第9話 市野菘の場合ー天使と悪魔の財布ー④

「泥棒は言い過ぎだな」

薊は椿の頭をぽかりと叩いた。

「今日来れないって話、その財布の件だったの?」

桜はまじまじと財布を眺めた後、菘の顔を覗き込んだ。

「うん…さすがに交番に持って行かなきゃって」

菘としてはそれが当たり前の行動という認識であるが…。

「私ならまず中身を確認してだな、そんでいくらかを…」

椿の言葉に、こいつならやりかねないという表情で3人がじっと睨んだ。

「待って待って、冗談だって。けど、こういうときってさ頭の中に天使と悪魔が出てきてさ…」

椿は勢いよく立ち上がると、少し声色を変えて話し始めた。

「つばきちゃん、つばきちゃん、落ちている財布は交番だよー。落とし主が困っているよー。だから交番に届けようよー」

今度は少し低めの声で

「おいおい、つばき。この財布の中身はけっこうな額が入ってるぜ。少しばかり抜いてもばれりゃしねぇぜ」

「よくあるシチュエーションだよね。こういうときって正解はわかっていてもつい悪魔の声に誘惑されちゃう」

桜は何度か頷きながらつぶやいた。

「ちなみに、財布を交番に届けた場合謝礼を請求する権利が発生するんだ。とはいっても最大で20パーセント程度だったはずだけど」

さすが天才の薊。こういった知識にも強いのである。

「だから、仮に財布に10,000円入っていた場合、請求できるのは最大で2,000円かな。あくまでおおよそだけどね」

そっと薊は付け足した。

「じゃあ、まずは中身を確認する?」

そう言いながら椿はすでに中身を確認しようとした。

「いやいや、ちょっと椿ちゃん。勝手に見ちゃだめだよ」

財布を取り上げると、菘は鞄の中にしまった。

「まぁ、見ないほうが無難ではあるよね。もし中身を確認してお金が減ってるだなんていわれちゃ困っちゃうし」

桜はクッキーを手に取ると口に放り込んだ。もぐもぐと租借しながら話を続ける。

「善意で拾って届けてもあらぬ疑いをかけられるってこともあるもんね」

甘いはずのクッキー。中に入っているチョコが少し苦く感じた。

「桜さんが言うと説得力あるね」

菘は天を仰いだ。もちろん、交番に届けるのは決定事項だが、どうも人の心というのはわからない。善意の行いで疑われるならいっそ悪事でもしてしまおうと思っても仕方がない。きっと、悪魔とはこの仕方ない人間の負の感情が発生源なんだろう。

「やらぬ善よりやる偽善って言葉もあるし、私たちはすべきことをすればいいんだと思うけどなぁ」

薊は菘の肩をポンポンと叩いた。校内最強の天才の言葉にはどこかぬくもりもこもっていた。

「でも、私はやっぱり豪遊だけどな」

椿の発言に薊が素早くツッコミを入れた。叩かれる寸前、椿は持ち前の運動神経でかわす。

「まぁ、悪いことだってのはわかってるけどね。これもやっぱり人間の性ってやつよ。欲望に忠実な人間こそ、まさに人間であると思うけどね」

「そりゃあんた、人間じゃなくて動物だよ。人間ってのは考えるから人間なんだよ?知識こそ、この世界を生き抜くための最強の武器で…」

「違うね、身体能力さ」

「じゃあライオンにあんたは勝てるのか?」

「勝てるさ、ちょちょいのちょんぱだよ!」

「ちょちょいのちょんぱで食べられるよ!」

椿と薊の議論はこの後1時間も続くのであった。

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