第34頁 緊急事態






 戯れつく俺達を他所に蒼唯はスクール鞄から、筆箱と教科書を出している。その横顔がどうも機嫌が良さそうで……。ちょっと、浮かれてる?



「……蒼唯」

「ん?」

「今日さ、なんか機嫌良くない?」

「え!?」

「何? 良い事でもあったの?」

「べ、別に良い事なんて無い!」




 俺のにやけ顔が気に入らなかったのか、蒼唯は変にムキになって言い返してきた。なんだか顔も赤い。そんな反応をされるとは思っていなかったから、驚いた。




「え、何? 何をムキになってんの?」

「そういうつもりじゃないけど……」

「なんだよ。良い事あったなら、あったでいいじゃん? 変に否定したりさ〜。怪しいよ?」

「……別に良い事じゃないって……」




 蒼唯の反応が面白くなくて、俺は態とらしく目を細め、疑いの眼差しを赤く染まった横顔へ向けた。暫く無言のバトルが続く。ガン無視を決め込む蒼唯に、俺は懲りずに視線を投げ続けた。蒼唯も随分長い事、無視を決めていたけれど、最終的には根負けして「もう! 言うよ!」と叫ぶ羽目になるのだった。

 体毎、俺の方へ向き直り、まるで怒っているような気合いの入った険しい顔をしている。しかし、蒼唯の語った内容は、実に可愛らしい物で、俺は拍子抜けしてしまった。




「今日、クラスの子に『補習頑張ってね』って、言われたの」

「ふーん、女子?」

「うん。話した事無い子だったけど……」

「は? 話した事無い子に? いきなり?」

「うん」



 成程、それで浮かれちゃったってわけ? 我が弟ながら、随分と単純である。




「ふーん、それでご機嫌さんだったんだな」

「ご機嫌ていうか、ちょっとね。悪い気はしないじゃない。」

「へぇ……」





 蒼唯が素直なんて珍しい事もあるものだ。そうなると、今度はその女子生徒に興味が湧いてくる。

 女子と話して、悪い気がする奴はいないと思うが、蒼唯が良い浮かれ方をしているのを見ると、もしかして結構好みの子だったのか?なんて、邪推する。




「誰なん?」

「…………は?」





 たっぷりの沈黙の後、心底嫌そうな声が響いた。




「いや、『は?』じゃなくて、その女子って誰?」





 俺の質問に対し、怪訝そうに眉を歪めた蒼唯。しかし、そんな風に凄まれたって、俺は全然怖くないし、好奇心が勝る。話した事が無いのに、突然「補習頑張ってね」とは、そちらも脈アリでは? そんな事を考え出してしまったら、面白過ぎて、そっとしておいてやるなんて、俺には無理だ。






「教えたところで、智翠は知らないと思うよ」

「勿体つけるなよ。で? 誰?」

高橋たかはし香絵かえって子」

「…………え?」



 高橋香絵。


 2ヶ月程前、図書室で初めて会った日。俺が拾った彼女の図書カードに記入されていた名前が頭に浮かんだ。




 ——————高橋香絵



「……う……そ……」

「え? 何?」




 動揺でぎこちなく呟いた言葉は、上手く音になっていなかったみたいで、「聞こえないよ」と蒼唯が此方へ耳を近付けた。




「あ……何でもない……」





 何とか取り繕おうと言葉を紡ぐけれど、脳内にはずっと警報がウーウーと鳴っているような心地だ。高橋さんと蒼唯は同じクラスで、ちょっとした雑談が2人の間で交わされるのは、至極当然で……。

 でも、相手は女子とは縁の無い蒼唯だし、恥ずかしがり屋の高橋さんだしで、俺はすっかり油断していた。今までの暑さのせいでかいていた汗とは違う、嫌な汗がじんわり背中に浮かんでくるのが分かる。



“ヤバい……”



 そればかりがぐるぐると渦巻いて、頭がグラグラする。




「?? ……智翠?」





 俺の様子が変な事な気付いたらしい蒼唯は、首を傾げて此方を見ていた。高橋さんと蒼唯が教室で話すようになったら、俺が自分の口から真実を明かす前に全ての嘘が露呈する。全身から血の気が引いていくのが分かった。急に全ての事が怖く感じて、唇が小さく震える。




「おい、蒼唯……」




 声は震えていなかったと思う。やっとの思いで蒼唯を呼ぶと、蒼唯はまた怪訝そうに眉を寄せる。



「何だよ」

「あんまり調子こくなよ」

「はぁ!?」



 何を言うのが正解か分からないまま、とにかくこの場をやり過ごせて、秘密が明るみに出るまでの時間を稼ぐような牽制をと考えて刺した釘は、酷く理不尽だった。これには蒼唯も気分を害したようで、プリプリと怒り出す。



「こいてないっつの! 本当にムカつく!」




 フンッ!と鼻息荒くこちらに背を向けたが、俺の動揺を気取られた様子は無かった。蒼唯の背中を見ながら、悠長に物事を進めている場合ではないと頭をフル回転させるが、良い考えは一つも浮かばなかった。いっそ、直ぐにでも正直に話してしまおうか、なんて一瞬考えたけれど、途端に怖くなって、どうしても実行に移そうと思えなかった。誰にも悟られないように制服の袖をギュッと握って、乱れてしまいそうになる呼吸を保つだけで精一杯だった。








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