わたしの胎教

プラナリア

BATTLE WITHOUT HONOR OR HUMANITY

 閉め切った部屋で1人『キル・ビル』を観ている、胎教のためだ。夫と胎児を殺された元殺し屋が復讐に奔走する物語で、だからお腹の我が子にもいい影響を与えてくれると思ったのだ。もっとも、もう半分の理由は家にあるDVDがキルビルの1作目(このシリーズは全2部作になっている)しかないからなのだけど。


 このサブスク全盛時代に古びたビデオデッキで映画なんて時代錯誤だと思うけど、この作品の全体にオマージュが散りばめられていて、何というかザラついた雰囲気が逆に合っている気がして、それが良かった。画面を見やると敵キャラクターの1人が武器の鉄球を振り回すシーンで、昨日夫に、ビニール袋に入った野球ボールで殴られたことを想起してしまった。鼓動が急激に早まった。


 夫は優しい人だった、いや、今でも根は優しいと信じている。半年前、元々収入の少なかった私たちは、子供を迎えるにあたって懐を少しでも増やそうと投資を始めることにした。でも夫が手を出したそれは全くの詐欺。気付いた時にはなけなしの貯金は全て失い、相応額の借金を強いられた。そして夫は、借り入れた先が闇金であったこと、投資詐欺と闇金の元締めが同じヤクザ事務所だったことに気がついた時、心が壊れた。


 私はストロングゼロの残りをガッと飲み干して、現実から画面上の幻想に目を戻した。夫や取り立て人も家にいなくて、パートや家事に追われていないこの時間だけが、私が私でいられる時だった。心の救いだった。だからこれを観ている時だけは現実を思い出したくなかったのに、そんなアンニュイな気分に浸りながら、私の意識はストゼロの酩酊感と画面の血飛沫に呑まれていく。


 気がつくと夜で、夫は既に職場から帰宅していた。私は立ち上がりながら青ざめた、怒鳴られる。けど、夫の口からは予想外に優しい声が返ってきた。


「おうただいま、疲れてたんか?まあ妊婦さんだしな、気にするなって」

「そっ、それでもごめん、今から急いでご飯作るから待ってて!」

「ん、ならたまには俺も手伝うか」

「えっ、あ、ありがとう……!」


 やっぱり私の夫は優しかった、今は苦しくてもこの子が産まれさえすればきっと、いや絶対に、私たちは幸せになれる。そして私たちは遅めの夕食を摂り、ぼんやりとバラエティ番組を眺めて、それからシャワーを浴びたのちに居間に布団を敷いた。ふと、背後から強い力で押し倒されて、布団の上で仰向けに押さえつけられた。


 夫は涙声で私に一方的に言葉を浴びせた、涙と唾液で私の胸元が濡れた。

 

「なあ俺もさ、よくよくよくよく考えてさ、思ったんだわ。終わってるんよ俺ら。無理なんよ今のままじゃ、どうあがいても」

「やめっ、苦し……から……」

「そりゃあ、俺だって悪いと思ってるよ。後悔しているし、二度とこんな苦しいことは味あわせないって誓うよ。でもさ、だからこそ今は夫婦で協力してこの難局を切り抜いていこうな?それでさ、あと再来月くらいで産まれる予定なんだろ?」


 その言葉で、私は全てを理解してしまった。視界が朦朧として、世界の音がくぐもった。それだけはしないと信じていたのに、私を殴る時もお腹の周りだけは絶対に避けていたのに。それから耳に届くのは断片的な言葉だけだった。


「俺たちで堕ろそう」「痛いのは少しの間だから」「俺たちで乗り越えよう」


 この時、私の心は壊れたのだと思う、自分は騙されていたと、道化だったのだと気づいた瞬間。ああ、夫はこの悲しみを誤魔化すために、私を殴っていたんだと、ようやく理解できた。でももう遅かった。ぼんやりとした視界で、夫の右拳が私の膨れたお腹に振り下ろされるのが見えた。もう終わりだった、夫の言う通りに。お腹の我が子はお日さまを見ることもなく死んで、それから元の日常に戻れる光景が思い浮かべなかった。だからそうだ、私も消えよう、この子と一緒に。


 そんな事を考えていた。次の瞬間、私の腹からものすごいアッパーカットが繰り出され、夫の下顎にクリーンヒットするまでは。


「ギョアアア!?!?」


 唐突な、そして予想だにしていなかった反撃に夫は悶絶していた。だが私もそれ以上に当惑していた、五感がクリアになるのを実感しながら立ち上がる。


 これは一体!?確かあの時、お腹の子に子宮を蹴られる感覚を数百倍にパワーアップしたような感覚を覚えたが、まさか。


「私の子が夫に反撃している!?」

「何言ってんだクソアマァ、家長の俺に一丁前に逆らいやがってぇ……死ねオラッ!」


 夫がこれまでにないレベルのDVを繰り出す!対してお腹の子も拳で連続ガード!両者は完全に拮抗……いや、拮抗ではない!


「う、うわあああっ!!」


私は情けない悲鳴をあげながら夫の首元を押さえつける。お腹の子との殴り合いに気を取られていた夫はなす術もなく押し倒される。


「我が子!今よ!」


 子宮に鋭い痛みが走ると同時に、我が子の高速パンチラッシュが夫の顔面に連続ヒットする!


「アガガガガガガガガ」

「死ねーーーっ!夫!死ね!」

「アガガ、ガッ」


 夫は遂に意識を喪失。もしかしたら後遺症が残る程の怪我を負わせてしまったかもしれないが、もう知った事ではない。


 夫の暴走、そして我が子の反撃。あまりにも情報が多すぎて処理できる気がしない。けれどもお腹の子は理解させる暇も与えてくれず、ど根性カエルみたいに私の体を強制的に動かした。そうだ、まだ闘いは終わっていない。そう思いつつ、我が子に語りかける。


「全く、手のかかる子」


◆◆◆


 世界は私の想像以上に狭いもので、家族の運命を狂わせた連中の本丸も家から徒歩で20分程の場所にあるのだった。


 破天那組、このヤクザ事務所は今、たった2人の女子供によって壊滅寸前の状態にある。


「なっなんじゃあコイツは!若えモンが全滅じゃねえか!」

「もうカタギだろうが手加減しねェぞオラァ!」


 鉄砲玉と思しきヤクザ3名が私たちに襲いかかる。我が子は……ヤクザ事務所の壁に掛けられていた日本刀を引き抜いた。我が子の剣戟に合わせて私も腰を振る。右!左!振り下ろし!


「「「グアアアア!?!?」」」


 ヤクザ共の新鮮な返り血を浴びる。冷静に考えると恐ろしいが、我が子が流させた血だと思うと愛おしいとさえ思えた。


その後も出涸らしのヤクザが大量に襲ってきたが次々に切り捨てた……まるでキル・ビルVol.1のクライマックスのようだった。そうか、私の胎教はこのためにあったのだ、そう思うと感動で視界が滲んできた。気がつくと、事務所に立つのは私と組長の2名。


「な、なんて事をしてくれたんじゃあ!儂らはただ慎ましくヤクザ活動をしていただけなのに!」

「うるさい!そのヤクザ活動で私らは借金を負って!夫がキチガイになって子供を殺しかけたんだよ!」


 壁際に逃げる組長に対して一歩一歩とにじり寄る。


「でももう私は泣き寝入りしない。このお腹の子が勇気を教えてくれたから!」


 そして私は右の拳を構え、同時にお腹の子も右拳を構えた。2人でやることは1つ。


「だから復讐してやるの!」


 ダブル右拳が組長の脇腹に刺さる!この時点で組長は激しく嘔吐するが、構わずダブル左拳!右拳!左拳!右!左!右!左右左右左右左右左右左右左右左右!!!!!!


「死ねェェェェェーーっ!ヤクザ!死ね!!!」

「死ァァァァァァ!?!?」


 断末魔を上げながら組長は完全に再起不能になり、顔面から床に倒れ伏した!後半のあまり私は万歳する。


「イヤッタァァァ!!!」


……2ヶ月後、私は獄中でお腹の子供を無事出産する。だが、その彼女がのちに拳一つで世界を蹂躙し、世界で初めてノーベル暴力賞を受賞する日が訪れるとはまだ誰も知らない。


【劇終】

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたしの胎教 プラナリア @planarius

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ