はじめに――デスゲームをめぐる言説の概観と問い

遊びは強制されてするものではない。仮に強制されるようなことがあれば、気晴らしとしての魅力や楽しさが消し飛んでしまうだろう。

—―ロジェ・カイヨワ『遊びと人間』(多田道太郎、塚崎幹夫訳)


実際、多くの場合、私はゲームに熱中しすぎて、身体をひどくこわばらせていたことにさえ気が付きません。私は死にたいとは考えていないと思うのですが、精神衛生上、おそらく死ぬことが必要なのでしょうね。

—―クライブ・トンプソン


これも王様の快楽の一つなのだ。

—―山田悠介『リアル鬼ごっこ』






 「デスゲーム」という言葉をまず定義しよう。

 Wikipedia「デスゲーム」の項目によれば、「フィクション作品におけるジャンルのひとつ。登場人物が死を伴う危険なゲームに巻き込まれる様相を描く作品、および劇中で描かれる架空のゲームを指す」とのことである。本稿ではこの定義を踏襲し、特に断りがない場合、「デスゲーム」という言葉を、上記の定義における前者、作品のジャンルを表わすものとして用いる。文脈に応じて「デスゲームもの」「デスゲーム作品」などと言葉を変えることもあるが、基本的に同義である。

 そして、上記の定義における後者、作品内のゲームを表わす際には、基本的に作中で明示されたゲームの名称を用いるか(『バトル・ロワイアル』であれば「プログラム」といった風に)、あるいは単に「作中のゲーム」などと称する。


 デスゲームに関する先行研究は極めて少ない。無論、『賭博黙示録カイジ』や『バトル・ロワイアル』、「イカゲーム」など、社会批評の要素を絡めて語られる作品も多々存在する。たとえば、現代ビジネスで連載されている木澤佐登志「生産性という病」の第4回ではスティーヴン・キング『死のロングウォーク』が扱われ、共産体制的な全体主義の抑圧がデスゲームに擬されているのみならず、新自由主義の台頭による懲罰的な自己責任像すらも反映されているのではないかと示唆する。しかし、このような作品評は、あくまで個々の作品に対する分析に留まっている。

 ジャンルとしてのデスゲームについての分析もないではない。飯田一史『「若者の読書離れ」というウソ』(2023)では、現代日本の中高生に読まれるフィクション書籍の特徴であるニーズの存在が主張され、「デスゲーム、サバイバル、脱出ゲーム」はこのニーズを満たす物語の型の一つであると述べられる。この指摘は後の章で再検討するが、ともあれ管見の限りでは、当該箇所が現代においてデスゲームを最も仔細に分析した研究である。しかし、それですら「若者の読書離れ」というテーマを追究する上で触れられた一トピックに過ぎず、デスゲームというテーマ単体を総括的に述べたものではない。

 デスゲーム単体を対象とした分析には、落ち物パズル「ぷよぷよ」の開発者で知られるクリエイター、米光一成の「デスゲームはゲームたりうるか? 『クリムゾンの迷宮』 が予示していたもの」(2011)が存在する。短い論考ではあるが、デスゲームの特性を考える上で示唆に満ちており、本稿でも後に検討する。そして、デスゲームというジャンル単体を対象とした分析は、管見の限りではこの論考を除いて他に存在しない。

 なぜ、デスゲームというジャンル単体をスコープとした研究が少ないのか。それは、デスゲームがそもそも娯楽系ジャンルとしては周縁に属しているために関心が払われづらいことや、SFやホラー、ギャンブルものや異能バトルものなどの複数ジャンルにまたがることが多い物語類型であるため、ひとからげに扱うことが困難であることなどが理由の一端と考えられる。しかし、デスゲームを研究しづらくさせている最も致命的な理由は、日本を中心に発展してきたデスゲームものには「現実社会の問題が反映されていない」という点にある。

 デスゲームがもたらす競争の要素には、新自由主義的な価値観が蔓延した現代社会の大衆に馴染むものがあり、この点においてデスゲームものはよく現実の社会を反映しているのではないだろうかと訝しむ向きもいるだろう。

 しかしながら、先述の木澤のように個別の作品の特徴を緻密に取り上げるのではなく、多くの作品に共通するような特性を過度に抽象化して評価するこのような議論は論点を拡散させるばかりか、「デスゲームは競争に満ちた現代社会の反映である」という言説を超えたものを何ら生み出さないと考えられる。そのため筆者は、本稿ではあえてそのような立場をとらないということを予め言明しておく。


 さて、「死のロングウォーク」には、木澤の主張するように明確にポリティカル・ホラーとしての側面が存在した。しかしながら、『バトル・ロワイアル』以降の日本のデスゲームものの系譜は、社会を写し取る視点を排除した作品群で成り立っていると言っても過言ではない。

 無論、「ダンガンロンパ」シリーズにおけるLGBT的要素を持つキャラクター造形の変化など、細部を見れば現実社会との対応関係を見出すことも可能である。しかし、このような反映はあくまで部分的なものであって、既存デスゲーム作品の大勢が変化するには至っていないと考えられる。

 日本のデスゲームものが斯様な状況にある中で、2021年にはNetflix配信の韓国ドラマ「イカゲーム」が国際的大ヒットを飛ばした。「イカゲーム」は明確にデスゲームものに分類される作品であり、娯楽ジャンルの中でも周縁的なデスゲームものがヒットを飛ばしたことに衝撃を受けた評者も多い。

 たとえば、松谷創一郎「『イカゲーム』はデスゲームを“重く”描く──韓国版『カイジ』がNetflix世界1位の大ヒットに」は、「イカゲーム」以前のデスゲームものの系譜を追いつつ(このまとめは非常に秀逸である)、そのような作品群が社会性と無縁であり、それによる「軽さ」が良くも悪くも歪な魅力を発していたと主張する。そしてそのような系譜を踏まえた上で「イカゲーム」は「軽い」ゲームを「重く」描いたからこそ全世界的なヒットになったとし、「それは、“ネタ”的要素をひねりまくって縮小再生産傾向にあったデスゲームを、“ベタ”にやった結果の「新機軸としての古典」とも言えるだろう」と結論づけている。

 また、宮永麻代「イカゲームが世界的ヒットした理由と日本のデスゲームが世界的ヒットしない理由」は、「イカゲーム」のヒット要因の一つとして、登場人物たちのバックグラウンドにある、現代韓国の社会問題といったドメスティックな要素を挙げる。また一方で、現実社会と地続きの舞台とシンプルなゲーム性によって、誰もが共感するポイントを用意しながらストーリーに焦点を当ててストーリーを組み立てた点は、「本来の詩(原文ママ)が軽んじられる複雑なゲーム構成を主流としたデスゲームものとの大きな違い」になると主張した。

 そして小野寺系「『イカゲーム』はなぜ世界中の人々の心を掴んだのか デスゲームとしての新たなアプローチ」は、日本のデスゲーム作品の供給量の多さに触れつつ「韓国の作品が世界でここまでブレイクした現象は、日本にとって“お株を奪われた”かたちだといえよう」と述べる。そしてデスゲーム作品の弱点として、ゲームの内容に焦点を当てるためにドラマ部分が貧弱である点を挙げながら、「現実の社会における弱肉強食の構造を追認することになってしまいがちなのではないか」と主張し、やはり「イカゲーム」の脚本に現実社会の問題点が反映されている点を賞賛している。

 総合して、①現実社会の問題を反映していない、②ドラマ性よりもゲーム性に焦点を当てている、③死が軽く扱われている、④上記①②③の結果ジャンルとして縮小再生産の傾向にあるという四点が日本のデスゲームの特徴であるという主張が、「イカゲーム」の国際的大ヒットに追随する形でなされてきたと言えよう。


 以上の主張は、「イカゲーム」という作品を分析する上で、言わば補助線的に持ち出されてきた言説であるため、その妥当性についての検討が必要であることは論を俟たない(特に②、③)。しかし、少なくとも、①に関しては筆者も同意するところである。先述の通り、この点がデスゲームを批評、分析、研究しづらくさせている最も致命的な理由となっているのであり、上述の評者たちが改めてデスゲームを語り始めたのも、現実社会の反映が見られる「イカゲーム」の国際的大ヒットを受けてから語らざるを得なくなったというのが実情ではないだろうか。

 では、現実の問題を反映していない、言い換えれば社会批評性に欠けている日本のデスゲームは、果たして批評的に語る価値がないジャンルなのであろうか。筆者はそうは考えない。

 確かに作品における社会批評性は世界観を立体的にするだけではなく、もっと直接的に、その作品が現実世界に与えるメッセージこそが政治的なアクションとなることが期待されるという側面もある。その点において、現代社会の問題を突いた「イカゲーム」については、既存デスゲームの文脈から一皮剥けた、革新的な意欲作だと評価することができるだろう。

 しかしながら、日本のデスゲーム表現史においては、作品鑑賞者と作品世界との間の関係性についてのユニークな考察が可能な環境が用意されてきたと筆者は考えており、本稿ではむしろこのダイナミズムこそを積極的に評価したい。この点については、デスゲーム史を通時的に語る視座が欠けていたために、今まで語り落されてきたものと考えられる。

 そして、いささか結論を先取りするが、その作品鑑賞者と作品世界との間の関係とは、すなわち、「鑑賞者と作品世界の登場人物たちの間による、作品が遊びであるか非・遊びであるかという認識をめぐる、非対称な対話」である。

 以上を踏まえて、本稿の目的を以下の三つに定める。


①:これまで総括的な歴史が語られなかったデスゲーム作品について、特に日本の作品に注目しながら、作品を各論的に追いつつ通時的に考察し、今後の展望を予測する

②:日本のデスゲーム作品に社会批評性が欠如している原因を探る

③:日本のデスゲーム作品においてどのような主題が見出されてきたのかを分析する


 また、この過程で個別の作品を各論的に取り扱うこともあるが、言及対象は古典的な作品から現代に発表されたものまで幅広く、さらに作品によっては言及する中で大オチまで明かしてしまうこともある。

 そのため、ネタバレを厭う読者は本文を読む前に、当文章「はじめに」の前に記した「本稿で言及する作品群」に目を通してほしい。「本稿で言及する作品群」では章・節ごとに言及する作品をピックアップしているため、あらかじめ確認することでネタバレを回避しつつ本稿を読み進めることが可能である。しかしながら、記載されている作品群はあくまで現状の予定を記したものである点に留意してほしい。


 まずは、日本にデスゲームが到来する以前の、言うなれば前史を概観しよう。話は1944年、第二次世界大戦の只中のアメリカで書かれた一編の短編小説から始まる。それを物したのは、短編小説の中でもごく短い形式の作品を得意とするSF作家であった。この形式は後に都筑道夫によって「ショートショート」として日本にも紹介され、星新一などの作家が広めていく。このようにしてデスゲームの種は、アメリカのSF的想像力から培われていくことになるのである。

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