そして、世界は色づく
月代零
前編
始めから世界の鮮やかさを知らなければ、それが失われたことを嘆く必要もない。
どこかの芸術家が残した言葉らしい。
人間はある時から、色彩を認識することができなくなった。
きっかけは、太陽活動が活発になったこと、環境破壊でオゾン層やなんやらに変化が起きたこと、あるいは生物兵器によるものという説もあるが、詳しいことはわかっていない。
最初は、光を少し眩しく感じる程度だったらしい。しかし、だんだんと空から降り注ぐ光をそのまま目に入れると、ひどい炎症を起こし、最悪の場合失明してしまうという事態が起きていった。
それを避けるために、人類は特殊な遮光グラスを作ったり、窓に遮光フィルムを張ったりと試行錯誤を繰り返し、やがては地下にシェルターを造って、モグラのように引き籠った。だが、人口の光でも、太陽光ほどではないにせよ、被害が出た。
そして人類が出した結論は、色彩を感じなくすれば、目を焼かれるのを防げるということだった。
目には光を感じる細胞があり、それが神経を通して脳に情報を伝えることで、目の前にあるものを認識することができる。そして、光には様々な波長があり、それぞれに反応する細胞がある。それがなければ、色を認識することはできない。そして、色彩を感じる細胞がなければ、被害を防げることが判明したのだった。
そのために編み出された方法は、遺伝子操作により、色を感知する錐体細胞を失くすことだった。
当然、倫理的な観点からも反対の声が多く上がった。だが、失明のリスクと天秤にかけて、その声は段々と消えていき、それ以降生まれてくる子供たちは、色のない世界を生きることになった。
同時にその時期、多くの画家を始めとする芸術家が世を儚んで姿を消し、文学作品からは色に関する表現が失われたのだった。
そして、モノクロの街の中を、
従来の視力低下とは違い、眼鏡などで補助できる性質のものではないので、多くの人間は個人差はあれど、不便を強いられるようになった。
だが、煌夜自身はそれを特に不便と思ったことはない。こんなものかくらいに思っていた。彼の祖父母の世代は、世界から美しいものが失われていくことを嘆いていたが、よくある老人の回顧主義くらいに思っていた。
煌夜は馴染んだ道を迷いなく歩いていく。よく見えないとはいえ、慣れた道ならなんとかなる。それに、この変化のお陰で、あらゆる場所のバリアフリー化が進んだ。多くの場所に手すりがあるし、小さな段差などもないように作られている。ぼんやりでも見えれば、歩くのに困ることはなかった。
目的地に着くと、煌夜はそのドアを軽く叩く。
「……」
少し待つが、返事はない。だが、いつものことだ。
「おい、じじい、入るぞ」
煌夜はドアを開け、遠慮なく中に入り込む。
室内は薄暗く、ものが雑多に置かれてごちゃごちゃとしていた。慣れた場所とはいえ、見えないとあちこちにぶつかってしまう。
がらがらと何かが転がる大きな音がして、ヤバいと思うのと同時に、奥からしゃがれた怒声が飛んできた。
「小僧! ものを壊すなと、いつも言っておるだろうが!」
「だったらちゃんと片づけとけってんだよ、じじい!」
売り言葉に買い言葉。このやり取りもいつものことだ。
奥からぼんやりと明りがもれている。そこには大きなキャンバスが置かれており、その前で背中の曲がった老爺が絵筆を握っていた。
この老人は、煌夜の祖父だった。色彩を認識できる細胞を持った最後の世代の一人だが、その目はほとんど見えていない。
とりあえず、日課の生存確認は済んだ。まったく、独居老人の面倒を見るのも楽ではない。
「ほらよ、母さんからの差し入れ。それと、頼まれてたやつ」
煌夜は料理の入ったタッパーと、小さなチューブを祖父の前に置く。
まずはタッパーの中身が好物の煮物であることを確認し、次に眉間により深く皺を寄せてそのチューブのキャップを開け、中身を見た祖父は、再び声を荒らげる。
「違う! 儂が欲しいと言ったのは、青の絵の具だ! これは緑だろうが、たわけ!」
祖父はチューブの中身を煌夜に見せるが、煌夜にはその明度が暗めだということしかわからない。
「知らねえよ。青って書いてあるじゃんか」
絵の具のチューブには、紛れもなく「青」と表記されている。しかし、祖父は緑だと言う。だが、祖父も目はほとんど見えていないはずだし、色彩を認識できない煌夜には、それを確かめることはできない。
「まったく、どこのメーカーだ。いい加減なモンを作りおって……」
祖父はぶつぶつと文句を垂れるが、それも仕方のないことだ。
人間の目から色彩が失われてから、色のついた絵の具やインクといったものは無用の長物と化し、まともなものは作られなくなった。カメラやディスプレイなどからも、色彩を鮮明に映す技術が急速に衰えていった。
それでもまだ生き残っている、色を認識できる世代の人間が、文化や技術を絶やすまいと細々と製造を続け、それをこの祖父のような人間が買い求めている。しかしそのサイクルも限界に近く、こうした粗悪品が出回っているのが現状だった。
「もうさ、じじいも見えてねえんだろ? 完全に見えなくなる前に、目を酷使すんのやめろって、母さんも言ってたぞ」
「余計なお世話だ」
ふんと鼻を鳴らして、祖父は再び絵筆を持ってキャンバスに向き合う。
煌夜は後ろからそれを眺める。祖父は絵を描くことに集中したいらしく、その背中が「もう帰れ」と言っているのが聞こえるようだが、煌夜は無視してその場に陣取った。
祖父には、失明しかけでもその色彩が見えているのだろうが、煌夜には陰影の区別しかつかない。何を描こうとしているのかも、正直よくわからない。どこかの風景なのだろうが、煌夜は地下に造られたこのコロニーで生まれ育ったので、外の景色を見たことがないのだ。
それでも、祖父がこれまで何を見て、何を描こうとしているのか、興味はあった。祖父の部屋には、たくさんの写真集や画集があった。祖父はそれを懐かしそうに眺めて、空は青く、森は緑で、花や虫にはもっとたくさんの色があるのだと煌夜に語って聞かせ、煌夜にも絵を教えようとした。
たが、どんなに頑張っても、煌夜には色彩というものを想像することすらできなかったし、よく見えない目で絵を描こうとするのは、疲れることだった。だから、じきに興味を失くした。
認識されなければ、それはないものと同じだ。
失明のリスクを回避した代償として、人類はあまりに多くのものを失ったのかもしれない。
※後編に続く
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