週間後に帰ってきたメナハは怒り心頭だった。


「またインスタントラーメンばかり食べて! 甘いお菓子の袋がこんなに! 何キロ太ったんですか!?」


 太ったと聞かれたのはディルガームである。誠はいつもどおりの痩せ型体型のままだ。


 それもこれも、ディルガームがメナハのいない隙に徹ゲーしようとウッキウキで誠の家に乗り込んできたからだ。日本製ゲームの大ファンである四十路のディルガームはハラル食品認定されたインスタントラーメンとスナック菓子を大量に持ち込み、日本人でテレビゲームに馴染みのある誠と話しながら、コントローラーを握ることが何よりも楽しみだったのだ。


 結果、一週間家に籠ったディルガームは八キロ太り、誠は寝不足と栄養不足でメナハにしこたま叱られる羽目になった。


 ディルガームが来ると日本の夏休みの男子中高生のような生活に戻ってしまうため、さして年齢も違わないのにすっかり誠のお母さんになってしまっているメナハは、ディルガームの来訪を警戒するようになってしまったのだった。


 粛々と朝食を食べ終え、ようやく体が動いてきた誠は立ち上がって伸びをする。その横でキャットフードをもらった猫たちも同じように伸びをしていた。


「ご馳走様。さて、スマホ」

「充電してますよ。昨日、ソファにほっぽって寝てたでしょう」

「ありがと」


 棚の上の充電スタンドに鎮座するスマホを手に取り、誠は画面上の通知を読む。


 すると、珍しいところからメールが入っていた。日本の国立天文台からJAXAへ出向していた知り合いの研究者が、広く周知を呼びかけている警告だと銘打って、誠にもCCカーボンコピーの警告メールを送ってきていた。


 そのCC元の送り主は、誠も予想しない意外なところだ。


NOAAアメリカ海洋大気局から? 何だろ?」


 ついと興味を惹かれた誠は、立ったままスマホをスクロールして注視する。


 警告らしく、比較簡略化された英文を誠が斜め読みしていくと、誠にとっては専門外ながら気になることが書かれていた。


 その文章は、悲壮感さえ漂っていた。



The sun is getting more active than it has rarely seen in history——Warning: The 'Ultimate Solar flare' from the 28th solar cycle poses an imminent threat, carrying a high probability of triggering a catastrophic event on a global scale for Earth. Despite ongoing intensive efforts by numerous national governments and international agencies to estimate potential damages and secure alternative communication infrastructure, it appears unlikely that these efforts will yield successful results. Precautionary measures might not be achievable in time.



 これを訳せば次のようになる。


 太陽は史上稀に見るほど活動的になっている——第二十八太陽周期の『極大太陽フレア』は地球規模の大災害を引き起こす可能性が極めて高く、対策を講じることは不可能である。現在、各国政府および国際機関による予想される被害の算出と通信を代表されるインフラの代替手段確保が最大限迅速に進められているが、残念ながらその努力が実るようには思えない。


 それを読み終えた誠は、思わずつぶやく。


「うぅん? マジで?」


 まるでハリウッドの災害映画の序盤に出てくるような警告だ。しかし、フェイクニュースではないだろう。


 誠はその情報を信じる前に、すでにSNS、各国研究機関の声明、科学者たちのコミュニティサイト、他のメールを手のひらのスマホだけで瞬く間に調べ上げた。アルファ世代のデジタルネイティヴ——その中でも科学的思考に特化したデジタルエリートらしく、考えるよりも先にさらなる情報を仕入れて確度を上げることが習性のように身に付いている。


 そして、嘘を吐けない身分の人間のこんな声明さえあれば、もうお手上げだ。




"In the face of the sun's fury, we find ourselves powerless. It is imperative that we prioritize the protection of human lives, steering clear of pessimism, as we confront this challenge." - William B. Baitset, Director of the National Oceanic and Atmospheric Administration (NOAA).


 ——太陽の怒りを前に、我々は無力だ。せめて悲観的にならず、人命を守ることを最優先に行動すべきだろう。——NOAA局長ウィリアム・バーセット




 誠は天を仰いだ。その天=太陽が人類にとんでもない苦行を与えてくるのだが、それに関しては誠の知ったことではない。


「どうしたんですか、誠さん」


 ハッとして、誠がスマホから顔を上げると、キッチンからメナハが心配そうに見ていた。


 反射的に誠はへらりと笑みを浮かべる。


「ああ、難しい話が出てたからつい。やば、準備しないとディルガーム来る」

「そうですよ。私は今日、猫ちゃんの病院に行きますから、お昼は冷蔵庫に入れておきますね。ちゃんと食べてくださいよ」

「うぃ、りょーかい」


 誠は、咄嗟に頭の中から極大太陽フレア警報について振り払う。それはあまりにも奇想天外で、現実味がなくて、それでいてやたらと恐怖を煽ることになりかねない。特に、メナハには伝えることができなかった。


 彼女の故郷インドは、複雑な土地柄だ。未だ十億人以上の貧困層を抱え、広大な都市部には先進国並みの建築物やIT網が備わっていても、その整備された土地を離れれば途端に想像を絶する原始的な生活が待っている。他国からは悪名高いカースト制度も根強く、メナハも最下層のダリットの出身ゆえに国外へ仕事を求めてきた過去がある。


 メナハの夫はシク教徒で、インド国内で大国化ナショナリズムの台頭とともに高まるヒンドゥー教至上主義を前に、娘たちも成人すれば全員国外へ出そうと考えているらしい。


(今だからこそ、極大太陽フレアが来る前に家族全員で国外に出るべきと助言したほうがいいのか。それとも極大太陽フレアで交通網が紀元前レベルに麻痺する前に、故郷に留まるべきでメナハも帰ったほうがいいと言うべきなのか……部外者がどうするべきだ、これは……)


 所詮は恵まれた日本人である誠には、メナハへの善意の答えが出ない。


 とにかく、今結論を出すことができない以上、誠は一旦、極大太陽フレアの脅威を忘れておくしかない。


 せめて、今日やってくる友人のディルガームに相談してから行動すべきだ。


 何せ、ディルガーム・アッ=シャンマリーといえばお節介焼きで、お調子者で、金持ちで、天才で、一応はサウジアラビア随一の科学分野における御用学者なのだから。誠はそう考え、まずは歯を磨きに洗面所へ向かった。

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