第36頁 末っ子の茜祢くん




「珍しい呼ばれ方で、ちょっと驚いた……」

「え?」

「皆、俺達の事は下の名前で呼ぶから。ほら、松野は3人もいるし」

「あ……そうだよね」



 此間、同じ事をのぞみちゃんにも言われた。しかし、目の前の彼がお兄さんの方が弟さんの方なのか、私には分からない。それを察したのか、彼は乏しい表情のまま、小首を傾げると握った両手を顎の前へ持っていき、あざとい女の子のようなポーズを取った。



「松野家の末っ子、茜祢あかねです。よろしくね」

「茜祢……くん……」

「はい」



 クールな表情、涼しい音声とあざといポーズのギャップが面白くて、私は小さく吹き出してしまった。茜祢くんは、そんな失礼な私に特段、腹を立てた様子もなく、口元に小さな笑みを浮かべてくれた。末っ子という事は、松野くんの弟だから……この人、一度図書室で会った事がある弟さんか! 

 私の中で漸く繋がったと言っても、それを相手に伝える訳でもないし、松野くんの弟さんと会ったのは、あの一回きりだったので、私達はそこから会話もなく、お互いにジーっと一点を見つめて黙っていた。




「……」

「……」



 茜祢くんは黙ったまま、私の座るベッドの横に立ち尽くしている。私は上靴は、茜祢くんの立っている方にあって、立ち上がろうにも、このまま足を出したら、彼を蹴ってしまうので動けずにいた。どうしようかなという思いから、無意識に目が左右に泳いだ。




「……兄さんは」




 視線を上げると、私の足に掛かっている布団を見ている茜祢くんが何か言い淀むように口から開閉していた。その声は、松野くんより少し低く感じる。ポソポソと一つ一つの単語を口にする彼に、松野くんと違って、口下手なのかもと勝手な妄想を膨らませていた。



「ちゃんと、字が読めるの……?」

「……へ?」




茜祢くんの口から飛び出した、思わぬ言葉に私はポカンとした。



「字……ですか?」

「うん」

「読めますよ!」



 慌てた。


 だって、弟なのに! 松野くんて、絶対地頭良いタイプなのに! そんな言い方!? 気付いたら、自分の事でもないのに、物凄く慌てて弁解していた。




「松野くん、読むスピードどんどん早くなるし、お話は面白いし、頭の回転早いなって思いますよ! 私!」




 私のフォローに茜祢くんは、首を傾けて私を視界に捉えた。目が合った彼は、本当に松野くんと良く似ていた。松野くんじゃない事は分かるが、弟さんを見ると私の脳裏に松野くんがチラついて、心臓が痛くなった。もう随分と話していないからだろうか? 毎日教室で顔を合わせているのに、会いたいなと思ってしまった。




「頭の回転……? 速いかな?」

「速いです!」

「嘘」

「本当ですよ! あんなに読書家で、読解力もあるのにどうして現国も補習対象者なのか分からないですもん!」

「は?」



 茜祢くんは「補習?」と言って、私から視線を外すと暫く考えていた。そんな彼の反応に私も不安になる。





“あれ? 松野くん、現国も補習だった気がするけれど、違った……?”





 暫く考えていた茜祢くんは、ぺちんっとおでこに片手を置くと項垂れるみたいに深い溜め息を吐いた。地を這うような溜め息に私は、ビクッと肩震わせる。何かいけない事を言っただろうか。

 茜祢くんは、びくびくと震える私を一瞥すると、こちらに背を向けて「ごめん、変な事言った。補習だったね」と言いながら、カーテンの向こうへ歩いて行ってしまった。私は、ベッドから足を下ろして、上靴を履いて立ち上がった。ほんの少し、頭がふわふわしたけれど、大丈夫そうだ。ベッドを囲っていたカーテンの外へ出てると茜祢くんは、ソファーの上に横になって、ぼんやり天井を見つめていた。




「あ、あの……」




 情けなく震えた声を掛けると、彼は顔をこちらに向けた。




「今って……何の時間ですかね? 終業式は……————」

「終業式は終わって、LHRだよ。終わったら呼びに来るって言ってたから、ゆっくりしてなってば。そのうち終わるさ」




 そこまで言って、茜祢くんは、また天井を見上げる。もう平気なのに此処で休んでいるのは、サボっているみたいで気が引けた。でも教室に戻って行って、何となく冷たい?温い?視線を浴びるのは、もっと嫌だった。しかも私……鼻血ブーだった訳だし。



“タイミング最低では?”




 罪悪感と羞恥に背中を丸めて、私は近くの椅子に腰掛けた。その後は、茜祢くんが上半身を起こすまで言葉のない時間が続いた。私は、そもそもお喋りは得意じゃないので、その沈黙も苦痛とは思わなかった。

 上半身を起こした茜祢くんは、ソファーに座り直すと私をじーっと見ていた。沈黙は苦じゃないけれど、注目は苦痛だ。正直……。緊張で私の手が汗ばんできた頃、彼は唐突に切り出した。




「……兄さんと同じクラスなの?」

「お兄さんて、松野くんの事……ですか?」

「松野……まぁ、そうなんだけど、どの松野?皆松野なんで」

「あ、そっか。蒼唯あおいくんと同じ、5組です」

「ふーん……」

「茜祢くんは、何組ですか?」

「俺? 6組」

「あ、隣のクラスだったんだ」



 と言うか、6組ってうちで唯一の特進クラスだ。松野家の末っ子、茜祢くんは分かりやすく頭の良い人だという事だ。

 彼が特進クラスの生徒だと分かったら、さっきの松野くんは頭が悪いという発言も納得である。




「そっか、1組と5組じゃ接点も無いか……」




 独り言のように小さく呟いたが引っ掛かる。何故、1組が出てくるのか。

 1組は、体操服を届けた智翠ちあきくんのクラスだ。どういう意味なのか聞きたかったが、独り言をわざわざ拾って、話を広げるのも如何なんだろうと及び腰になってしまい、結局書く事は出来なかった。


 その時、保健室のドアが開いた。私も茜祢くんも2人してドアの方を向く。



「香絵、大丈夫?」

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