旅程の記
雪珊瑚
第1記 金椿
くしゃみを一つして顔をあげ、鼻をすんと鳴らす。前を行く背中はこちらの様子を気にも留めず、雪白の上着を翻しながら前へ前へと歩いていく。
私は本日何度目かもわからないため息をつき、その場で足を止めて辺りを見渡した。
右も左も上下もないような、かろうじて奥行きだけが感じられるような銀世界が広がっている。その中に、間違えてこぼしてしまった絵の具のように点在する椿の花が、嫌に鮮烈に目を焼いた。
「おい」
声が随分遠くから聞こえて、私は意識を眼前に戻した。
「何をしてる」
「別に、何も」
彼は不機嫌さを隠そうともしない表情でこちらを見下ろしている。それでも私が追いつくまで、わざわざ足を止めて待っていてくれるのだから、元来優しい青年なのだろうと思った。
雪原に刻まれた彼の足跡をなぞるように歩いていると、私より20cmは高いところにある頭が揺れた。
「なあ」
「うん」
「お前はなんなんだ」
なんなんだ、とは、聡明そうな顔とは裏腹に随分と要領を得ない問いである。本人もその自覚があるのか、苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「多分、わからないからここにいるんだよ。私みたいな人、今まで何人もここにきたでしょ」
「お前みたいに、泣きもしない騒ぎもしない奴は初めてだ」
「そっか。新鮮?」
「扱いづらい」
ふは、と思わず笑い声が溢れ、白い息になってふわりと逃げた。私は取り繕うことを知らない彼に安心感を覚えている。
ほんの数秒、そんな私の様子を眺めていた彼が思い出したように口を開いた。
「帰る気にはなったか」
ほんの少し痛んだ気がする心の臓は気づかなかったふりをして、ゆるゆると首を横に振る。
「全然。でもここは寒いから、別のところに行きたいかも」
「我儘なやつだな」
「別にいいでしょ。向こうじゃ誰も聞いてくれないんだから」
彼は小さく息をつき、懐から何かを取り出してこちらに手渡した。手のひら大の木の板のようなそれには、黒黒とした墨で【
「これは?」
「次会うやつにそれを渡せ。まあなんとかなるだろ」
早く消えろと言わんばかりに、追い払うような手つきで手を振られた。文句の一つでも言ってやろうかとも思ったが、いよいよ足先の感覚がなくなってきたため、さっさとこの場から退散することにする。
一人分になった足音と、背中に触れる視線に飲まれて、私は意識を手放した。
旅程の記 雪珊瑚 @kaguya-09
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